夜に愁う
「それじゃ、またな」
「お疲れ様です」
「おつかれ、奈緒。また明日ね」
駅前で奈緒と別れた玲と加蓮は、並んで大通りを歩いていく。左右に立ち並ぶ店のショーウィンドウを覗く加蓮と、ポケットに手を入れながら歩く玲。朝の光景の焼き増しのようだが、二人の間に会話は無い。元から進んで話すタイプではない玲はともかく、普段おしゃべりな加蓮が黙るともはや沈黙しか生まれなかった。
そもそも、加蓮が静かになること自体珍しく、普段から一緒にいる奈緒でさえあまり見ない光景だ。
けれど、好きで一緒にいるわけではないが、奈緒よりも加蓮といる時間が長い玲には、加蓮が静かになる原因を察していた。
「もうすぐ着くから、帰ったら風呂入って寝なよ」
「…うん」
歌とダンスのハードなレッスンによる疲労。いくら普通の人と同じ程に健康になったとはいえ、その普通の人ですらキツいレッスンを行えば、当然疲労が溜まる。そのせいで強烈な睡魔が加蓮を襲っているのだった。
玲に言われて自覚したのか、重くなってくる瞼に抵抗しつつ、ふらつく足取りで玲を追う。
しかし、その姿に流石の玲も興味が無いで片付けられないと思ったのか、ポケットに入れていた右手を加蓮に差し出す。
「ほら、手ぇ繋いでやるから」
「おぉ、玲がデレた…」
「置いてくぞ」
「わー!繋ぐ繋ぐ、繋ぎます!」
眠気をそのままに差し出された右手に飛びつく加蓮。自分の左手を腕ごと絡ませて、玲に寄りかかるように歩いていく。
「…ありがとね」
「そう思うなら、もうちょい限界を知ってくれ。体を動かすのが嬉しいのはわかるから」
「うん…」
満足に運動できなかった中学時代の加蓮を知っている玲としては、その喜びこそ理解できるが、それで今倒れてしまっては元も子もないだろうと思う。自分が暇だとは言え、態々世話をする義理も無いので面倒くさいと思う気持ちが無いわけでもないが。
ともかく、玲のマンションよりも駅から近い加蓮の家に着くと、どうにか玄関に加蓮を置いて、ようやく自分の帰路に就く。ちなみに、中学時代から付き合いがある為、加蓮の両親とも顔見知りである玲は、加蓮を迎えに行って送り届けるたびに晩御飯に誘われていたりする。
閑話休題。
一人になった玲が自宅マンションの前まで辿り着くと、エントランスの前に一人の少女が立っていた。
長い黒髪に黒いカーディガン、都内の女子高の制服を着たその少女はふいに振り返り、玲と目が合った。
片や驚きと喜びと悲しみが複雑に絡み合った大きな瞳。
片や死んだような薄く開かれた瞳。
間違っても旧友と再会した様子でない光景だが、少なくとも少女、渋谷凛にとっては嬉しい偶然だった。
帰宅ルートから少し外れて、若干の遠回りになるこのマンション前の道を通っては、どうにか玲と会えないかと考えていた。
中学時代にはほとんど一緒にいた相手だが、会いに来るのはいつも玲。凛は玲の住んでいるマンションまでは知っていたが、その部屋までは知らなかった。
だからこそ、今目の前に玲が現れたことに、僅かながらの期待を抱いていた。
「あ、えっと、久しぶり、だね」
「ああ、久しぶり」
常に堂々としている凛にしては珍しく動揺していて、この姿を凛と同じユニットの本田未央が見ればオーバーに驚いてくれるだろう。
「どこか行ってたの?」
「あー、同級生?と先輩と会ってた。渋谷こそ、仕事忙しいんじゃないの?」
「わ、私は今日レッスンだけだったから。あ、それで、その、今度美城の事務所がサマーライブやるんだ。私達も出るから友達も来るんだけど、良かったら来ない?」
そう言ってスクールバッグの中から一枚のチケットを取り出す。
それは、美城事務所の関係者が知人にのみ渡せるチケットで、関係者席で多数のアイドルが出演する大型ライブを観ることができる、ファンならば垂涎もののチケットだ。
だが、玲にとってはただの紙切れ同然だった。
「…俺は、いいや」
