駅を出た二人は地図を見ることも無く進んでいく。
「どこ行くの?」
「とりあえず海かな。日本海って綺麗らしいし」
「へー。駅から近いの?」
「さぁ」
「さぁ、って」
駅前から続く大通りを、カメラを首から下げて歩く。隣を歩く加蓮は、なるべく玲と距離を開けないようにしながら、初めて訪れる土地とその風景に目を輝かせていた。
駅前ということもあって大きいショッピングセンターやビルも少なからずあるが、東京と違って空が広い。広々とした空と、そのおかげか澄んだ空気が加蓮の頭と体にインプットされていく。
家族旅行も、修学旅行も行ったことが無かった加蓮にとって、自分の知らない世界を知る為には玲が必要だった。写真と玲の体験を聞くことだけが、知らない世界を知る唯一の手段だった。
だからこそ、こうして実際に知らない土地で、知らないものを見て、初めての空気を知ることの喜びは一入だった。
「なんか、凄いね…!」
「…まぁ、東京じゃ味わえないよな」
目を輝かせる加蓮に、態々その喜びを削ぐようなことを言わずに合わせる玲。正直なところ、玲にとっては凄いと思える要素は欠片もないが、だからと言って同行者の気分を下げるようなことは言わない。玲の優しさの表れだ。
「あ、あれ食べようよ!」
そう言って加蓮が指したのは、商店街にあるような揚げ物屋だった。加蓮が駆け寄り、その後ろを玲がついていく。
その店の前に行ってみれば、店主は50代くらいの鉢巻きを巻いた男性だった。いかにも頑固親父といった風貌の店主に、加蓮は笑顔で声をかける。
「おじさん、オススメって何かある?」
「オススメっつったらコロッケだな。うちのコロッケは芋と肉に拘ってるから、他の店にゃあ負けねぇぞ」
「へー!他にはないの?」
「お、だったらこのメンチとかはどうだ?良い挽肉使ってるぜ。というか、見ない顔だな。嬢ちゃん観光客か?」
「うん。東京から来たんだ」
「ほー?東京と比べて、こっちの空気は美味ぇだろ」
「うん!息苦しくないというか、澄んでる感じがする」
「そうだろそうだろ。そんで、どうする?両方買うならサービスするぜ?」
「そうだなぁ」
二人の怒濤の掛け合いに、ようやく玲が到着する。相変わらずの無表情だが、その手にはカメラを構えていた。
無言でカメラを構えると、楽し気に離している加蓮と店主をレンズに収め、シャッターを切る。
「玲、どっちが食べたい?」
「どっちでもいいよ。北条が好きな方買えば?」
「んー、どっちも美味しそうなんだよね」
「そんじゃあ、二つとも買って、二人で分けりゃあいいんじゃねぇのか?そっちの彼氏さんよ、どうだ?」
「か、彼氏!?」
話を振られた玲ではなく、加蓮が大げさに反応する。ぼっ、と一気に顔が赤く染まり、ようやく収まった顔の緩みが再発しそうになるのをぐっとこらえる。
それを一瞥もせず、玲が店主に話しかける。
「そんじゃあコロッケとメンチを一つずつ。あと、彼氏じゃないんで」
「そうなんか?まぁとりあえず、ほれ」
「あざっす」
紙に包んだコロッケとメンチを玲に渡し、片方を加蓮に手渡す。その加蓮がやや落ち込んだ表情をしているのに気づくも、気にしないことにした。それに触れて欲しいような、そうでもないような、複雑な雰囲気を悟ったからだった。
メンチを一口齧り、美味ぇと呟く玲と、どこか複雑な表情でコロッケを齧り、その美味しさに頬を綻ばせる加蓮を見て、店主は満足そうにうなずく。
半分ほど食べたメンチを加蓮に押し付けた玲は、カメラを手に取って店主に向ける。
「あの、写真撮っていいすか?」
「ああ?別にいいけど、こんなオヤジ撮って楽しいか?」
「まぁ、思い出なんで、なんでも撮るようにしてるんです」
「ほー?んじゃ、カッコよく撮ってくれよ?」
言われなくても。
言葉を発することも無くカメラを構え、店の外観ごと写るように数歩下がる。
