──帰りたくない。
知生と別れた後だ。オレの家には普通に歩いても5分ほどで着いてしまう訳だが、どうしても帰りたくない理由があった。
いじめてくる親がいるからだ。
最初にいじめてきたのは、いつぐらいだろう。小学2年生ぐらいの時からだっただろうか。父さんが突然暴れて、どうしようもできなくなったことを覚えている。しかも5歳の弟がいる前でやったから、かなり危なかった。
いや、正確には一足遅かったのだが。暴れた際に投げ飛ばし飛んできたガラスの破片が、弟の眉間に当たったのだ。
あの時、どうして突然暴れたのか正確には分からない。元々親の仲が良いわけではなかったのでその理由もあるのだろうが、もっと理由が無いと暴れる理由になりきれないだろう。
「……くそっ。」
そうこうしている内に、家に着いてしまった。このドアすら、開けることに勇気がいる。
──親が、知生みたいな優しい親だったらな。初めて訪問した時から、そのことをずっと思っていた。
外にずっと居るのも寒いから、ガチャとドアを開ける。そして迎えてくれたのは、散乱した玄関だった。
「……ただいま。」
感情を隠すために、わざと低い声でそう言う。実際に、感情を隠し切れてるかどうかは分からないが。
「どうやら、今日も道草をせずに帰ってきたようだな?」
独特のダミ声を出して、オレの父さんは姿を現す。その姿は、堕落の化身と言うに相応しい、デブな身体をしていた。
「……さっさと皿を洗え。」
返事をせずにいると、父さんは乱暴に命令した。正直、こんなやつの命令なんか従いたくない。『お前なんか大嫌いだ!』だとか言って、この家から出てしまいたい。
だが、他に行く宛もないし、そんなことをしたら脅されるのがオチだろう。悔しいけど、我慢するしかなかった。
オレが渋々キッチンのシンクに向かうと、父さんはふんと不満げに鼻を鳴らし、リビングに戻っていく。
はあ、と父さんに聞こえないぐらいのため息を吐く。今日はまだいい方だ。前なんか、家に帰るなり『パチンコで失敗したのはお前のせいだ!』と父さんに濡れ衣を着せられて、腹を殴られたことがあった。
──本当に、汚いやつだ。
皿を洗いながら考えるのは、知生のこと。知生は今、何をしているんだろうか。勉強してるのか?いや、ゲームしてるかもしれないな。もしかしたら寝てるのかも──。
いや、何を考えてるんだ。そう思って、目をぱちくりさせた。最近、暇さえあればこれだ。物思いにふける時間があると、知生のことばっかり考えてしまう。
オレは別に、男は好きじゃないのに。なんで知生のことはいつも考えてしまうんだろう。知生のことを考えると、何故か心がほっこりする。まるで絶望しきったオレに、希望の光を照らしてくれるみたいな──。
でも実際、知生だけが頼りだ。知生のおかげで、今日も生きたと実感できる。それは何よりの命綱だった。
そんなことを考えてグラスを拭いていると、グラスが滑る。
「あっ……。」
──やばい。そう思った時には遅く、グラスは盛大な音を立てて壊れる。しかもこれは──父さんが大事にしていたやつだ。
「おい、何を壊した。」
すぐ近くにいる父さんは、不機嫌な様子を顕にしながら迫るように聞いてくる。その声に、情けなく怯えてしまった。
「……わしのグラスを壊したのか。」
沈黙を少し交えて、無言で頷く。
「……わしの大事なグラスを壊したのか。」
今度は沈黙が続く。何をされるか分からない怖さで、怯える。
「そんなやつは──お仕置きしないとなぁ!」
そう言った瞬間、父さんはオレの腹を蹴り上げた。何とも言えない鈍痛が襲い掛かり、思わず膝を付いてもがき苦しむ。
だがそれをさせないかのように、父さんは重いであろうオレを蹴り押して仰向けにし、露わになった腹を踏みつけた。
「お前は息子失格だ!お前なんか要らん!」
踏みつけられる毎に、子供のように罵る言葉をあげる。ただもう疲労が限界なのか、意識が遠くなっていく。
こいつはオレを殺す気だ。そう思えるほど、オレを踏みつける力は強かった。でももう、そんなことも考えられなくなってしまう。
「お前なんか──死ねばいい!」
そう言った直後の踏みつけで、辛うじて生きていた意識を手放してしまった。
──ここは、どこだ……?
