ない、ない、ない。
ないものばかりで嫌になる。特にないのは安息だ。
こんな世の中じゃ掴める訳ないとは思うが、それでも、欲しいと願ってしまうのは性分なのか。
指先で転がしたボールペンを強く握りしめ、提督は何度目かもわからぬ溜息を吐き捨てた。
業務用連絡端末に入ったメッセージが一通。
それが提督の表情を曇らせている原因だ。
差出人の名前を見ただけで表情が自然と渋くなる。
上司。正確に言うと元がつくけれど。
その上司様が、暇を作って嘗ての古巣に来いという簡素なメッセージを送りつけてきた。
(行きたくない、本当に行きたくない)
無視できるものなら無視したい。しかし、無視すると後々に響く。
にこにこ笑顔でアイアンクローをしてくる怪力な“彼女”をどうしたものか。
数秒考えるも、導き出される解答は一つだけだ。
胃痛が凄惨極まる状態になりたくなければ、赴くしかない。
覚悟を決めて、提督はボールペンをくるりと回しながらペン立てに入れて再び溜息一つ。
現在の時刻は正午になった頃。仕事の切り上げ時にはちょうどいい。
今日の秘書艦である鹿島に終日戻らないと告げ、提督は足早に執務室をあとにする。
それにしても、鹿島は大きな重箱の弁当を持っていたから今日は盛大に誰かと食べるのだろうか。
ぐすんといじけていたが、まあ鹿島にも色々と事情があるのだろう。
深くは詮索しない。それがこの鎮守府でうまくやっていく秘訣である。
(面倒なことはさっさと片付けるに限る)
ああ、窓から差し込む陽の光はあんなにも煌々としているのに。
今の自分は台風さながらの荒れ模様だ。
もう胃薬を飲んだ所でどうしようもない。
今日のトイレはいつもより長くなるだろう。
(どうにかして行かない理由を作って回避したいが、結局はジリ貧。
そんな小手先で考えた手段なんて、あいつはお見通しなんだろうし)
とはいっても、これは仕方がないことだ。
職場が変わっても、つながりは絶たれない。定期的に向こうへと行かなくてはならない事情があるのだから。
頭に思い浮かべるだけでも嫌なのに、考えなくてはいけないジレンマ。
やはり、自分は勤労という概念に向いていないのだろう。
提督は鎮守府を出て、通りを走っていたタクシーを捕まえる。
運転手に告げた目的地と自らの服装から、何かしでかしたのかと訝しがられたが、知ったことか。
(戦場で武器持って戦うよりはマシなんだろうが、まあ嫌なものは嫌なもの。
ランク付けなんてする方がナンセンスか)
走り出したタクシーに揺られ、提督はぼんやりと首を横に傾けて外を見る。
タクシーの窓から見える風景は平和そのものだ。
親子連れが仲良く手を繋いで歩いている。
会社員が御飯処のメニューを吟味している。
老夫婦がベンチに座り、和やかに歓談している。
十数年前には考えられなかった景色だ。
深海棲艦が産まれ落ちてから、世界は一変した。
艦娘という存在がいなければ、この世界はとっくに滅んでいる。
蹂躙と略奪が闊歩する世界へと様変わりだ。
(どう転がろうが現世は地獄だ)
あくまでも艦娘の抑止力は一時的である。
深海棲艦はどれだけ滅しても、何処からともなく湧き出てくる。
末端の有象無象は何の知能もない木偶だが、それらを統率する立場にもなると、知能と力に秀でている。
(勝っても、負けても。未来が灰色だってことぐらいわかってるさ)
仮に深海棲艦との戦争を人類側の勝利で終わらせたとしてもだ。
今度は人類同士の戦争が待っている。
残された資源、土地を各国が艦娘を用いて奪い合う。
結局、どう足掻こうが、戦争が根絶されることはないだろう。
艦娘も命を懸けて戦い、勝ち取った未来がこれじゃあ、あまりにも報われない。
そもそも、報いを期待して戦うのが間違っている。
戦い抜いて朽ち果てるまで。
今の幸せは薄氷の上にあることを提督は再認識した。
――ああ、着いちまった。
鎮守府と似た外観の建物前で止まったタクシーは提督を下ろして、無情にも走り去った。
ここに来ると表情はいつだって苦いものになる。
誰が好き好んで元職場に顔を出して、上司に会いたいのか。
内心で渦巻く不快感を何とか抑え込み、提督は建物内へと入っていく。
その歩みは遅々としており、鎮守府から出る時の逃げ足が嘘のようだ。
(やっぱり来るんじゃなかった。色々と取り繕うのがめんどくさい)
どいつもこいつも下から見上げやがって、と。
暗鬱とした表情は益々深みを増していく。
出会う面々の輝いた表情と見たらもう!
