深海戦線猟綺譚 ~兵装実験艦夕張・パンドラの社~ 作:八切武士
恐怖を洗い流す間もなく、黒い影が迫るのであった。
【艦娘療養所・洗濯室】
体を流れる温水が心地よい。
最近、少しでも寛(くつろ)げる場所と言えば、このシャワーブースの中位だ。
このブースは自分で設置した上に、念のため、重ねて隠しカメラについてはチェック済み。
正直、シャワーじゃなくて、湯船があればもっとリラックスできるのだが、それをやりたければ、五月雨が住んでいる、隔離区画の入浴施設を使わなければならない。
広々として良い風呂だったが、今になって考えると、あそこにも隠しカメラが仕掛けられている可能性は結構ある。
あれから、書類を色々見た結果、“検体004号”は五月雨の事だと察しがついた。
(……“検体004”関連の文書、記憶の書き換えに関する追証実験)
連続的な記憶の上書き。
永遠に同じ日を繰り返させる事。
(……○ヶ月による追証試験の結果、検体を利用しない間は、上記手順にて、トリガーと予め入念に作り込んだ“設定”を刷り込む事で、沈静化させたまま保存が可能と思われる)
「ぜんぶうそ……うそ、うそ……」
(外部刺激により、次回の“上書き”への影響を確認する必要あり……肯定的刺激(好ましい交流等)、否定的刺激(破壊的負荷)を与え、影響を確認する)
治療なんかじゃ無かった。
分かっていた。
でも、文書として、目の前に晒されるとキツい。
この分だと、まだまだ、ろくでもない“実験”の項目が出てくるに違いない。
いや、まだ、自分を誤魔化している。
一番調べたくないものを後回しにしているのだから。
(“検体003”……)
湯気で曇った鏡から、泣きそうな顔が見返している。
(……私)
何をされたか、知る事がたまらなく怖い。
馬鹿な態度な事は分かっているが、調べれば、分かってしまう。
無知の化け物は、知る事で力を削げる。
経験はそう教えているが、何か、知れば終わりになってしまう様な、そんな予感があった。
『話をしたい』
水音に混じって、不自然な声が耳に届く。
はっとして鏡を見ると、ガラス越しに黒い人影立っているのが見えた。
「誰?」
『騒がず、そのまま訊いてくれ、時間がない』
声は、ボイスチェンジャーを通した様な結構聞きづらいものだ。
夕張は、シャワーを止める。
「……」
『海岸では、お休みの所をけっ飛ばして悪かった……だが、こちらの足首の方が痛い』
背丈は夕張より少し高い。
入り江で合った人物だとは思うのだが。
『アレは、君が持っているのか?』
「……持ってる」
『そうか……安全か?』
「私が自分を信用できるなら」
人影が返事をするまで、少しだけ間があった。
『なら、君が持っていろ……君は他の娘と違う……大丈夫だ、気を強く持て』
「……分かった」
『見たのか?』
声が出せず、夕張はただ頷いた。
『……済まない、兎に角、今までと変わらずに過ごすんだ、気取られるな』
顔を上げた時には、人影は消えていた。
もう、シャワーは止めた筈なのに、ぽたぽたと、止めどなく水滴が流れ落ちる。
自分がこんなにも弱いとは思わなかった。
誰とも分からない人間の慰めに、張りつめたものが、あっさりと崩れてしまったのだ。
君は、大丈夫。
真偽も知れないこの一言にしがみつきたい。
「あらあらあらら、どうしちゃったの!」
頓狂な声が耳に入り、夕張は顔を上げると、驚き顔のおばちゃんが目に入った。
いつもの掃除のおばちゃんだ。
ぼうっと見上げていると、おばちゃんは作業服のポケットからポケットティッシュを取り出して、涙を拭ってくれた。
「はい、ちんして、そうそう」
鼻をかませ、脱衣所に用意してあったバスタオルで頭を拭いてくれる。
「ああ、もう、はいはい、ここ座って」
有無を言わさぬ勢いに圧されて、手近の椅子に座る。
ここまで来て、ようやく、シャワーブースのドアを開けっ放しにして全裸で座り込んでいた事に気がついた。
掃除道具を放り出したおばちゃんに、されるがままに体を拭いて貰い、着替える。
「ほんとどうしちゃったのかしらねぇ、大丈夫?」
「ちょっと……すいません」
もごもご言うと、両手で頬を挟んでうりうりされた。
「あ~、もう、いいのよ!いいたくなきゃね」
おばちゃんは、周囲を見回してドライヤーを見つけると、夕張の洗い髪を乾かし始める。
「あんな顔で泣いてる子、ほっとける訳ないわ」
今は強くなきゃいけない。
“ふつう”に過ごさねばならない。
でも、この手を振り払う事はできなかった。
「あんたぐらいの若い子には、色々あるわよね、辛くて泣きたい事も、訳の分からない事も」
ドライヤーの温風と、髪を梳く指がが心地よい。
「こんな事位しかしてあげられないけど、愚痴くらいなら、聞いて上げるからね」
わざとらしく少し考えるふりをして、おばちゃんはにっこり笑った。
「ま、長くは無理だけどね、仕事なくなっちゃうから」
口元が微かに動くのが分かる。
笑ったとも言えない表情の変化に、おばちゃんは笑顔を返し、もうすっかり乾いた髪の毛を手際よくポニーテールにまとめてくれた。
「はい、できたっ」
「……ありがとうございます、ちょっと、色々あって」
当然、事情を漏らす訳にはいかない。
でも、少しだけ、何か救われた気になった。
「若い内は、どうしても周りの世界が全てに思えちゃうのよね、周りにいる人間がどうしようもない連中ばかりに見える事もある……けどね、世の中には、正しい事をしてる人達だっているの、信じて」
ばしん、と叩かれた背中が少し熱い。
元気を注入された様な気がする。
「ありがとうございます」
「いいの、いいの、あんた可愛いんだからもっと笑いなさい、そうしたら、きっと、王子様が迎えにくるわよ」
頭を下げると、おばちゃんは豪快にがははと笑い、ふと、時計に目をやった。
「あ、いっけない、さぼり過ぎちゃったは、じゃ、またねぇ」
声をかける間もなく、おばちゃんは掃除道具を片づけ、部屋を出ていった。
まるで嵐の様だ。
(……しっかりしなきゃ)
憲兵の人は動いてる。
証拠をしっかり守って、チャンスを待たなくては。
夕張は、勢いをつけて洗濯物を洗濯機に放り込んだ。
そろそろ、無知の化け物にとどめを刺す時間だ。
To Be Continued...
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
内偵中の憲兵と思しき人物からの接触もあり、いよいよ終盤という雰囲気になってきたと思います。
“検体003”の真実とは何なのか。
次回以降も読んで頂ければ幸いです。