何時の時代であっても飢饉というのは起こり得る。
自然を相手にしているのだ。天候を完全に御することができなければ、不作というものは何時か起こり得るものであるし、蝗の大量発生により田畑が駄目になってしまう例もある。そのせいで食い扶持をなくした農家が家族を身売りする悲劇が起こり、果てには守る存在を失った者達が賊へと成り下がる不幸が起きる。しかし、ただ一度きりの不作であれば、国家が傾くような事態にまで至らないはずなのだ。
新たな賊徒と流民を生み出さないために被災者の救済を行ったり、地元の有力者に協力を求めて民間による救済を促すとか、国家の一大事を好機を見做した商家に釘を刺して食料の高騰を防ぐといった対策は取れる。それに常日頃から非常用の備蓄を蓄えることで飢饉に備えておけば、復興までの時間を稼ぐことはできるのだ。
それができなかったのは今の漢王朝である。
非常時の備蓄は横領によって数を減らしており、必要数に足りなかった。
漢王朝が動かなければ、地方で独自に動かざる得ない。
その結果、漢王朝に対する求心力が低下し、図らずも地方軍閥が力を得ることになる。
とはいえだ、いくら地方で各々が動くにも限界はある。食い扶持をなくした賊が近場の村を食い漁り、今日の食い扶持も得られない民草が未来を生きるための種籾に手を付ける。そうして未来を失った者達が新たに賊へと身を落として、近場の村々を襲いかかった。最早、漢王朝に商家を抑えることはできず、食料を高騰させることで惨状を助長させるが、あまりに賊の多さに交易を続けることは叶わず、備蓄を削ることで辛うじて生き長らえていった。
漢王朝は何も行動を起こさず、起こせず、ただ指を咥えて見つめるばかり、官僚達は身の保身を図るばかりで誰も民草には手を差し伸べない。
中央集権は崩壊し、地方分権は加速する。
民草を賊徒から守るのは国家ではなくて地方の有力者、なれば民草が讃えるのは地元の英雄達となる。
「……いやはや、はらひれ、私はただの農家なのですよ? 今でこそ一端の豪農を気取っていますが、洛陽の謀略術数に巻き込まれて追い出され……晴れて荊州襄陽郡の地にて、政争とはかけ離れた晴耕雨読の平穏な毎日を得るに至ったのです! それがどうしてこうなった!?」
姓は劉、名は表。字は景升。真名は
椿は今の時代では珍しくない荘園経営者の一人だった。書籍よりも重い物を持ったことがないような典型的な学者型の人間であり、その気質は剣を握るどころか包丁すらも持ったことがない程の極めて平和的な人間と云える。
それがどういう訳か、今、彼女は馳ける馬に跨り、柔らかい尻を痛めながら敵陣に向かって突撃を仕掛けているところであった。
何処で運命が悪戯してしまったのか……良くて政治屋、今は農家の彼女は一軍を率いる立場にある。
「ええい、落ち着け、落ち着きなさい私。えっと、ええっと……先ずは深呼吸、ヒーフーヒーフー……敵は賊徒化した民衆が三十人程度、味方の手勢は五十人きっかり! その内、騎馬が全部で六騎だけど、内一騎は私なので戦力として換算することはできない! そもそも私は儒家ですよ、仮にも儒家思想を信仰する身ですよ! 暴力を振り翳すのはいけないと思います、やっぱり私が戦場に出るのは絶対に間違ってますよ!」
落ち着きを取り戻しかけた思考によって、椿は現在の異常性を正しく認識して再び錯乱状態へと逆戻りを果たした。
これはもうずっと前から繰り返している奇行であり、現代人が見れば、躁鬱が激しい女だと思って冷ややかな視線と共に黙って距離を置くこと請け合いだ。しかし幸か不幸か彼女の周りの人間は「初陣の新兵が良く起こすアレだろう」と生暖かい目で見守られるばかりで誰も彼女のことを咎めようとは思わなかった。むしろ錯乱状態にありながらも正しく戦局を分析しており、なんだかんだで逃げ出す素振りを見せない主人の姿に心強く感じている程だ。さあ剣も扱えない主人がなけなしの勇気を振りしぼって指揮を執っている、これに奮い立たずして何が劉表自警隊だ! 五十人の兵卒が気炎を上げながら、更に進軍を早めて賊徒に目掛けて突貫する。
そうなのだ、見るからに分かる文系引きこもり女子の常識はこの戦という場所では通用しないのだ。
「劉表様、流石です。敵陣を見ても臆さない姿に自軍の士気も上がっています」
そう告げるのは薄紫色の長髪を風に靡かせる長躯の女性、馬を駆けさせながら背中に下げていた弓を手に取る。
彼女の名は黄忠、字は漢升。立場的に椿の食客、しかし荘園を守るために結成した自警隊の武術指南役を務める人物でもある。武術は勿論、その弓の腕前は荊州一と呼ぶに相応わしい実力を備えている。そんな彼女もまた虫も殺せぬ気性の主人が、初陣であるにも関わらず、戦場に狂乱せず、恐怖に竦みあがらない胆力の強さに感心していた。