深々と頭を下げられたり、丁寧すぎる挨拶、奇麗すぎる敬礼だったり。
そういった態度で接されると、こちらもそれに応じた態度を取らなくてならないのだ。
正直いって、すごく面倒である。
とはいえ、立場的には仕方がないのかもしれない。
自分が相手の立場であったら、同じような行動を取るだろう。
軍属である以上、立場をわきまえた行動を取るのは当然なのだから。
にこやかな営業スマイルを顔に貼り付けつつ、適当なあしらいで受け流す。
これだけで相手が勝手に良い方向へと解釈してくれるものだから単純だ。
こっちは重い足取りで上司が待つ応接室へと歩を進めているというのに。
(それを踏まえても、こんな態度を取られる程聖人君子ではないんだがな)
そんな心にもない笑顔を貼り付けて挨拶を受け流している内に、応接室へと辿り着いてしまった。
数秒間。笑顔の仮面を取り外した提督の表情は既に疲れ切っている。
正直、ドアを叩く勇気がない。
ドアの前で数秒間固まったままの自身の滑稽さが全く笑えなかった。
ただノックをするだけなのに、どうして全身がこんなにも重いのだろうか。
「――――いつまでも、ドアの前で立っているのはどうかと思いますよ?」
「…………ッ」
そうして、提督が解決不可能な懊悩を何重にも重ねている時、鈴の音のように軽やかな声がドア越しに聞こえてきた。
ああ、本当に敵わない。“彼女”には自分の懊悩などとっくに見通されている。
麾下の艦娘達とは違い、彼女は長い付き合いであるからごまかしも効かない。
ましてや、人を束ねる立場である彼女は下の者をよく把握している。
適材適所、最良の使い潰しができるように、彼女の明晰な頭脳はいつだって解答を早期に打ち出してくるのだから。
「はぁ、失礼します」
「はい、失礼されちゃいます」
最も、そういった有能な部分はあくまでも側面に過ぎない。
本来の彼女は茶目っ気があり、親しみやすい。
それでいて、戦場では最強の武勇を誇る“艦娘”なのである。
ドアノブをゆっくりと回し、気怠げに応接室へと入る。
広々としたソファに座り、ひらひらと手を振る一人の艦娘が待っていた。
「お久しぶりです、提督」
「ああ久しぶりだ、“大和”」
「どうです? お仕事は順調ですか」
「順調な訳あるか、ギリギリのラインだよ。ったく、本業は“憲兵”なんだぞ、俺は。
軍略のド素人を隠すにしたって、限界がある」
これから普段の業務と比べても、数倍は神経を使うのだ、表情も益々渋くなる。
そんな提督とは裏腹に、相対する彼女は満面の笑みだ。
心底楽しみにしていましたといわんばかりに、うきうきである。
「軍にとっての不穏分子――内部からしか見えない膿を炙り出す為とはいえ、スパイじみたことは疲れる」
「そうなると、益々労わないといけませんね。これからはもっと定期的に呼び寄せることにしましょう」
勘弁してくれ、と。
首を横に振る提督は改めて艦娘――大和へと向き合った。
ここにいる時、自分は“提督”ではなく、“憲兵”である。
いつも演じている役割と性格をここでは取り払ってもいい。
それだけが、彼にとって唯一の救いであった。
「よく戻ってきました・憲兵隊所属副隊長――」
「そういう長い口上はいらない。時間の無駄でしかない。
さっさと用件を済まして、俺を帰らせろ。定時じゃないと泣き喚くぞ」
「それは興奮しますね。とはいえ、その機会は今度にとっておきましょう」
「うっわ」
「……つれないですね。私は今日のこの一時をずっと待ち望んでいたというのに」
「できれば適当な予定を入れて、戻らないつもりだったんだがな」
「駄目ですよ。そんなことをしたら、私……悲しみのあまり轟沈してしまうかもしれません」
憲兵隊の長である大和とそれを支える副隊長。
もとい提督と艦娘。かつて築いた関係が垣間見える軽快な会話を二人は続けていく。
「冗談ですよ、冗談。そんな怖い顔をしないで下さい。
蒼き穏やかなる海の自由を取り戻すまでは朽ち果てるつもりはありません」
「いざとなれば躊躇なく鉄火場に飛び込める奴がよく言う。
いいか、勝手に死んでくれるなよ。俺の仕事がもっと増える」
「ご安心下さい。戦場が変われど、在り方は欠片も違わず。
轟沈する運命を変える為に、無駄死になんて、ね?」
「ね、じゃないっての。過去には負けない、殉死なんてしない。口でなんとでも言える。
でも、いざとなれば命なんざ平然と投げ捨てられるのがお前だろ」
「お言葉ですが、そこまで自分を軽くしてませんからね?
