提督になんてなりたくなかった。
実際に口に出したら軋轢を生むので言わないけれど、それは偽りなき想いである。
白の軍服に身を包んだ青年――提督は、全身に纏わりつく倦怠感を振り切って今日も机に向かう。
ああ、本当に働きたくない。一体どうしてなんで、と。気を緩ませたら愚痴が溢れそうだ。
そもそもの話、提督なんてなりたいものだけがなればいい。
――まあ、それができたら苦労はしない。
提督と言っても、所詮は麗しきお嬢様方のご機嫌取りだ。
艤装を身に着け、海を征く。深海棲艦と互角に渡り合う“化物”だ。
当然、一般的な人間では足元にも及ばない遥か彼方にいる存在である。
艤装を展開していなければ一般的な少女と心身共に変わらないが、そんなこと些細なものだ。
外見は美少女、中身も人間と変わらない。だから、安心してくださいなんて思える訳ないだろう。
舐めた態度なんて取ってみろ、すぐに更迭――もしくは銃殺刑か。
まあ、ろくなことにはならないことは確定している。
そんなブラックな環境の鎮守府もあるらしいが、此処や自分の知っている鎮守府は比較的ホワイトだ。
というよりも、普通にホワイトにせざるを得ない。
幾ら、彼女達が化物と言っても疲労は存在するし、ちょっとのミスで轟沈なんて戦場ではよくある話である。
貧乏性でもある提督はそれを良しとは思わなかった。
艦娘の数だって限りがある。資材だっていつでも潤沢とは限らない。
鉄砲玉のように使うなんて効率が悪い、ある程度育てて質を高める方が長期的には運用がしやすい。
兵士が武器の手入れを怠らないように、提督も艦娘の調子を整えるのには余念がない。
中にはそのご機嫌取りが本物になってしまったのか、艦娘とケッコンなんてことをする提督も存在するらしいが、自分はゴメンだ。
要するに、穏便に接していれば問題は起こらないのだ、それだけの話である。
そんな中途半端な優しさしか持ち合わせていない自分が何故提督になのか、と。
毎晩、自室の備え付けの鏡に問いかけたくなるが、無機物がパーフェクトな返答をくれるはずもなく。
(ああ、本当に)
どうして、俺が提督なんだろう。
たまたま艦娘の能力を十全に引き出せる資質があったばかりにこんな所にいる。
特段に有能でもないにも関わらず、だ。
過小評価をする訳ではないが、過大に自己を見つめて悦に浸る趣味はない。
本当にただの偶然。運の良さだけでこの地位に就いている塵芥。
性根が腐っている以上、何をしようが変わらない。屑は屑で最後まで決まりきっている。
自分が一番大事でそれ以外を切り捨てられる冷酷なクソ野郎。それが、“俺”だった。
だから――――。
「おぼっ、ごっ、ぅっ、げほっげほっ、うぅぅっ」
――――脳内常時クソッタレ状態で酒に逃げるという訳だ。
提督、絶賛二日酔いである。トイレには既に二回往復済だ。三回目も嘔吐物は健在なり。
吐き気で目覚め、とりあえず近くにあったゴミ箱に嘔吐する最悪な朝から二時間が経過した。
吐き出される胃液の酸っぱさにもう耐えられない止まらない。
何が提督だ、バカバカしい。お願いなので二日酔い早く消えてくれ。
明日からは真人間に生まれ変わるので神様!