このことを当の本人が知れば「何処を見ればそうなる!?」と文句の一つも出てきたところであったが、生憎なことにそれを云える余裕が今の彼女にはない。既に戦局は動き出しており、敵陣との衝突はもう間近だ。現在の心境を言い表すとすれば、小舟で急流すべりをしている気分、なるようになるしかないと激流に身を委ねる他に取れる手段がない。
この戦、椿は最初から指揮を放棄している。自分には軍才はないからと彼女は配下に全権を委任していた。
「先ずは私の矢で先陣を切ります!」
そして本陣を纏め上げているのが先述した黄忠である。
宣言と共に放たれた矢は、まるで流れ星の如く敵陣に目掛けて飛んでいった。そして悲鳴をあげる間もなかったのか、眉間に矢を受けた賊が無言のまま地面に転がり落ちた。敵陣の勢いは落ちない。間髪入れずに二の矢、三の矢が賊との眉間を貫いたことで漸く敵陣から悲鳴が上がり始める。
特に喜ぶ訳でもなく、涼しい顔のまま敵陣を見つめる黄忠。その姿を横目に見た椿は、矢を数本放つだけで敵の気概を削いでしまう彼女の弓術は中華全土から見ても一番ではないかと思った。
その怯んだ瞬間を狙い定めて、自警隊から一等輝く星が飛び出した。
「霍篤、行きますッ!」
自警隊を統括する立場にある少女は姿勢を低く保ったまま、土を蹴り上げて敵陣目掛けて突っ込んだ。
味方の誰よりも早く、そして速く、孤立するのも構わずに敵陣に斬り込み、片手に持った直刀で血飛沫を撒き散らした。その一撃は敵陣を点で穿つが如し、一番星の彼女に続くように陣形を組んだ歩兵隊が敵陣へと一気呵成に雪崩れ込んだ。その圧力に耐え切れず、たった一度の衝突で敵陣は無残なまでに崩れてしまった。散り散りになった賊徒を五騎の騎兵が逃げ切る前に命を刈り取った。
その光景を見た
こうなっては最早、戦闘と呼ぶには程遠い。正に一方的な虐殺、蹂躙と呼ぶに相応わしい惨状だ。噎せ返る血の臭いに、目を背けたくなるのを堪えて、賊徒が討ち取られる様を見届ける。
確かに奴等は慈悲を与えるべき存在ではない、と椿も認めている。賊に成り下がった時点で死んで当然と呼ぶべき相手であり、情状酌量の余地を見出したとしても精々その生涯を獄に抱かせながら汚れ仕事や土木作業に従事させることで奴隷の如し働かせるのが関の山である。
とはいえ、こうも一方的になると同情してしまうのが人の性というものだ。甘いと言われるかもしれないが、そもそも
儘ならない、一端の儒者に戦場は凄惨で過酷すぎる。
「これでまた一つ、劉表様の武名を世に知らしめる結果となりますね」
黄忠が最後の一人を頭部で撃ち抜きながら告げるのを見て、椿は引き攣った愛想笑いを向ける。
そして雲ひとつない晴天の大空を憎しげに眺める。嗚呼、速く屋敷に帰って土を弄りたい、読書でも構わない。自分の荘園を守り切れれば良かっただけの人間が、どうしてこうも賊退治に勤しまなくてはならないのだろうか。こういうのはもっと戦好きの方々に良いのだ――そう椿は嘆くが、地元有力者から支援金や物資を頂戴し、太守や県令からは頭を下げられることも少なくないので心底嫌がりながら泣く泣く戦場に出る嵌めとなるのだ。
もういっそ霍篤と黄忠に全て任せたら良いんじゃないかな、と椿は提案したこともあるが「劉表様が居なければ意味がありません」と低い声色で圧を掛けられて以来、あまり強く言い返せなくなっていた。
「どうしてこうなったのでしょう」
ポツリと零された言葉は誰の耳にも届かず、虚空に霧散する。
理由や経緯は分かるが理解ができない、したくもない。
あの頃は良かった、と椿は目を逸らすように過去を振り返るのだった。
投稿する感覚を忘れたので初投稿です。
次回は三日後、暫く恋姫がメインで出てこないです。
Ps.
むらまつ様。
返信を削除しようとして間違えて感想を消してしまいました、申し訳ありません。txtファイルに保存させて貰っています。
この場を借りて返信を置かせて貰いますが、
感想ありがとうございます。
理不尽な暴力を振るうんじゃない、大義名分こそが大事なのよ!
と雑に解釈した部分をそのまま出してしまっていたようです、申し訳ありません。
ちなみに劉表の解釈は、
私欲による侵略や暴力は許されるべきものではなく、基本は非暴力を貫くべきではある。しかし相手が暴力を振り翳して、他者の尊厳を理不尽な踏み荒らす場合に限り、これに対抗するために武器を持つことは許される。
それはそれとして、やっぱり暴力は基本、忌避すべきものですよ!だって怖いじゃん、痛いの嫌じゃん!見るのも嫌じゃん!暴力が好きとかお前ら儒家じゃねえ、暴力に喜びを感じるとか人間の心はおありですか!?思いやりは何処行った!る積極的平和主義とかなんぞそれーっ!?
といったものでした。
作中でも違和感なく表現できるように精進します。