意識が朦朧としていて、目を開けても色が見えるだけ。だがそれはゆっくりと分かってきて、見知っている天井だと気づいた。
ふと見える範囲にあった時計を見ると、午前6時近くを示していた。嘘だろ。帰ってきたのが17時近くだったから──12時間以上気絶していたのか?
「もうオレは、どうすればいいんだよ……。」
気絶していたその状態のまま、涙を流す。これまで幾度となくいじめられてきた過去が、涙とともに頬を伝う。
一体父さんは、オレに何を求めているんだ?『完璧な息子』だとか言うのなら、オレには無理だ。なんたって、勉強すら知生に教えてもらっている身なのだから。
『お前なんか──死ねばいい!』
唐突に、最後に言われたその言葉を思い出した。──そうだ。死ねばいいんだ。
死ねば何もかもが無くなる。オレをいじめていた父さんに、もう会わなくて済む。それはオレにとって、最高の手段だと思い込んだ。
死ぬ場所の宛はある。学校の屋上から飛び降りればいいだろう。死ぬことにおいて、それが一番簡単な方法だと思った。
そこまで考えて、ふと頭に浮かんだのは──知生のこと。知生には──オレの死ぬ瞬間の勇姿を見てもらおう。オレはこの世界からお別れするんだ。
そうやって、オレは狂った考えを導き出した。
知生といつも合流する場所で待っているオレは、太陽を見ていた。
「おはよー!」
「おっ……ああ、おはよ。」
知生が元気に挨拶をしてきたせいで、少し驚いてしまった。少し言葉につまりながら、それに返事をする。
オレが死ぬということをなるべく悟られたくない。知生は頭が良いから、バレてしまうかもしれないが。
「じゃあ、行こっか。」
「……おう。」
なるべく知生の目を見ないようにしながら、そう答えた。知生の顔を一瞬でも見たら感づかれそうで、怖かった。
それ以降の会話は、ほとんど覚えていない。──早く死にたい。そんなことばかり考えていて、知生の話は入ってこなかった。
「天間くん。」
ああ、死ぬ時が待ち遠しい。死んだら、何もかもが無くなるんだ。再びそのことを考えると、胸の高鳴りは止まらない。
「天間くんっ。」
「……へっ?」
どうやら、知生はオレのことを呼んでいたようだ。物思いにふけっていて、全然気が付かなかった。
「いや……今日、天間くんずっとぼうっとしてるから。具合とか、悪い?」
正直、具合が悪いどころのレベルじゃない。幾度となく張り裂けそうだった心が、ついに張り裂けてしまった感じだ。でも、知生には悟られたくない。
「ああ……別に、大丈夫だ。」
だからそう嘘を吐いて、満面の笑顔を咲かせる。──それで、嘘だということがバレてしまうかもしれない。だけど、オレはそこまで考えられるほど頭は良くなかった。
「そっか……。」
知生もそう言って、それだけだった。深く追求してこないことに感謝すると、1時間目が始まった。
授業中に考えるのは、また知生のことだった。今は何を考えているのだろう。オレのこと、心配してくれているのかな。
だとしたら、そんなこと無意味だ。オレはもう、この人生にはうんざりだった。ただ一つ心残りがあるとすれば──知生を想う気持ちだろうか。
昨日まではこんな気持ち、分からなかった。暇な時さえあれば知生のことを考える。──そんなことが、恋だとは。
オレは元から、男が好きなわけじゃない。でも、表面だけしか友達として付き合っていなかったオレが、深く干渉していった。それが、知生だ。
そして知生は、オレを拒むことなく何でも受け入れてくれた。例え無茶なことを言っても、笑ってそれを受け入れてくれる。親にいじめられていたせいで、その事が何よりも嬉しくて──それから、好きという気持ちが強くなっていったのだと思う。
でも、今日でお別れしないといけないな。オレからは怖くて何も言えないけど、屋上まで別れに来てくれるだろうか。
そんなことを考えていたら、もう4時間目が終わるチャイムが鳴った。──もう少しだ。
数分経つとすぐに配膳台は準備が整う。みんな食う気があるんだろうな。
「天間くん、取りに行こっか。」
「おう、そうだな。」
知生にそう言われると、自然と微笑みがこぼれた。やっぱり知生は、オレに力を与えてくれる。
配膳を配り終えたあとだ。オレは、勇気を振り絞ってその言葉を言った。
