【完結】いちばん小さな大魔王! 作:コントラポストは全てを解決する
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昔……と言っても一年前程の話だが、私は所属する水泳部にてスランプと言うものに陥っていた。
いくら練習しても記録は伸びず、先輩や同期の人達、終いは後輩にまで実力で追い抜かれる始末。
焦りと悔しさと嫉妬が絡みあって、ただでさえ落ちていたタイムが余計に落ちていった。
顧問の先生からは、これ以上タイムが落ちたら大会は厳しいと言われ、私の焦りは増した。
そんな状況に追い込まれていた時、ある日家に帰ったら両親の靴がなく、代わりに知らない人の革靴があった。
『あっ!お帰りあっちゃん!』
リビングから姉が出迎えてくれる。いつも通り騒がしいが、その時はそれに元気を貰ってしまう程参っていた。
ただ、何故かこの日は姉がいつも以上に活き活きとしており、私の手を引っ張ってリビングまで連れて行くと、
『じゃーん私の妹のあっちゃんだよ、りゅう君!』
『おお、その子が……』
台所で夕飯の支度をしている知らない男の人を紹介した。
姉と同じ学校の制服を来ていたが、それでも知らない人には変わりないので酷く警戒したのを覚えている。
『お、お姉ちゃん……この人は?』
『私の友達のりゅう君!』
『いや、りゅう君だけじゃ分からないんだけど』
あ、そっかーと今更気付いた様子で返す姉を小突きつつ、私は初めて会った先輩の前に出る。
『は、はじめまして。戸山明日香です』
『神楽竜介だ。よろしく』
『は、はい……よろしくお願いします』
これが私と先輩の出会い。
そしてこの日を境に、私の周辺は変わっていった。
まず、先輩が度々家にご飯を作りに来るようになった。
次に、私と姉の昼のお弁当を作る様になった。さすがに毎日ではないが、先輩のお弁当の日は姉が五割増しぐらいで元気になった。
さらには、母と肩を並べて料理する事していたり、休みの日には母に料理のレシピを教えていたりもしていた。
先輩が家に来る毎に、父の威厳がなくな……これは言わないでおく。
そうして、先輩はどんどん我が家に馴染んでいき、母も先輩の事を息子のように可愛がるようになった。
何よりも怖いのが、ここまで来るのに一ヵ月を要さなかったことである。
ただ、私も含め、先輩の事を気に入っているのは事実であったため、誰も咎めはしないのだ。
そんな先輩だから、私は頼ったんだと思う。
『あの、先輩……』
『ん、どうした?』
『実は相談があって……』
──そうして、私は話した。
部活でスランプ気味な事。
それのせいで周りに差をつけられている事。
全部話終わった後、先輩は少し悩んで言ってきた。
『明日香、明日一緒に泳ごうぜ』
こう言われて『はっ?』と返した私は何も悪く無いはずだ。だって訳が分からないし。
ただ、宣言した後の先輩はだいたい行動が早い。
翌日、本当に花咲川学園中等部の室内プールを貸し切りにした先輩は何者何だろうと、私は今でも考える。
『お、待ってたぞ明日香』
競泳用のボクサーパンツタイプの水着を来て、ストレッチをしながら待っていた先輩。
訳が分からなかったが、練習をサボるわけにもいかず、私は一緒にストレッチをした。
『先輩、どうやってここに来たんですか?』
『ここの理事長やってる人のお兄さんの娘が俺と幼馴染でな。プール貸してくれって頼んだら秒でOKが出た』
『酷い権力行使ですね……』
『そうでも無いぞ?ちゃんと対価は払った。と言っても、こころ……幼馴染とのデートが条件だったけどな』
そんな物の貸し借り程度の感覚で公共施設を使って良いのかは定かでは無かったが、この時は気にしている余裕が無かった。先輩がストレッチが終わった後、基礎練習もせずにクロールで泳ぎ始めたからだ。
五十メートルを泳ぎきった後、水泳ゴーグルを外して何とも楽しそうな顔で笑う先輩──
『明日香、五十メートルクロールで勝負しようぜ!』
そして、また突拍子もない事を言ってくる。
『良いんですか?私水泳部ですよ?』
『おう、本気で来い。俺はゲームをガチ勢とやる派だからな』
『ふふっ、そうですか』
こんなに緩い感覚での水泳は久しぶりだった。
