デルタ・カラー   作:百日紅 菫

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初夏の経験

 「……あ」

 海岸に立って数分。

 ようやく我に返った玲が声を上げた。潤んだ瞳を手の甲で軽く拭って、その手でカメラを持つ。

 「北条、波打ち際で撮ってあげる」

 日の光で輝く海を指して、加蓮と向き合う。キラキラと光る海が背景なら、まだ卵とはいえアイドルである加蓮を撮る為の背景としては十分だろう。

 砂浜に足を踏み入れた玲の後を、目を丸くした加蓮が追いかける。

 「ね、ねえ、もう大丈夫なの?」

 「何が?」

 「いや、ずっとぼうっとしてたからさ」

 「ああ、それはいつもの事だから。それより、撮らなくていいのか?」

 「……撮るよ。撮って!」

 先に砂浜へと足を踏み入れる玲に続いて、加蓮が小走りで追いかける。

 

 加蓮が一瞬押し黙ったのは、加蓮が初めて見た玲の姿を、玲自身がいつものことと何でもないことのように言ったからだ。自分の特別は、玲の特別じゃない。

 それならば、玲の特別がいつものことになる前に。玲のいつもの事が、特別だった頃に。

 玲と二人で、その特別を共有したかった。

 そんなことを考えて。これからそんなことができればいいと思った。

 今までチャンスを無駄にしていたという思いと、これからは自分にだけチャンスがあるという希望。

 その一歩目として、今この瞬間をチャンスに変えようと、加蓮は思考を巡らせたのだった。

 

 小走りのまま玲を追い抜き、途中で持っていたバッグを投げ捨て、履いていたサンダルを脱ぎ、波打ち際で立ち止まる。

 裸足で海に向かって立つ加蓮は毅然としていて、水面の輝きが加蓮の髪を美しく照らしていた。

 直後、波紋の輝きで照らされた髪が弧を描きながら、加蓮がくるりと振り返った。

 アイドルとして相応しい笑顔を纏い、すらりと伸びる健康的な白い手足が見る人の目を奪う。小さく蹴り上げたことによって舞う水飛沫がより一層自然の輝きを映し出し、それさえも加蓮を美しい景色の中でさらに際立たせるパーツでしかなかった。

 波打ち際で舞う加蓮を、美しさをそのままに玲が記録していく。

 いつかの自分の為と、歩いてきた軌跡を記録してきた玲のカメラに加蓮が映る。その意味を今の玲は深く考えず、考えたとしても何に繋がるかは分からないだろう。

 けれど、近い将来、玲は思い出す。

 この美しい光景に、共に居てくれた少女の存在が、どれだけ貴重だったのかを。

 

 「ねー!玲も一緒に撮ろうよ!」

 「いや、誰が撮るんだよ」

 「えーっと…あ、すみませーん!」

 数枚の写真を撮ったことを確認した加蓮は、玲に問いかける。

 そもそも、玲のカメラに玲自身が写った写真は一枚も無い。それもそのはず。どれだけ大切なものであったとしても、所詮は記録。玲にとっては自分が映らなくても、自分が何処に行って、何をして、何を見たかさえ記録されていればいいのだ。

 だからこそ、加蓮の問いに真正面から疑問を浮かべたし、その必要が何処にあるのかも分からなかった。

 けれど、そんな玲を無視して、加蓮は近くを通りがかったカップルに声をかけ、自分のスマホを手渡していた。さらに玲の手からカメラを強奪し、それもカップルに渡してしまう。

 「えー…」

 「いいから、ほら!」

 「うわ、おい…うぉっ」

 玲の腕を引っ張り、海を背に向ける。

 加蓮のスマホと玲のカメラをそれぞれ構えた男女が、それぞれスマホのディスプレイとカメラのモニタを見て微笑む。

 そこには、満面の笑みを浮かべた加蓮と、よろけて少しだけ驚いた表情の玲。

 その姿は仲睦まじいカップルそのもので、きっと加蓮が求めている景色だ。

 初々しく、暖かいその光景に微笑みながらも、どこか目を奪われる。

 卵とはいえアイドルである加蓮はともかく、一般人の中でも輪をかけて普通な玲にすら視線がいってしまう。太陽のような加蓮と、その輝きに隠れて見えない玲。そんな例えが思い浮かぶほどに、対照的で、儚く、何よりも自然。

