いつもと同じパーカーにハーフパンツ、赤いサンダルは同じ色のスニーカーに替えて、玲は始発の電車に乗り込んでいた。土曜日の始発は人が少なく、端の席に陣取った玲はバッグからカメラを取り出す。
手に取ったそれは中学生の時に初めて買ったカメラだった。祖父母の農業の手伝いをして、貰った小遣いでより遠くへ移動できるようになった玲が、凛に旅先の景色を見せたいと思って買ったカメラ。その役目はすぐに変わってしまったが、それでも3年以上も玲はこのカメラで自分の見た景色を撮り続けてきた。
別に写真を撮ることが好きだったわけじゃない。ただ、なんとなく、自分が見た景色を、自分が歩いてきた道のりを形にしておきたかった。
凛に見せたものを確認するため。それもある。
だけど、いつからかその写真たちは、玲の軌跡になっていた。自分の足跡を知り、何にも夢中になれない自分を唯一証明してくれるものでもある。
何処かの場所へ。何かの経験を。いつかの出会いを。
自分が何をしてきたか。
今は何もなくても、過去に自分がしてきた多くの経験を、その写真たちは教えてくれる。
自分の軌跡を唯一信じることができるモノ。
それが、自分が働いて得た金で初めて買った、このカメラだった。
そのカメラを持ってどこに行くのかと言えば、玲にも分からなかった。
何もない休日に玲は、ふらりと放浪する癖がある。
今日もそんな放浪癖が出たために、電車に揺られて北へ向かうことにした。目的地は無い。
両親や誰かに何を言うでもなく家を出て、疲れた表情のサラリーマンを遠めに見ながら出発したばかりの電車内から流れていく風景を見ていると、隣の車両から誰かが歩いてくる。
「…なんでいるんだよ」
横目でその人物を確認すると、ため息を吐く。
いつもは二つ結びにして巻いた髪を、今日は下ろしている。動きやすく、かつ可愛らしさを重視した白いホットパンツに水色のシャツ。赤いショルダーバッグを肩に掛けたその人物は、空いている席に目もくれず玲の隣に腰を下ろした。
「玲の事ならなんでも知ってるからね。てゆーか、朝早すぎじゃない?めちゃめちゃ眠いんだけど」
「だったら来るなよ…え、なんで俺が責められてるの?」
「乗り換えの時に起こしてよね、まったく」
そう言って、眼を閉じた加蓮は玲の肩に頭を置いた。玲から見れば何故付いてきたのかも、そもそも自分が出かけることを何故知っていたのかも分からない加蓮が、勝手に膨れて自分の肩で眠るという訳が分からない状況だ。
だが、そんな玲の困惑とは裏腹に、加蓮の内心は舞い上がっていた。
玲が出かけるのは昨夜の様子から察していた。疲れていた自分を送り届けてくれた後、去り際の玲の表情を見てどこかに出かけると考え、今までの玲から早朝の始発の電車に乗ることまでは容易に想像できた。
だから、加蓮が玲の傍にいること自体は、加蓮にとっては当然の事だった。
加蓮が舞い上がっているのは、ほとんど二人きりで玲にくっつき、恋人のように玲の肩で眠れるという現状ゆえだ。
その姿は仲睦まじい恋人そのもので、玲の感触や匂い、体温を直に感じ、その上、今日一日想い人とデートができると思うと、それで舞い上がらない恋する乙女がこの世にいるだろうか。いや、いない。加蓮は内心で断言する。
疲れて眠る直前に、始発のこの電車に間に合うようアラームをセットした昨夜の自分をほめてやりたいくらいだ。
眼を閉じても玲の存在を感じることに夢中になっている加蓮は、一向に眠る気配がない。だが玲はそれに気づかず、自分が写らないようにカメラの角度に注意しながら加蓮が寝ている姿を撮影する。
何気ない日常の一コマ。それだって今の玲にとっては大切にしなければならないものだ。
悲しいかな、その日常にいるのが加蓮で無かったとしても。
電車に揺られること数十分。
