デルタ・カラー   作:百日紅 菫

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北条加蓮の想い

 秋葉玲。15歳。高校一年生。得意科目は国語と数学、苦手科目は社会と理科。部活には入っていない。成績はそこそこ優秀で、運動もできる。過去の経験からスポーツは得意で、勉強以外の知識にも深い。家族構成は父、母、本人の三人家族で、マンションの一室に住み、学校までは20分ほどかけて徒歩で通っている。通学路には知り合いの親が開いている花屋があるが、最近では見向きもしなくなった。

 それが、秋葉玲の今。

 今日もまた、彼の一日が始まる。

 

 「おはよー」

 マンションのエントランスを出た先で、いつものように待ち構えている少女が片手を上げる。

 「…飽きないね、北条も」

 「お、挨拶も無しとは。唯一の友達に対する態度じゃないね」

 「はいはい、おはようおはよう」

 いつもと同じ白いカーディガンを着た北条加蓮の横を通り過ぎ、学校へと向かう。

 高校に入学してから再会した加蓮と玲は、以来ずっと一緒に登校していた。加蓮の家から学校までの道に玲のマンションがある為、玲の登校時間に合わせていつも玲のマンションの前で待っている。

 「ねーねー、私今日の放課後レッスンなんだよね」

 「おつかれ」

 「毎朝迎えに来てあげてるんだし、レッスン終わったら迎えに来てよ」

 「嫌。神谷先輩と一緒に帰れば?」

 並んで歩く二人は、傍から見れば恋人のように見えなくもない。

 普段の歩行スピードが日本一の東京都に住む人間とは思えない程にゆっくりとした歩調で歩く玲に合わせて、同じくゆっくり歩く加蓮。中学を卒業したばかりで、成長期が遅めの玲は加蓮より少しだけ身長が高い程度。特別、気を遣うことも無く、彼らの歩調は合っていく。

 「奈緒は今日仕事。裏方だけどね」

 「へー。まぁ暇だからいいけど」

 「だよね、知ってた」

 車通りの多い大通りを抜け、決して大きくない土地に多くの人を集められるよう高さのある校舎が、玲と加蓮の通う高校だ。

 「あ、後で数学の教科書借りに行くね」

 「…何限?」

 「3」

 「別にいいけど、北条忘れ物多すぎじゃね」

 「玲が荷物ほとんど学校においてるからね~」

 「重いからね」

 校門を通り過ぎる時も、外履きを履き替える時も、互いの顔を見ずに会話だけを重ねていく。

 

 二人が再会したのは、新入生として入学式を終えた放課後だった。強風が吹いていて、桜の木から花が無くなる勢いで薄桃色が舞う日。

 女子高に通うことになった友人の元に行こうと、新しいクラスメイトに目もくれずに走り出した玲の前に加蓮は現れた。

 「久しぶり」

 溢れ出す喜びをひた隠し、小さく笑う加蓮。対して玲は、苦笑気味に手を上げて、彼女の名前を呼んだ。

 「久しぶり、北条。同じ学校だったんだな。今日はちょっと急いでるから、また」

 いつも会っているような気安さで、加蓮の前を通り過ぎる。

 玲にとって久しぶりに会う友人よりも、ただ一人の少女の方が大事だった。だから、多少の礼儀として言葉を交わし、同じ学校ならまた会うこともあるだろうと、また、と口にした。

 たったそれだけ。

 けれど加蓮にとって、その行動は自分の心を濁らせて、その言葉は舞い散る桜よりも鮮やかに心に刻まれた。

 

 北条加蓮は身体の弱い少女だった。

 義務教育の期間の半分を病院で過ごし、元気な子供のように外で遊びまわることのできない子供だった。

 そうした幼少からの経験は、思春期の少女の心を縛りつけ、精神の成長を止めてしまった。

 自分はどこにも行けない。自分は何も楽しめない。

 そんな思いが加蓮の心を覆い隠し、どこか客観的で理性的という、達観して諦めた主観性を持つのに、そう時間はかからなかった。

 入退院を繰り返し、学校にも馴染めず、当然仲の良い友人など作れる筈も無く、加蓮は孤独になり、彼女の主観性の度合いは強くなっていく。

 そんな時だった。秋葉玲という少年に出会ったのは。

 加蓮とはまるで相いれない真逆の主観性を持つ少年。元気に外を走り回り、スポーツや、知識や、知らない街の景観を、彼は知っていた。たった一つの目標の為に努力を続け、諦めなど知らないかのように、自分は何でもできるのだと知っているかのように、彼は前を向いていた。

 中学1年の秋。偶然にも病院の待合室で出くわした加蓮に対し、玲は興味を載せた瞳を向けて話しかけた。

 「君さ、うちの中学の北条さん?」

 「………」

 何処にも行けず、何も楽しめない自分は、誰かと関わったところですぐに独りになる。

 それを身をもって知っていた加蓮は、玲の言葉に無反応を貫いた。

 けれど玲は、加蓮が聞いているかなどお構いなしに話しかけてくる。

 「あんまり学校に来ない子が、すっごい可愛いって噂は聞いてたんだよね。だから一回会ってみたくてさ。確かに、あいつには劣るかもしれないけど、アイドルみたいに可愛いわ。あ、これ、俺がこないだ一人で行ったトコなんだけど、めっちゃ綺麗じゃない?北条はどっか行ったりしないの?」