凛が差し出したチケットに目もくれず、人気アイドルになりつつある渋谷凛からの誘いを断る。
大して仲の良くない友人からの誘いを断るように、あまりにも無慈悲に、凛に一切の希望を与えないかのように、ばっさりと切り捨てる。
例えアイドルに興味の無い人間でも、アイドル本人からライブに誘われれば多少なりとも行くかどうか悩むだろう。それが普通の人で、普通の反応だ。その上、中学時代に仲の良かった旧友ならば尚更。
しかし玲は、悩む素振りを見せることなく、即座に誘いを断る。
それは、何度も渋谷凛のライブに足を運んだことがあるからでもあり、玲にとって経験したことは何一つ夢中になれないと知っているからでもある。
経験すること。それを知ること。
それは夢中になれる何かを知る一歩目で、夢中になれない何かを知る一歩目だ。
だから。
「え、なんで…?」
凛の問いに、玲は応えることができなかった。
それもそうだ。
「特に理由は無いよ。それじゃ」
なんで。
何でもないから。
ただ、それだけの事だった。
玲の問題は玲だけのもので、いくら過去に関わった凛であっても立ち入ることはできない。
呆然と固まる凛の脇を、「またね」と言って通り過ぎる。
マンションのエントランスに入ると、持っている鍵でエントランスホールの自動ドアを開錠し、非常階段を使って自宅である5階まで上っていく。二台のエレベーターがあるにもかかわらず、5階まで態々非常階段で上る人間は少なく、一人悠々と空の見える階段を上っていく。
黒い空を見上げながら器用に階段を上る玲は、先ほどの出来事を思い出す。
「俺はいいや、か」
凛の誘いをすぐに断った自分。その姿は中学時代の凛のようで、脳裏に浮かべた過去の姿が重なって、思わず自嘲する。
昔の自分は、無理やり凛に付き合わせていたのに、と。
断ることすら許さないような勢いで迫り、好きでもない所に連れまわし、見る必要も無い光景を見せ、挙句に凛の為になるようなことなど一つも無かった。
無意味どころか時間を無駄に浪費させるという、無駄という言葉では言い表せない程のマイナスを凛に与えた自分が、その凛からの誘いを断るとは。
「…ふざけてんな」
その言葉は、夜空の暗闇に溶けて消えた。
息切れすることも無く自室にたどり着いた玲はオートロックの扉を開けて、部屋に入る。光源は一つもなく、外よりも暗い部屋の中を何かにぶつかることも無く歩き、数十歩歩いた先で暗闇の中でも存在感を放つ黒い塊に手をかける。
がこ、と開けたそれは冷蔵庫で、中から2リットルのペットボトルを取り出し、両親から与えられた小さな自室に入る。ベッドとクローゼット、シンプルな机の上にノートパソコン、小さな本棚しかない四角い部屋が玲の城。玲だけの世界だった。
ボディバッグの中から財布とカメラを取り出して机の上に置いた玲は、ペットボトルに直接口をつけて冷たい水をがぶ飲みする。
「…っはぁ」
椅子に座り、小さな窓から見える景色は昔から変わらず、けれど玲にとっては新鮮なものだった。
「昔は、近い物に眼がいかなかったからなぁ」
昔から凛の為だけに走り回っていた玲は、自分の近くにある、自分だけに見える景色を知らなかった。
理由は単純で、見る必要が無かったから。
だが、心の内の全てが消えた今になって見える、今にも手が届きそうな景色は綺麗と言えるもので、それを知ったのはつい最近だ。
凛が夢を見つけて。玲が凛から離れて。加蓮が玲の近くに常にいるようになった。
秋葉玲は、秋葉玲の事をようやく見始めて。
渋谷凛は、秋葉玲から目を放して。
北条加蓮は、秋葉玲だけを見ていた。
だから、玲は自分の事をよく知らない。むしろ、加蓮の方が玲の事を知っている。そして、凛は玲の事を何も知らなかった。
誰かのために。そんな小綺麗な言葉の先にあるものが、こんなにも自分を苛む虚無であることを知っていたら、玲は凛の為に動いていただろうか。