長らく留守にしていた落伍者が、忌避していた実家の門前に足を止める。
その理由はただ一つ……愛していた人の、愛娘を救出するため。
人並みの幸福を求めるなんて間違いだ。その言葉のどこが、本心から言ったものだと言うのか。
だがそれを考えるより先んじて、落伍者の怒りの矛先が向けられた。
陰湿なことこと上ない古屋敷に、二度も訪れまいと……そう決意していた間桐雁夜は、今一度、門前を叩いた。
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時は遡り、冬木市の公園。
「葵さん」
「……あぁ、雁夜くん」
雨避けの屋根の下に位置する連接ベンチに腰掛ける遠坂葵に、出張から帰ってきた間桐雁夜が辿々しく声を掛ける。
……恐らく雁夜は、如何なる人混みであろうとも、遠坂葵を見間違うことはないだろう。
だが雁夜は、あの日、遠坂葵と結ばれなかった……否、結ばれることへ懐疑していた。
そして、雁夜ではない葵の夫。遠坂時臣に対して、雁夜は嫉妬しながらも、その事実を認めざるを得なかった。
愛していた者の幸せを願うならば、彼以上の見合う男はいまいと。
そう結論付けたあの日から、雁夜は葵との会話が続かなかった。
だからこそ、話しやすい相手を見つけ出す。
戯れる子供たちの中にーーーー居た。
「凜ちゃん」
「あ、雁夜おじさん!またオミヤゲ持ってきてくれたの!?」
「これ凜、行儀の悪い……!」
黒髪を二つに結った少女、遠坂凜は、年相応の遊戯にはそぐわず、少しませた趣味をしていると雁夜は熟知している。
故にこそ、雁夜が選び抜いた大人びたブレスレットに、凜は双眸を煌めかせる。
「わぁあ……雁夜おじさん、ありがとう!」
「凜ちゃんが気に入ってくれたのなら、おじさんも何よりだ。
……桜ちゃんは?」
途端、凜の綻びの破顔は虚ろな能面に切り替わった。
雁夜が懐から取り出した、凜と御揃いのブレスレット。それを渡すべく少女の居所を聞くや、凜は冷徹な声音で事情を知らぬ雁夜へ言った。
「桜はね、もういないの」
そういって、戯れる子供たちの中に舞い戻っていった凜の矮躯な背を、懐疑の眼で見据えて……雁夜は傍らに座る葵へと訊ねた。
「……葵さん、一体どういうことだ?」
「桜はもう、私の子ではないの。……あの子は、間桐の家に行ったわ」
"間桐"。
その名を聞くや、雁夜は声を荒げて質した。
「なんで……なんでその名前が!?」
「間桐が正式な素質を持った魔術師の子を欲しがる理由、貴方なら分かるでしょう?
それに、これは遠坂の当主が決定したことよ。私が口出しできることじゃない。魔術師の妻が普通の幸せを求めるなんて、間違いよ」
葵は事務的な口調でそう告げるや、瞬時、まるで雁夜を卑下するかのような眼を向ける。
だが雁夜はそれに気付く由もなく、葵を叱咤した。
「嘘だ!君は、君は本当の幸せを求めていた筈だ!だからアイツと……」
「これは、間桐と遠坂の問題よ。魔道の道を諦めた貴方には、関わりのない話」
雁夜にはもう、反論の余地がなかった。
……それも、これは二度目だ。
何故、ここでその言葉が言えないのか。
『それでいいのか』と。
それきりに黙りこくった雁夜へ、葵は元の微笑を取り戻す。
「もし桜に会ったら、仲良くしてあげて。……あの子、雁夜くんには懐いていたから」
尊き日々が音を立てて崩れてしまったのは……その日からであった。
「落伍者が……もう二度とその面を儂に見せるでないと、確かに言っておった筈じゃがな」
「遠坂の二女を迎え入れたそうだな」
実家の広間に入るや、眼前には、殺意以外の何物も持たなかった父親が佇立していた。
目は窪み、禿頭になり果ててなお、その妄執に歪んだ眼光は衰えを見せない。
「ホォ、情報が早いの。じゃが、魔道の道を外れたお主にはもう、関わりのない話じゃ。そもそも元はと言えば、お主が正式に間桐の魔術を受け継いでいれば、このようなことにはならなかったというのに、お前という奴は……」
「御託はやめろよ、吸血鬼。アンタはアンタ自身の不老不死のために聖杯を求めているだけだろう」
「呵呵ッ」
間桐臓硯は、雁夜の指摘を一笑に伏し、淡々と事情を説明していく。
「確かに間桐からは第四次聖杯戦争に出せる駒がいない。お主ならまだしも、弟の鶴夜めは素質がない。
ついちは、鶴夜めの子には素質が持たずに生まれてしまった。……ならば、今回の聖杯は諦め、次回の聖杯戦争に賭けるか……そういう結論に至った儂にとって、遠坂の二女は正に天恵じゃった」
「……取引だ、間桐臓硯」
しゃがれた声音で語る臓硯の言葉を遮り、雁夜は冷ややかに言い放つ。
「俺が今回の聖杯戦争で聖杯を持ち帰ってやる。それと遠坂桜の身柄を引き換えにしろ」
「呵呵ッ。今の今まで何の鍛練も積まなかった落伍者に、一体なにを期待しろと……」
「それが出来る術が、アンタにはあるだろ」
雁夜の背後に回った臓硯が眉をひそめる。
「ーーーーヌゥ?」
「俺に刻印虫を植え付けろ」
「雁夜……死ぬ気か?」
臓硯の秘伝の魔術……即して間桐の魔術は、題材的に虫を使い魔として扱う。
その異端さや恐ろしさに関しては、雁夜がもっとも理解している筈だ。
「まさか、心配だとは言わないよな。お父さん。間桐の問題は間桐で解決する……部外者を巻き込んでたまるか」
「……呵呵ッ。良い心掛けじゃ。が、部外者を巻き込まないのだったら、些か遅すぎたようじゃな、雁夜」
「ーーーーッ!爺、まさか!?」
雁夜は臓硯に連れられるがままに、二度と目にしまいと決意した蟲蔵へと踏み込んだ。
果たして、暗闇に支配された蟲床の中央に、雁夜は見慣れた少女を見咎めた。
「桜ーーーーっ!」
眼下に夥しいほどに群れる蟲が、少女の体を蝕む。雁夜は堪らず防護フェンスを乗り越えて飛び込もうとするが、その背を、臓硯が呼び止めた。
「さて、どうする。頭から爪の先まで蟲どもに犯され抜いた壊れかけの小娘一匹……それでも助けたいというのならば、考えてやらんでもない」
「異存はない」
先程の提言に臓硯が釘を刺すが、雁夜は意に介すこともなく、即答する。
その無様さと滑稽さに憫笑しながらも、臓硯は陰鬱に言った。
「あぁ、じゃがな。儂の期待はあくまでも次次回の聖杯戦争よ。お主が聖杯を持ち帰るまでは、桜の調教は続けさせてもらう。
……じゃが、万が一にもお主が聖杯を持ち帰った場合。応とも、それならば小娘は用済みじゃ。アレの教育は一年限りで切り上げてやる」
「異存はないな」
返答の代わりに木霊した憫笑が雁夜の耳を聾する。
だが雁夜はそれを気にかけることなく……眼下で数百万を越える蟲に身を投げ出した虚ろな少女へと、決意と慈愛の眼差しを向けていた。