「すまん、ちょっとトイレ行ってくる。」
知生にこの言葉だけを言うだけなら、何をしに行くか分からないだろう。事実、知生はすぐに頷いてくれた。
ゆっくりと教室を出て、現れた階段をただ上る。早く死にたいはずなのに、その足取りは不思議と冷静で、ゆっくりだった。まるで、人生の階段を上っているようだ。
どうせみんな死ぬんだ。オレはただ、みんなより先に死への階段を上っているだけ。そこから降りた先は──何も無いんだろう。
そして、目の前に現れる鉄のドア。それをしっかりと押して、外に出る。
空は雲一つない、快晴だ。こんな天気に死ねるなんて、縁起がいいのかもな。
目に入ったフェンスに、ゆっくりと足を掛ける。自分の体重が重いせいで、金属部分がひしゃげそうになって悲鳴を上げたが、今のオレには聞こえなかった。
塀にゆっくり足を降ろし、正面を向いた。眼下に広がるのは、遠くにある地面。いや──正直、この距離なら近く見えてしまった。普段なら、遠く見えるはずなのに。ああ、神様もオレに味方してくれてるのかな。
何分経っただろうか。ぼうっとしすぎて、どのくらい経ったかも考えられなかった。そんな時に、突然校舎内に通ずるドアが開かれた。──知生だ。
「よお……知生。」
気づけば、自然と口からそんな言葉が出てきた。知生が来るかと淡い思いは抱いていたが、本当に来てくれるとは思わなかった。
知生も、オレのことを想ってくれてるのかな。だとしても、もう無意味だということは変わらないのだが。
「天間くん……。」
辛うじて知生が呟く声が聞こえた。その切なそうな声を無視して、話を続ける。
「知生に見てもらいたかったんだ。……オレの死に様をな。」
その言葉は、今のオレの本心だった。オレが好きだった知生だからこそ、そうやって見届けてもらいたい。
「……オレ、父さんにいじめられてたんだ。──そりゃあ、毎日。母さんもどっか行っちゃったから、ずっと、苦しかった。」
そう言いながら、いじめられてきた過去がフラッシュバックする。父さんが突然暴れだして、3人で怯えて生活していた日々。そして──母さんと弟だけ逃げて、父さんと2人で過ごさなくてはならなかった毎日。その時から一気に重荷が押し寄せてきて、その時点で限界だったのかもしれない。
「……昨日さ、父さんに言われたんだ。『お前なんか死ねばいい』って。──その通りだよな。死ねば楽になるんだからさ。こんないじめも、無くなるんだろ……?」
自分で考えておいて、悲しくなった。オレって、こんな生き方をしてきたんだな。よくここまで生き続けられたと思う。
でも、父さんにいじめ抜かれて耐えられるやつなんて、いるわけがない。そう思うと、自然と口が回る。
「……だから。今日、ここで死ぬんだ。これで、楽になるならさ。」
この言葉で、最期にしよう。そして、ここから飛び降りる。そしたら、楽に────。
「…………でよ。」
「……え?」
「死なないでよ!!」
よく聞こえなくて、知生に聞き返す。そうすると、知生はこれまで発したことのないような大声で制してきた。オレはびっくりして身が震え、知生の目を見たまま固まってしまう。
「本当に、それでいいの?このまま死んだら、お父さんの言いなりだよ!死ぬときまでいじめたやつの言いなりなんて、そんなの嫌でしょ!?」
オレは、何も言葉にできなかった。知生が言っていることよりも、オレの行為を止めようとしてくれることの方に驚いて、直視することしかできなかったのだ。
「僕も、最初はいじめられてるって分からなかったよ。でも、親のこと言うと凄く嫌な顔するから、変だなと思って、ここが分かったの!」
悲痛な叫び声のように、酷く悲しい声で言う知生。考える暇も与えられずに、知生は喋り続けていく。
「どうして、僕を頼ってくれなかったのさ!解決は出来なかったかもしれないけど、気持ちを楽にすることは出来たよ!」
──そう……なんだろうか。オレは独りで考え込むことが多かったから、外部に喋って発散する、という術を知らなかった。
「あのね──。天間くんが思ってる以上に、死んで欲しくないって思ってる人はたくさんいるの!少なくとも、僕はそう思ってるよ!僕、僕は──。」
