世の中には明晰夢というものが存在する。簡単に説明すると、睡眠中に夢を見ている時に今自分が夢を見ていると自覚して見ている夢の事だ。そしてその経験者は、夢の状況を自分の思い描く通りに描くことが出来るという。例えば自分が英雄になる夢であったり、もしくは幻想の世界を旅する夢であったり、もしくは――好意を抱く異性と恋仲になる夢であったりなどだ。もしかしたら俺は、夢の中で自分の都合のいい夢を見ているのではないだろうか?
日が沈み空のグラデーションが夜のそれになり初めた中、ポツポツと街灯が照らす歩道を歩きながらそんなことを考えてしまう。しかし、いくら頬を抓ろうともベットの上で目を覚ますことはない。靴越しに感じる歩道の硬さも、肌に感じる冷たい風も、そして俺の横を歩く少女と繋いでいる手の感触も全てが現実だ。そう思い、ちらりと隣の少女を見やる。
手を繋ぐ彼女の足取りは軽く、今まで見たこともないような何処か気の抜けたような笑みを見せて鼻歌を口ずさんでいる。機嫌がいいというのは同じなのだが、彼女の好きな猫やパンダのパンさんなどを目の前にした時の彼女とはまた違う様子だ。だが、その見たことのない雪ノ下はとても可愛く魅力的で、それが俺をより非現実的な感覚にさせる。
「なぁ……」
「ん、何?」
声をかけたことで彼女が消え失せ、虚構の世界が崩れる──ということもなく、鼻歌を止めた雪ノ下が俺を見つめる。真っ直ぐ見つめる彼女に顔に熱が宿った。
「あ、いや、手を繋いで歩くのはどうなんだと思ってな」
「あら、どうしてかしら?」
思わず顔を背けて告げる俺に、こてんと首をかしげる雪ノ下。彼女にはこの行動に何の問題も思い浮かばないようだ。ならば仕方ない。ここはリスク管理の鬼を自称する俺が教えてやらねばならない。え? 部室での事? 知らんな。
「誰かうちの生徒に見られて、人気の雪ノ下が俺みたいな野郎と付き合ってると話題になると色々ヤバイだろ?」
人間同士の釣り合いというのは面倒くさい。その釣り合いのバランスがズレればズレるほどに、人というのは大きく騒ぐのだ。しかも、学校という環境はそれに拍車をかける。方や学校で有名な容姿端麗の才女で方やネクラボッチだ。これで騒がないとかあり得ねえよ。
俺に対してもやっかみとかで絡もうとする奴がでるだろうが、何時ものごとくステルスするから問題ない。問題は雪ノ下だ。
付き合っているのが俺だと、学校の連中に知れれば中には「こんな奴より俺の方が……」と、こう思う奴が出てくるだろう。こういう奴が雪ノ下に突撃かますのは容易に想像できる。だから、そうならないために無用なリスクは取り除くに限る。
このような事情を懇切丁寧に語ると、彼女もわかってくれたのか綺麗な笑顔と共に頷いてくれた。これでひと安心だぜ。
「それで? 本音は?」
その一言に俺の頬がひきつった。
「いや、だから今言った通り……」
「本音は?」
「あの……」
「本音は?」
RPGではいを選択するまで無限ループするやつですね。分かります。ふぁっきん!