「もう、飲まねえ、酒、飲まねえ」
譫言を呟きながら便座を掴む提督に威厳は欠片もなかった。なおこの譫言は日中になったら撤回される。
こんな姿、艦娘達には絶対見せられない。見せた瞬間、舐められまくること間違いないので、頭が痛い。
そういう訳でなんとか業務開始前にはある程度調子を戻さなくてはならないのだが、この調子だと厳しい。
かくなる上は最終手段の体調が優れないので出勤ずらし。そもそも最悪な体調で命を預かる指揮なんて無理だ。
「うげぇ、がっ、ぉぅ、ごへっげひゅっ」
お酒、だめ、絶対。もう二度と飲まない。
この気持ち悪さが続いている時は決して。
■
そんなこんなで午前は演習、出撃を全部取りやめて、雑務で何とかやり過ごす。
しかし、午後となるとそうはいかない。
提督として、ある程度の実績を上げなければならない為、秘書艦の鹿島と一緒に演習の陣形考案だったり海域解放の作戦練りである。
それにしても、提督は思うのだ。この鹿島という艦娘、非常にあざとい。
可愛さ的な意味でわざとやっているのではと感じてしまうぐらい、男心をくすぐるのだ。
所作に言動、表情の作り方に至るまで天才としか言いようがない。
もしも、何のしがらみがなかったとしたら、自分もころっと落ちていたかもしれない。
(怖い怖い怖い怖い、普通に怖い。絶対あれ罠だよな、知ってる知ってる。
食虫植物も真っ青なやつだろ。ちょっとでも不用意なタッチでセクハラで訴えますって。
あ~~~~もったいねぇ。これで艦娘……部下と上司って間柄じゃなかったらなー。
仕事だからまだ最低ラインギリギリなだけで、これがプライベートになると見向きもされなくなるんだろうな、鬱だ死ぬ)
にこにこと表情を崩さず事務をしている彼女を見て、怖いなぁと再確認。
提督のように鍛えられた人間は逆に自分へとつっけんどんな態度を取る艦娘の方がある意味信用できるのである。
嫌悪的な意味で真っ直ぐ。嗚呼、わかりやすい、嫌われているならば事務的な対応で全部事足りる。
予め、悪口が言われるとなったら心の準備をしておけばいいのだから
相手も自分なんかと長く接したくないだろうからなるべく遠ざけたりとか。
大井とか霞とか作戦概要の時だけ意見を聞けたらいいだろうとか。
(嫌悪って言葉でわかりやすく括れるなら楽だし、何考えてるかわからん奴もまあ放置していればいいし。
加賀とか何考えてるんだろうな、いや赤城のこととか五航戦のことでいっぱいなんだろうけど)
逆に怖いのが好意的な艦娘である。
その態度を素直に受け止めることができたらいいのだが、色々と拗らせている提督はそんなことはできない。
もしも、好意的な態度が罠であったら。陰湿な悪口を裏で言い合っていたら。
何せ、自分はイケメンでもない、仕事もそんなにできないという凡庸な提督だ。
そんな奴に艦娘がすり寄って来る訳ないだろう、はははウケるといった次第である。
(怖えなあ、美少女って外見がまず怖いよ。お金払った方がいいかな、いや給金払ってるか。
うわぁもうダメだ、と。頭を抱えて逃げ出す他ない。
他の提督や艦娘がこの内情を知ったらどうしてここまで放っておいたんだという憐れみと優しさの混ざりあった目で見てくるだろう。
(鹿島、怖い。絶対裏で嘲笑っている。俺を罠にはめて独房送りにするつもりだ。
提督を辞めるだけなら全然いいし、大歓迎だ。でも、罪に問われて色々とリスクを背負わされるのは辛い。
その後のキャリアに響く。そんな真綿で首を絞められたような人生は嫌だ)
この提督を勘違いさせる態度にころっと騙された提督はきっと数多い。
そして、無理矢理に襲って憲兵の御用となったに違いないはずだ。
自分はそんなことにはならないし、そもそも鹿島もそういった好意を抱いてないと推測しているので、このままでいく。
「提督さん、そろそろ切りの良いところですし、休憩しませんか?」
「あぁ。急ぎの作戦立案もなし、ひとまずは現状維持で全然通用する。