乗車中にスマホで調べて、帰りの時間なんかを考慮した結果、新潟に行くことにした。新幹線に乗るだけの金は持っているし、最悪加蓮に奢るだけの金もギリギリある。
「北条、降りるよ」
「…んぅ?」
玲を堪能していた加蓮はいつの間にか寝落ちしていた。ゆっくりと瞼を開け、先に降りようとしている玲を慌てて追いかける。
「ねぇ、結局どこに行くことにしたの?」
「新潟。まだ行ったことないし」
「ふーん。私も行ったことないし、お互い初めて、だね…」
「妙な言い方しないでくれる?」
最寄り駅と違って人の多い駅構内を並び歩き、新幹線の当日券を購入する。
玲の行動を玲以上に把握している加蓮も、それなりの金額を持ってきているようで、互いに一枚ずつの購入となった。それを持ってホームへと移動し、到着していた新幹線に乗り込む。
「手慣れてるね」
「慣れてるからな。それより、今日仕事は?」
「休みだよ。だから昨日もレッスンに夢中になっちゃったんだけど。本当は今日休むつもりだったのにさぁ」
「じゃあ休めよ。ほんと、なんで付いてきたの?」
その問に、加蓮は口から出かかった言葉を飲み込む。
そんなの、玲がいるからに決まってる。今まで一緒に見られなかった、一緒に経験できなかった、玲の一番だった知らない誰かのための光景を、誰よりも先に、玲と一緒に見るために、加蓮はいつでも玲と一緒にいたいと思っている。
その言葉を喉奥に押し込み、それらしい言葉を口にする。
「なんでって、旅行ってやっぱ楽しいし。それに、昔は行けなかった場所に行けるのは嬉しいからね」
「……そうか」
加蓮の過去を知っている玲としては、その言葉を聞く前に察しなければいけなかったかと、内心反省する。
そのまま口を噤み、話を終わらせた玲はカメラを構えた。窓際に座る加蓮にレンズを向け、声をかける。
「北条」
「ん、なに?」
「いいから、こっち向け」
玲の言うことに従った加蓮を、玲は撮影する。流石に新幹線の車内でフラッシュは使わず、けれどシャッター音が小さく響く。
「え、何々、撮ってくれるの?」
「記念にな」
「っ!」
玲のカメラは、出会った時から変わらない。
あの変化し続けていた頃から唯一変化しなかった、玲を記録し続けたものだ。その記録の中に自分が入ることが、どれだけ加蓮の心に響いたか。
あまりの喜びに、綻び、緩んだ顔を見られないように顔を背ける様子を見れば、どれほどのものか察しが付く。
どれだけ力を入れてもにやける頬を手で押さえ、胸の内が熱くなるのを感じる。
「北条?」
「…ちょっと待って」
「別にいいけど…」
結局、乗車中に加蓮の頬のゆるみが治ることは無く、写真は目的地に着いてからということになった。
当然、加蓮が悶えている間、窓の外を見ることもままならない玲は暇になり、襲ってきた眠気に身を任せて目を閉じた。
その結果、揺れたはずみに加蓮の肩に頭を落としたことにより加蓮がさらに悶え、乗車中はアイドルどころか女子として見せてはいけない表情になっていたことは本人を除き、誰も知ってはいけないのだった。
兎にも角にも、目的地にたどり着いた二人は、巨大な駅をいつものように並んで歩く。臆さずに歩く二人はまるで地元を歩くような気軽さで歩いていく。
その姿の理由は違うものだが。
玲にとって、行ったことの無い場所などいつもの事だ。いつも行っていることに臆するほど、玲の肝は小さくない。
加蓮は玲がいる場所なら、玲さえいれば、何かに臆する必要を感じない。何故なら、玲と同じものを感じるために動いているのだ。何かに臆する余裕など、加蓮の心には存在しない。
だから、二人は堂々と歩みを進める。
思う心は違うけれど、二人はまだ見ぬ光景を探しに行く。
玲は自分の心を求めて。
加蓮は玲との思い出を求めて。
二人の短い放浪の一日が始まる。