 今まで玲が撮ってきた写真が加蓮の心を動かしたように、二人の姿が二人の男女の目に焼き付いて離れない。

 輝く海。美しい空。笑顔の加蓮と、無表情の玲。

 写真に収められたそれらは、玲が撮ってきた美しく、楽しげで、儚く、荒々しい、神秘的で、日常的な写真たちと比べても遜色無い程に、玲の軌跡たりうる光景だった。

 「…あのー?」

 「あ、ああ、ごめん。はいどうぞ」

 「ありがとうございます!うわっ、玲表情無さすぎじゃない?」

 「うるせ。すいません、ありがとうございました」

 お礼を言う二人にカップルは手を振り、その場を去っていく。地元民なのか、玲たちと同じように旅行に来たのかは分からないが、少なくとも出会った二人は優しい人だと思った。

 砂浜を去っていくカップルの後ろ姿を、返してもらったカメラで撮る。

 「帰ったら現像して渡すよ」

 「お、ありがと。それじゃ、そろそろ行こっか」

 放り投げたバッグと脱ぎ捨てたサンダルを回収した加蓮が玲を伴って砂浜を後にする。

 去り際に、玲は静かに音を立てる海を振り返る。

 最初に見た時の感動はもう無いが、それでも自分に初めての経験をさせてくれたことに感謝した。記憶に残るかどうかは分からないが、記録に残ったこの景色が、自分に与えてくれた初めての経験に。

 

 

 

 海を後にした二人は、歩いて駅に戻れる範囲を歩き回る。

 夏前の昼ともなればそこそこの気温を醸し、薄着とはいえ暑さは防げるものではない。前日の疲労が取り切れていない加蓮は勿論の事、普段から歩き回っている玲でさえ若干の嫌気がさしていた。

 「ねー、どっか入らない?めちゃめちゃ暑いんだけど…」

 「だな。この時期の散策は海より森のが良かったな…」

 先ほどまでの感動をぶち壊すような発言が無意識に出るほどに、玲と加蓮はうなだれていた。額から出る汗を拭い、それでも止まらない水分を補給するようにスポーツドリンクを、喉を鳴らして飲む。隣の玲も同じようにペットボトルを傾け、足りなくなる水分を補給していく。

 「森かぁ。マイナスイオン出てそう」

 「実際に出てるかは分かんないけど、少なくともここよりは絶対涼しい」

 兎にも角にも、避暑地を探し求めて歩く二人の前に、小さなカフェが現れる。交差点の角に陣取り、立地は最高。店構えもオシャレ且つ、社会人も学生も気軽に入れそうな外観。外に出ている看板にはおすすめのメニューが書かれていて、居心地の良さを優先しているのか、ガラス張りの窓はカーテンがかけられている。

 何よりも玲と加蓮の目を引いたのは、看板の真ん中にでかでかと書かれている、ジェラートの文字だった。

 「…ここに」

 「…決まりだな」

 顔を見合わせることも、迷うことも無く、店の扉を開けた。

 カランカランと扉につけられたベルが鳴り、ひんやりとした冷気が熱された二人の肌を撫でていく。急激に冷やされた汗がさらに体を冷やし、すぐにでも拭かないと風邪をひいてしまいそうだ。

 だが、そんな冷たさが、今の二人にとっては救い以外の何物でもなかった。

 「ふわぁ…」

 声が漏れる加蓮を連れて、店内奥の二人席に着く。

 「疲れたぁ」

 「北条は昨日から動き回ってるからな」

 「うん。でも、楽しいからいいの」

 「なんも言ってねぇよ。北条がやりたいと思ったことなら好きにやればいい。俺に邪魔する権利はないし」

 ようやく一息ついた二人は、コーヒーと一目ぼれしたジェラートを頼む。待っている間に始まった他愛もない話は、すでに二人の間で何度もされた話で、けれど飽きない話だった。というよりは、飽きてはいけない話だ。

 それなりに丈夫になったとはいえ、加蓮は未だ定期的な検診を受けている。過去を知り、今の加蓮も知っている玲としては、一緒にいる以上、加蓮の体調にも気を配らなければならない。加蓮からすれば考えすぎかもしれないが、それでも想い人が多少なりとも自分の事を考えてくれるのは嬉しいし、体調に気をつける必要があるのも確かなので、有難く甘受していた。

 そうこうしているうちに注文していたコーヒーとジェラートが運ばれてきて、二人は同時にジェラートに口をつけた。

 「ん、美味しい!」

 「生き返るわぁ」

 「じじくさ。もっとオシャレに生きようよ」

 「無理」

 軽口を叩き合いながらフルーティな味に舌鼓をうつ玲と加蓮。

 

 そこに一人の影が近づいてくる。

 二人は気付かない。

 

 「久しぶりね、玲ちゃん?」


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