陣形も作戦も今は艦娘達への定着を優先したいからな。ただ――」
「――万が一の時を備えて、ですよね」
「何が起こるかわからないからな。トップである俺が備えをしておかないでどうするんだって話だ」
天才的な才覚がない以上、作戦も陣形も色々と準備をしておかなければならない。
急造のモノでどうにかできる程、自らを過信はできず。慎重に慎重を重ね、その上で熟考した末に形になるのがやっとなのだから。
「それじゃあ、鹿島。休憩に行っていいぞ。調子が戻るまで帰ってこなくていいから」
そうして、少し卑屈気味な笑みを浮かべ、提督は鹿島へと視線を向ける。
一人の方が気が楽だ。艦娘がいたら無駄に神経を使わなければならない。
「いえ、今日は此方で休ませていただきます。美味しいコーヒー、淹れますね」
さよなら、楽園。これより先、この執務室は地獄である。
本当に鹿島、いい娘なのだ。裏表がないのではと勘違いしそうなくらいにだ。
このあざとさはもしかしなくても天然、いやいやそんなことはない。
まあ、外部か内部かは知らないけれど、お付き合いをしている誰かさんはいるのだろう。
時々、通信機器の画面を見て薄っすらと頬を朱色に染めて口元を緩ませていることから確定である。
(やっぱ、何の憂いもなくエロいことできる娘に限る。あ~風俗だよ風俗、やめられないとまらないこわくない。
そういう意味では艦娘なんてタブー中のタブーだもんな。幾ら見た目が最高で中身もよくても、重いもんな。
ずっと水底に堕ちるまで一緒とか重い重い。信頼も愛も全部重いわ、間違いなく)
こんな内面、バレたら速攻で憲兵だ。
軍人としても男としてもあまりにも俗な思考、艦娘から見たら軽蔑されてしまう。
だからこそ、外面はそれなりに良くしているが、取り繕うことにも限界はある。
「はい、どうぞ。今日のコーヒーは自信作なんです」
「自信作というと、淹れ方を勉強でもしたのか?」
「提督さんの口にも合うように頑張っちゃいました」
「媚びを売っても返せるものは何もないぞ?」
「いえ、私は十分に返してもらっていますので」
提督は曖昧に笑みを浮かべ言葉を返す。
コーヒーの味なんてわかったものじゃない、全ては彼女の言動を聞き、地雷を踏まないようにする一心である。
性根の腐敗とよくわからない拗らせ方を併発していなければよかったのに。
表面では健気な態度で尽くしてくれるが、その内面では――。
(……ほんと、ろくでもない)
どう考えても結論はネガティブになる自分が恨めしい。
■
鹿島は提督が好きだ。それはもう、彼の写真(隠し撮り)を通信機器の待受にするくらい大好きだ。
毎晩その待受を見て気分をキラキラさせてから寝るのが日課になっているぐらい好きである。
鹿島自身、ここまで惚れ込むとは思っていなかったぐらい、だ。
良く言えば社交的、悪く言えば八方美人。特定の誰かを好きになるなんて、と。
意識している訳ではないのだが、鹿島は異性の男性から好かれやすい。
それ自体は嫌なことではないが、告白までいくと話は別である。
告白を断るというのは非常に神経を使うし、できることならしたくない。
男女問わず末永く程よい距離で仲良くしていきたい。
深い間柄になる必要なんてないじゃないか、別に今まで通りの関係で問題ないのだから。
この鎮守府に配属されるまで、鹿島はそんな宙ぶらりんな関係しか築いてこなかった。
(最初は好奇心だけだったのに、いつしか好きに変わっていた)
どう贔屓目をしても、うだつの上がらない平々凡々の青年である彼。
天才的な閃きを常に導き出す護国の鬼将でもなく、艦娘を魅了してやまない絶世のイケメンでもない。
ただ、艦娘のことはよく見ていた。それは無論、鹿島のこともだ。
提督にとっては特別でもない、ありふれたある日。
鹿島にとっては特別であり、一生残り続けるであろう日。
――鹿島はいつも笑顔で、疲れないのか。
後輩の艦娘達への指導も終わり、業務報告をしている最中、ふと問われたのだ。