そして、シャッターを切った。
店を後にした二人は、店主から聞いた海までの道をゆっくりと歩いていく。
玲は時折街並みを撮影しながら。加蓮はと言えば、未だに玲の食べかけのメンチを持っていた。
「あのさ、早く食ったら?」
「だってさー…」
「なんだよ。間接キス位気にする年じゃねぇだろ」
「ばっ!なんでそういう事言うの!?気にしてないけど言われたら気になるじゃん!」
「早く食わないからだろ。俺が食ってやろうか?」
「だ、ダメ!」
玲が軽く手を伸ばすと、今までの様子が嘘だったかのように、勢いよく食べ掛けのメンチを口に含む。もごもごと口を動かし、顔を赤くしながら玲を睨む。
それを見た玲は止めた足を再び進める。
大きな川を渡り、住宅街を抜け、すれ違う人々を撮影しながら、ようやく潮の香を鼻が捉えた。
歩いて1時間半ほど。
目の前に広がる透き通るような海。遠くに見える水平線。その先にはきっと、大きな大陸があるのだろう。
けれど、見えないその世界よりも、今見える美しい光景を、加蓮はその瞳に映していた。
想い人と初めて一緒に見たこの景色が、二人の思い出になってくれと。
並び立って海を見つめていた加蓮は、前かがみになって玲の顔を覗き見る。
空っぽの彼は、この素晴らしい光景を見てどう思うのだろう、と。
何も感じないのか。私と見た、と思い出に残してくれるのか。ただ、彼の軌跡にそっと足跡を残すだけなのか。
願いが叶うのなら、私と二人だけの思い出として、彼の心に刻んでくれと。そう願いながら。
けれど、やはり心のどこかでそんなことは無いのだろうと確信していた。
彼の心がこんなことで満足するのなら、加蓮と玲は一緒にいない。
「…?」
だからこそ玲の表情を見て、加蓮は困惑した。
下から覗き見た玲の表情は、今まで見たことが無いものだった。
いつもは死んだような濁った瞳が、綺麗な海を反射するように透き通り、目の前に広がる光景を目に焼き付けているよう。手に持ったカメラで撮影するのを忘れたように、呆然と立っていた。
「玲…?」
加蓮の呟きに反応すらせず、けれど確実に、今まで加蓮が見てきた玲からは想像もつかない雰囲気を纏っていた。
楽し気に経験を語る玲を見てきた。
熱が冷めて、その瞳にはこの世界が白黒に映っているようにさえ思える玲を見てきた。
目的も無く放浪し、夢中になれるものを探し、諦めている玲を見てきた。
だから、美しい光景に呑まれて、感動で動けなくなっている玲を見たことが無かった。
加蓮のことなど気にも留めず、ただ目の前の光景だけが自分を構成する全てであるかのように、ただただ立ち尽くしている。
自分の知らない秋葉玲。知ることができなかった玲。そしてきっと、以前玲の中にいた、誰よりも、何よりも優先されていた、一番だった誰かでさえ知らないだろう、秋葉玲の姿。
ああ、一緒に来てよかった。
二人で来たことがたとえ玲の中に残らなかったとしても、誰も知らない秋葉玲を知ることができた。
この瞬間だけは、私と玲は同じものを共有していると、そう思えたから。
加蓮は玲だけを想い、玲と同じものを共有していることに喜んでいた。
けれど玲は、自分の事だけを考えていた。
それもそのはず。そもそも玲の放浪癖は自分探しと同義であり、今日だって加蓮が付いてくること自体イレギュラーだったのだ。目の前の景色を見て、誰かの事を思う余裕など、玲の中には無い。
いつまでも夢中で居続けることはできないけど、こうして一瞬だけの感動で自分の心をほんの少しでも満たせることができる。その事に喜びを感じることができる。
たったそれだけのことに、自分はまだ捨てたものじゃないと思えるから。
少しだけ潤んだ瞳に美しい海原を映しながら、玲は思う。
この光景が。
この一瞬だけの想いが。
いつか自分の為になってくれ、と。