完全無欠の勝利こそ、艦娘として再臨した私の今生の願いなので」
儚げながらも意志が垣間見える笑み。
こうしてみると、椅子に座っているだけなのに、貫禄がある。
「まあ、燃費が悪いから……。運用コストがかかりすぎることもあって、こうした後方業務に飛ばされちゃったんですけどね」
「いざという時の決戦兵器をほいほい抜錨させたくないんだろうよ。
憲兵側にでも回してモチベ上げる要因として使っておけば腐らないって感じだ」
「過保護なんですよ、上層部は。
こうした秩序を司る仕事をするのも嫌いではありませんが。
それはそれとして、私は艦娘です。戦う為に生み出された存在です。
なのに、ずっとこの部屋で書類作業。
たまには海に出ないと色々と鈍っちゃうので困ります」
貫禄、一気に消える。
ほにゃっとしたゆるゆるの顔に一瞬で切り替わる。
ちょっと抜けた部分があるから周りから慕われるのだろう。
全てにおいて完璧である、と近寄りがたいイメージがついてしまう。
以前に大和と話した時、そういったつぶやきがあったことを提督は覚えている。
「四方山話はいったんは区切りとして。書類の方をお願いします。
今後に必要なものでして、貴方に書いてもらわないと困ってしまって。
経費申請書とか貴方が憲兵経験のないまっさらな提督であるとか。
ごまかしに使う書類とか色々溜まっているんですよ」
「大和が代筆して提出とか」
「連名で提出なので署名がほとんどですから」
机に置かれた書類の束は分厚く、しばらくは提督をここに拘束する気満々である。
大和はニコニコと表情をほころばせて、くるくるとペン回しをしている始末だ。
早く帰りたい提督は観念して、ボールペンと印鑑を取り出した。
「提督でない時ぐらい、書類関連から離れたいんだがな」
「そう言わずに。私の部分は全て書き終えていますので」
書類。ペーパードキュメント。
ごまかしに使うものや、業務の遂行の再確認に用いるなど、様々だ。
そもそも働いている以上、書類というのは切っても切れないものである。
提督のように少しでも楽をしたいと思って、PCを使っている者もいるが、それでも、書類は業務から消えてくれない。
「全部PCで終わらせたい」
「まあまあ。先程も申した通り、名前を書くだけですのでさらっと流す感覚でいきましょう。
書き漏らしにつきましては、私も確認いたしますので」
「ダブルチェックがあるなら安心か。書き損じの修正の為に、またここに来るとか嫌だからな」
さらっと見て、さらっと書いて。
結構な枚数の書類を処理し、大和へと渡していく。
経費申請書であったり、契約書であったり。
読んでおかないと後々痛い目をみそうなものだけは熟読する。
しかし、今手に取った婚姻届なんて業務に関係がなくて、妻になる人の部分には、しっかりと大和の名前が書かれているのは何故だと――。
――婚姻届っておかしくないか?
提督の表情が凍り、大和の笑みが深みを増した。