やがて、俺はいくら誤魔化そうとしても、変わらぬ笑顔で此方を見つめ続ける雪ノ下に降参した。だが、理由が理由なために思わず目線をそらして俯いてからぼそりと言葉を溢した。
「……恥ずかしいからだよ」
言ったとたんに顔に熱が集まり発汗する。やばい、手汗かいてないだろうか。離したいけど離してくれねえ。
「ふ、ふふ……部室であれだけやったのに……手を繋ぐのが恥ずかしいって……っ、くふっ…ふふふ」
隣から声を圧し殺して笑う雪ノ下に顔の熱量が倍増する。いやいやいや、あれはね内なるパトスがエミッションでロストリーズンクライシスだったんだよ。つか箍が外れてから冷静になって理性が戻ると余計にハズイわ! おうちに帰ってベッドの中でウワーッ! って叫びたいよぉ。
「っ……とにかく、理由言ったんだからいいだろ?」
「いや」
即答であった。目尻に涙を浮かべる程に笑っていた雪ノ下だったが、俺の意見をバッサリ切り捨てる。そればかりか、繋いでいる方の腕を絡めてさらに密着してきた。
「お、おい」
「せっかく貴方と歩けるのに、他人を気にしてそれができないなんて私はいやよ。文句がある人は言わせればいいわ。倍以上の正論を叩き付けてあげるから」
そのまま歩きだす雪ノ下に慌てて足を動かす。そして肩越しに見える雪ノ下になにも言えなくなった俺は、ため息と共に頭を掻くと黙って歩くことにした。
結局雪ノ下のマンションに着くまであのままだった。幸い見える範囲にはうちの学校の生徒はいなかったし、いたとしてもこんな薄暗い中で顔を判別するのも難しいから大丈夫だろう。そう願う。
「そういや良かったのか? いきなり俺が来て」
彼女の部屋がある階でエレベーターを降り、部屋の前まで来たところで今さらなことを聞く。現在雪ノ下は彼女の姉と同居している。部室で夕飯に誘われて来たのはいいが、今回のことは突如決まったなので材料などの心配をしてしまうと同時に、若干の憂鬱を感じてしまう。雪ノ下といられるのは嬉しい。だが、彼女の姉に会うのは勘弁してほしいのが本音である。
雪ノ下陽乃。あの鉄仮面のスーパーウーマンならば俺達の関係の変化など一目見て感づくだろう。そうしたら彼女は猫が鼠を甚振るようにいじり倒して来ると確信している。正直勘弁してつかぁさい。
「えぇ、問題ないわ」
扉を開き此方に振り返った雪ノ下は、俺の表情に理由を察したのか極上の笑みを見せるとこう言うのであった。
「先日から姉さんは家の用事でいないの。──今は、私一人だから大丈夫よ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
静寂の中で規則正しくなり続ける時計の音と台所から聞こえる水音に耳を傾けながら、リビングのソファーに身を預ける。相変わらず雪ノ下の料理の腕はピカイチであったと腹を擦り体の力を抜く。家に上がってから夕食まではやはり二人きりということに緊張したが、旨そうな料理が食卓に並ぶとそれも解れていった。そして二人で他愛ない会話をしながら、旨い食事に舌鼓を打っているうちに何時もの調子をとりもどしたのだった。
「っと、やばい寝てた」
緊張が解れ腹がくちくなったことで微睡んでいたが、脱力していた体に力を入れて上体を起こす。時計を見て十分数分程度寝ていたのだと気づいた。危ない危ない、あまり遅くなると小町が勘繰るだろうからな。いや、材木座の所によるから飯は要らんという言い訳も疑われているかもしれん。名残惜しいがそろそろ行かねば。
「ん? そういや雪ノ下はどこ行ったんだ?」
寝入る迄聞こえていた水音が聞こえなくなっているのだがリビングに雪ノ下は居ない。このまま彼女になにも言わないまま帰る訳にもいかないため、もう少しここで待っていようかとそう思ったときに、何ともタイミングよくリビングのドアが開いた。
「雪ノ下、俺そろそろかえ……えぁ?」
これ幸いとそちらに向けて帰る旨を告げようとして、目にしたものに眠気が吹き飛ぶ。しかし、あまりの衝撃にアホみたいに呆けてしまった。
「どうしたの? 顔がいつも以上に間の抜けたものになっているわよ」
現れた雪ノ下が俺の顔を見てクスクスと可笑しそうに笑うが、それに反応することはできなかった。ただソファーに座りアホ面を晒す俺に、ゆっくりとした歩みで近づく彼女を見つめることしかできない。それは彼女のいまの装いに原因がある。彼女は先程まで着ていた制服を着ていない。だからといってラフな普段着というわけでもなく、彼女が纏っているものは白のバスローブだった。湿り気を帯びた髪やローブの開いた胸元から見える上気した肌が、普段感じることの無い蠱惑的な魅力を醸し出している。