重い覚悟を背負わなくても良い、そんな気が楽な、まるでゲームのような感覚。
それはただ純粋に──
『よーしそれじゃ……よーい、どん!』
──楽しかった。
その後、当たり前だが勝負は私が勝った。
仮にも水泳部に所属してるので、負ける訳にはいかないのだ。
ただ、あれだけ先輩が自信満々だったので、結果に拍子抜けした部分もある。
『あ、そうだ。明日香、ほれ』
そう言って先輩が何かを私に向かって放り出した。
慌てて両手でキャッチすると、何やらそこにはデジタルの数字が並んでおり……
『え?』
『一応言っとくが、それお前の分だからな』
それは何処からどう見ても、ストップウォッチだった。
しかし、私が驚いたのはそこではない。
『自己ベスト更新してる……』
『お、そうだったのか。おめでただな』
『で、でも……先輩いつの間に……』
『いつって、泳いでる時に決まってるじゃん』
先輩の答えに私は驚愕した。お世辞でもなく、先輩は割といい線を行っていたから。
これがもし、私のタイムを測りながらではなく、本気で泳ぎに集中していたら……そう考えて結論に至った所で、先輩にデコピンをされた。
『お前、肩に力入れすぎだ』
『か、肩の力はなるべく抜いて泳ぐ様には……』
『あーそうじゃなくて、気持ちの問題だ。明日香ってさ、普段楽しんで水泳やってるか?』
『楽しんで……』
思い返して見ると、入部したての時や泳ぎを身につけている時、記録会を始めた時は、純粋に楽しかった。
けれど今はどうだ? 記録だけを気にし、周りを僻んでばかりだ。
『いいか明日香、スポーツってのは楽しんでやるものなんだよ。いや、確かに本気になる事は大切だよ? でも、勝つ事にこだわり過ぎたら、それこそ戦争と変わらないだろ。だから、気張り過ぎず適度に楽しんで、その中で努力しろ。いいな?』
『は、はい』
胸に杭を打たれた程の衝撃だった。
たったの十数分。そのわずかな時間で、先輩は私を底から救い上げてくれたのだから──
『うっし、やる事もやったし帰るか。先に行ってるぞ』
『あっ……せ、先輩、ありがとうございました!』
『お?お礼とかは良いぞ』
先輩の後ろを付いていく私の方を徐ろに振り返り、そっと私の頭を撫でながら、
『可愛い後輩のためだ。これくらい幾らでも付き合ってやるよ』
『ッ!』
笑って返された。
私はそれだけ……たったそれだけの事で──
『……先輩、好きな人がいるんでしたよね』
『お、おう。そうだけど?』
『乙女に向ける言葉は気をつけた方がいいですよ。止まらなくなりますから』
この人を好きになってしまった。
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私こと戸山明日香は、一つ年上の先輩である神楽竜介の事が好きだ。
「夜のアイスどうしよ……あ、新作出てる。あー……でもあこはこっちの方が好きそうだなぁ……」
楽しそうに意中の人にあげるアイスの事を熟考しているこの人が好きだ。
「明日香はアイスどれにする?」
私の恋は実らない。
そんな事はとっくの昔に承知している。でも、こうやって二人きりでいる時くらい、私を見てくれたって良いと思う。
「そうですね……じゃあこれで」
「一番高いやつ選びやがったな」
だから私は、先輩の気を引きたいがためにこうして意地悪をする。
けれど──
「明日香はほんとにワガママだなぁ。最初はもっとお淑やかだったのに」
この人はいつも笑って私を許す。気にする素振りなんて微塵も見せやしない。
「猫被ってても仕方ないですからね。あと先輩、言ってる事の割には顔が笑ってますよ」
「ワガママは嫌いじゃないしな。それに、明日香は可愛い後輩だし」
最近、私の立ち位置が『可愛い後輩』に落ち着いてしまっており、全くアプローチが効かなくなって来ている。
最初の頃は分かりやすく顔を赤くしていたのに、今は適当な言葉であしらわれてしまう。マンネリと似たようなものだろうか。
「先輩」
「ん、なんだ?」
「もし先輩があこちゃんと一緒にいる時に、他の人から告白されたらどうしますか?」
「どんな状況だよそれ……」
もうアプローチは効かない。
だから──……今夜勝負に出てみようと思う。