その時の自分の表情はきっときょとんとしたものだっただろう。
何せ、笑顔でいることは鹿島にとって当たり前のことである。
苦に思ったことなどないし、相手も笑顔になってくれるならそれでいい。
提督に返した言葉もそのようなニュアンスを多分に含んだものだった。
――すごいな、俺には真似できないことだよ。
そう言って、提督は困ったように笑った。
異性同性問わず好かれるように努力するのは当然だ。
周りに気を使って、円滑に関係を築けるように、振る舞いには力を入れていた。
自分を含め、すごいなんて言葉を投げかけてくる人は今までいなかった。
だから、不思議で仕方なかったのだ。
何故、そのような言葉をかけてきたのだろう、と。彼の内側にあるモノを鹿島は知りたくなった。
その一件から、鹿島は何となく彼を目で追うように心がけた。
秘書艦にも立候補し、彼の傍で観察を続けて数ヶ月。
彼もまた、非常に周りに気を使い、好かれるように努力をしていることだ。
(提督さんも私と同じなんだって気づいて、そこからはあっというまだったなあ)
そんな訳はなく、提督の場合、変にフレンドリーな艦娘怖い、後腐れのない美少女とエッチしたいという雑念をひた隠しにしているだけである。
しかし、美化100%の目で見ている鹿島は欠片も彼の雑念は察知できていない、悲しい乙女の瞳だ。
「今日のコーヒーは好みの味だな」
「……っ、よかったぁ」
「そんなに安堵することでもないだろう。俺は出されたものならしっかりと飲む」
この言葉の裏にある『だって下手なこと喋って機嫌損ねたらめんどくさいし……』という副音声は聞こえていない。
ニコニコ度合いがアップ、今快速で海上をかっ飛ばせそうな満面の笑みである。
今の鹿島は提督に好みの味と言ってもらえてウキウキルンルントリップ状態だ、普段の後輩指導で見せる頼りになる鹿島先輩は何処にもいない。
姉である香取が見たら目を逸らして手遅れですねと言いかねない乙女、鹿島、ちょっと落ち着いて欲しい。
それにしても、この二人、意思疎通が下手くそだ。
「私は提督さんに少しでも美味しいコーヒーを飲んでもらいたいんですっ」
「物好きな奴だな。そういう気遣いは後輩にしてあげたらいいだろ?
普段厳しく指導しているんだ、日常的な所で労ったら好感度が上がるぞ?」
だから、お願いです好意的な態度で俺を困惑させないでくれ――!
この男、本当に手遅れである。もうカウンセリング受けた方がいいよ。
「それじゃあ、提督さん。私に対して好感度は上がっているんですか?」
鹿島、攻める。これまで培ってきた対人技術の全てを込めた上目遣い、ちょっと気弱にトーンを下げた声、不安なんですと強張らせた頬。
これに落ちない人間などいない。これには大井っちもすごいわねと大絶賛だ。
事実、提督は結構ぐらついている。いや、これ俺のこと好きでしょ的な思い上がりがぐんぐん膨らんでいた。
けれど、そう――――けれど。鋼の精神で提督は耐えきった。
ここで乗ったらどうせうわっ、本気にするとかキモとか容赦のない侮蔑が来る。
流石に好意的な態度から一変、そういうきつい言葉を受けたら、提督も落ち込む。
せめて、心の防波堤を完成させてからにしてほしい。
「そういった言葉は俺のようなただの上司ではなく、もっと他にかけてやれ」
「……そうですねー」
鹿島、ぼっきぼきに折れる。提督の拗らせたヘタレ心は百戦錬磨、そう簡単には崩れない。
恋愛敗北者、まっしぐらである。表情は心なしか煤けて目尻には涙、正直諦めた方がいい。
いっその事、押し倒して好き好き大好き愛してるってやってしまうべきか、いやそれでドン引きされて距離を置かれたら轟沈してしまう。
なんだかんだで強メンタルではない鹿島はそういった葛藤から遠回りの告白、ずっとお側にいますね宣言を続けているのだが、まるで効果はない。
今日の夜も提督の待受を見ながら一人で提督攻略ノートを書き記すことになりそうだ、哀れだね。