──『死んで欲しくない』。知生に言われて気がついた。そうか。そうだったんだな。オレは────。
「天間くんのことが好きなんだよ!!」
オレが考えを改めるよりも早く、知生は確かにそう言った。──オレのことが、好き……?その考えがぐるぐると回って、上手く飲み込めない。それって、オレと一緒じゃ──。
「天間くんはでかいけど優しくて、笑顔がかわいくて、それで気遣ってくれて……それは他の何ものでもない、天間くんの魅力なの!」
恥ずかしげもなく言ってくるその台詞は、オレを褒めるものだった。オレのいいところを言われると思っていなくて、どういう顔をしていいか分からなくなる。
「天間くんにはいっぱい魅力があるのに、どうして死のうとするの?僕は、そんな天間くんに惹かれたんだよ!」
こんなオレでも、いいところを見つけて好きになってくれる人が、いるみたいだ。それが嬉しくて、涙が出そうになる。
「解決法だってたくさんあるでしょ?例えば……僕の家に来るとか!だから、だからぁっ……。」
知生は、溢れ出す感情をそのまま喋っている。顔もいつの間にか、涙で溢れていた。そんな奴の前で死ぬなんて、オレってバカだな。でも……こんなオレでも────。
「死なないでよ……。」
知生はその言葉を残して、泣き崩れてしまった。
──知生はオレのことが好きだったんだ。そして、オレも知生のことが好き。……これって、もしかすると『両思い』ってやつじゃないか。オレはそんなことも分からぬまま、死のうとしていたんだ。……はは、笑っちゃうな。
元々小柄な子が好きだったオレは、小学校でも女の子に恋心を少し抱いたりしていた。まあ、あれはただ単に見た目が好きだっただけで、伝えようともしなかったから、結局結ばれることはなかったんだが。
そして中学生になって、知生と出会った。最初は、オレのことをなんでも受け入れてくれる、最高の友達だと思った。──でも、そんな知生に、何だかよく分からない特別な感情が芽生え始めたのは、いつからだっただろうか。
それこそ、さっき知生が言ってくれていた、知生のいいところに惹かれたのかな。オレも、いっぱい知生のいいところを見つけて、それに惹かれていたんだ。
それにも関わらず、オレは死のうとするなんて。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「…………すまん。オレが、間違ってたんだな。」
そんな気持ちに駆られ、オレはそう言った。そして、塀に足を掛けた、その時だった。
──足が滑った。それと同時に、すべての動きがスローで動いているかのような感覚に見舞われる。後ろはさっきまで近くにあったように見えたのに、今はあんなに遠く見える地面。
──死ぬもんか。
オレは知生からの想いを受けて、まだフェンスに近い左手を無理やり伸ばす。ガシッと音が鳴ると同時に、確かな手応えがあった。──フェンスに、掴まったのだ。
「へへ……オレはこんな所で死ぬやつじゃないぞ。」
その言葉を聞いた途端、知生がぱあっと笑顔を見せてきた。それは今まで見たこともないような笑顔だった。
オレがフェンスをよじ登ってゆっくりと降りると、知生は近づいてきて、ぎゅっと抱きしめてきた。──温かい。知生は小さい身体をしているが、そんなことを考えさせないほど、温かい身体をしていた。
「おかえり。」
「……おう。」
掠れた声で言う知生に、しっかりした声で受け答える。そして知生に、抱き返してみた。オレの手からも、知生の温もりが感じられる。これが『幸せ』ってやつなのかな。そんな温もりを感じていると、何だか安心した気分になる。
「オレも──。」
知生が言ったんだから、オレも言わないと。そう思ってオレの想いを伝えようとしたが、それはドアの音で掻き消されてしまった。
「あなた達、大丈夫!?『屋上で自殺しそうな人がいる!』なんて言われたから、とても心配したのよ!」
オレ達の担任の先生が、ここまで走ってきたようだった。主にオレのことを心配して来たんだろう。──でも正直、先生に言われても改心しなかったと思う。
「あ……大丈夫です。一緒に、引き返して来ました。」
先生のその言葉に、そう返事をする知生。……そうだな。オレは、確かに知生と一緒に引き返してきたんだ。