俺の目の前で来ると彼女は見上げたまま呆然とする俺の肩に手をおいて、ソファーの背もたれに押し倒し俺に股がった。いきなりの急展開に着いていけずにいる俺に構わず抱きつく彼女の肌の熱が、これが現実だと教えてくれた。頬を合わせる彼女が耳元でささやくように告げる。
「……ねぇ、比企谷くん。私は自分で思っている以上に強欲だったみたい」
囁かれた内容が頭の芯に届かない。耳元を擽る彼女の吐息混ざりの声が思考を掻き乱す。
「貴方と想いを伝えあって嬉しかった。叶うはずの無い夢だと、選ばれる筈はないと何処かで諦めていたのに貴方と手を繋いで歩くことができて打ち震えたわ。……だけど足りないの」
そう言って上体を離した雪ノ下は徐に俺の手を掴むと、自分の胸元へと押し付け自分の手を俺の胸元に押し当てた。彼女の命の鼓動が掌から伝わる。自分の鼓動が彼女の掌から伝わる。
「もっと、もっとと心が催促してくる。貴方に私を知ってほしいって、私に貴方を教えてほしいって訴え続けるの。だから、ね……」
俺を見つめる彼女の顔がゆっくりと近づき、唇同士が触れ合う。今日何度めとも知れないそれは部室でしたものと同じのようで違うものだ。部室でしたものが想いを伝え合うものだとすれば──これは懇願であり契りだ。
触れ合う唇が乱れた思考を呼び戻し、未だ彼女の胸に押し当てられる手を握る彼女の手が震えていることに気づく。その震えは緊張かそれとも拒絶への恐れなのか判然とはしない。だけど、それを止めたいと思う俺の気持ちは明確だった。
一度、握られた手を解いて口づける彼女を離す。するとそれを拒絶と受け取ったのか、彼女の顔が泣きそうに歪んでしまうのを見て早とちりをする彼女に苦笑が漏れた。悲壮な顔で俯く彼女の頭を撫でて、改めて抱き締めて彼女の耳元で俺の気持ちを囁くのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「時よ止まれ、お前は美しい」
彼女のベッドで互いに抱き合いながら事後の余韻に浸っていると、雪ノ下が感慨深げにそう呟く。
「急にどうした?」
唐突に呟かれたそれに疑問を投げ掛ける。それに雪ノ下は抱き締める腕に力を込めて、更に密着してから答えてくれた。
「ファウストは
「っくく、お前らしい考えだ」
何ともらしい考えに笑ってしまった。彼女もそれに「ふふ、そうでしょ?」と釣られて笑う。
「でも、それは知らなかったからだった。心から溢れてしまうほどの強い想いや喜びを知らなかったからだと、そう思い知ったわ。……今は願ってしまう。愚かだと思った世の人々と同じように、どうかこの幸福が永遠であれと普遍的でありながら叶うことの無いそんな願いを」
手放したくないという想いを体現するように抱きつく雪ノ下に愛しさが募ると同時に考える。俺はどうなのだろうか? 彼女が望むように、俺もまたこの時が永遠であれと望んでいるのかと己に問いかけた。心に浮かぶのは笑い会う俺と雪ノ下とそして──
「……あっ」
浮かんだ光景に声が漏れる。そう、なのか。あぁ、そうだったのか。俺が望むのはそれなのか。
「ふ、ははっ」
「比企谷くん?」
たどり着いた答えに自然に溢れた笑いに、今度は雪ノ下が疑問の声を上げた。俺は先程の彼女と同じように背に回すその手に少し力を込める。
「雪ノ下、どうやら俺も思ったよりも欲深かったようだ」
触れる彼女の肌のその感触に俺の願いが強さを増す。その願いは彼女が願うそれと同じく世の人々が願うほど普遍的で、だけどとても現実的なものだった。
この先の未来で何があるかは分からない。もしかしたら、今感じているこの思いが薄れて消えてしまうことが有るかもしれない。でもだからこそ願うんだ。心に浮かんだあの光景が、俺と雪ノ下とそして──俺達二人が愛し合うことで出会える君と共に笑い会える未来が来るようにと、この言葉と共に。
「時よ進め、更に美しいお前に会うために」
ここまでお読みいただきありがとうございました。
いやぁ、書いた書いた。こういうの書くと口の中がじゃりじゃりするんじゃあ!
時よ止まれと言う言葉で何か書きたいとは、前から思っていたのですが何とか書けて良かったです。完成度はお察しですがね!
では、またの機会に!