 何故か常備しているデジカメに保存された写真を見せつけてくる。そんな玲に鬱陶しさを感じて別の席に移動しようと立ち上がった時、彼が見せつけてきた写真を視界の端に捉えた。

 深緑の森に幾重にも射す日差し。光と影のコントラストは神秘的な幻想風景を作り出し、加蓮の心に何かが染みわたる。

 「……きれい」

 無意識に、口が動いていた。

 ただの写真。掌に乗るサイズの画面に映る、二次元のデータであるはずのそれは、けれど確かに加蓮の心に響いた。

 そのことが嬉しかったのか、玲は次々に今までの軌跡を見せつける。

 湖に反射する富士山。荒々しく揺れる海。白く輝く雪原。賽銭箱の前で祈る恋人に、鳥居の下でポーズを決める浴衣姿の少年たち。

 旅行に行った記念写真と言われればそれまでだが、そのどれもが、加蓮にとっては未知の世界だった。

 いつの間にか玲のデジカメをひったくり、百枚を超える写真を見終わる頃、加蓮の心の中にあった主観性はあまりにも弱くなっていた。

 自分の知らない世界。自分の知らない感情。

 「北条は、どこか行ったりしないのか?何か習ってたりとか」

 そんな弱さが浮き彫りになっていたからか、玲の悪意のない疑問に、加蓮の本音が漏れた。

 「無理、だよ。昔から体が弱くて、どこにも行けない。友達もいない。何も楽しめない。私には、この景色を見ることが出来ないもん…」

 言葉にする。

 それは、自分の心情を吐露することで、自分が自分の気持ちを再認識すること。

 頭で理解していても納得のいかない気持ちを、加蓮は無理やり抑え込む。今までのように。

 けれど、そんなことを知る由もない玲は、思ったことを紡ぐ。出会ったばかりで、事情も経歴も知らず、何に嘆いているかも知らない少女に、ただ思ったことを口にする。

 「昔から体が弱くたって、これからどうなるかは分からないんでしょ?だったら、今の内から諦めるのは早いんじゃない?」

 加蓮のことなど何も知らない玲の言葉。

 「それならもっと楽しいこと考えたほうがいいよ。どこに行きたいとか、何がしたいとか。それを考えてるほうが、きっと心の健康には良い」

 だけど、一枚の写真で揺れた加蓮の心の波紋を、玲の言葉は広げていく。

 劇的な変化じゃない。明確な変化じゃない。

 けれど、玲との出会いは、確実に加蓮の心に変化を与えた。ほんの少しだけ、諦めるのを辞めただけ。

 それだけの事。

 「心の健康って、何それ」

 「保険の先生が言ってた言葉」

 それからおよそ半年。玲は加蓮に今まで撮影してきた写真やその説明、自分がやってきたスポーツ、読んだ本の面白さを話し、加蓮はその話を聞くたびに笑顔になっていく。

 だが、そんな二人の日常は、唐突に終わることになる。

 そもそも、玲が病院に来ていたのは左手首を骨折していたからで、当然完治すれば病院に来る必要はなくなる。

 そして、時期を同じくして、体調を崩した加蓮は短期間だけ入院することになった。

 その時期を境に、玲と加蓮の関係は一時の終わりを迎えた。

 だが、一人の少女の為に奔走し続ける玲と同じように、加蓮も一人の少年のようにと努力を続けた。

 

 普通の人と同じ程には丈夫になった身体に喜びを感じつつも、それ以上に彼と再会できることを心待ちにしていた加蓮は、変わらない玲に安堵しつつも、どこか寂しさを覚えていた。

 話しただけでわかる、自分が玲の中で二番目以下の存在であるということに。

 彼の中に存在する、何よりも優先されるべき少女に、ずっと憧れと嫉妬を抱いていた。

 だからこそ、4月の半ばから5月にかけて全てに興味を失った、過去の自分のようになっていく彼を見て、悲哀と歓喜を抱いた。

 ああ、彼の中の大事なものは無くなってしまったのだと。彼の中にあった順番が無くなったのだと。自分にチャンスが回ってきたと。

 

 「それじゃ、また後でね」

 「おー」

 玲はA組。加蓮はB組。

 隣り合う教室に分かれて入る二人は、いつまでも顔を合わせない。否、玲が加蓮の目を見ようともしない。玲の横顔を、加蓮が見つめるだけ。

 ただそれだけで、加蓮は幸せを感じた。

 好きな相手が、自分を含めた何事にも興味を持たず、今積極的にかかわっているのは自分だけ。

 アイドルとしてデビューするのも遠くない筈。

 彼のおかげで、今の私は順風満帆だ、と。

 

 それがたとえ、彼にとって一番だった少女のおこぼれに預かっていただけだとしても。

 


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