元官僚、荘園経営者。
・黄承彦:
襄陽黄家の当主。
・黄月英:
黄承彦の娘。絡繰士で人形操り。
被害は奴婢三名、いずれも軽傷。対する戦果は賊徒が百人程度、全員を土に埋めた。
戦って得たものは当面の平和と粗悪品を少々、逆に消費したものは労力と時間、経費、作ったものは劉巴と黄承彦への多大な貸しである。仕方ないことだが頭が痛い、小規模とはいえ軍事行動はするべきものではない。そもそも戦争なんてものは膨大な消費行動だ。損をするのは当事者ばかりであり、得をするのは戦争に直接参加しない部外者であった。
そうでなくとも暴力沙汰は好きではないのだ。今後、二度とこういうことがないように心がけていきたい。
あれから一週間が過ぎている。
賊徒との戦いが終わった後、霍峻は早々に劉巴の所へと帰った。霍篤は仕掛けた罠の回収に山中を駆け巡った後、今は従者兼護衛として元の立ち位置に戻っている。黄月英はまだ荘園に残っていた。賊徒を埋葬する穴を掘った後は部屋で引き篭もり続けており、夜になると
自分、つまり
ちなみに日常の仕事が二週間分以上も溜まっていたりする。戦争で大変なのは事前準備と戦後処理、最も大変なのは日常業務である。その遅れを取り戻すのにどれだけかかるのか、あまり考えたくはなかった。戦争というのは負ければ全てを失う癖に、勝っても労力が増えるばかりで旨味がない。後で溜まった仕事を処理する為に自分自身で指揮を執り、分刻みの時間管理で奴婢達を働かせ続けることは確定している。戦争が好きだとかいう連中はきっと戦闘しかしていないのだろうと今なら思うのだ。
防衛を正規軍に丸投げする黄承彦のやり方が、今は羨ましくて仕方ない。
さてはて、
襄陽の都市部から離れた場所に荘園を持つ自分には彼女と同じことはできない。
ある程度は自衛する必要がある。そのために奴婢達にも日常的に鍛錬を付ける必要があるし、防衛する為の備えも用意しておく必要があった。まあこれは前者に関しては霍篤、後者に関しては月英に相談しながら決めればいいことだ。
もう二度と賊徒達に攻め込まれないように鉄壁の荘園を築き上げる、そのためにはもっと戦力が必要だ。もっと防衛設備が必要だ、賊徒達が戦う前から心を折ってしまうような荘園を築き上げてやる。
虚ろな瞳、椿は目元には立派な隈がこさえてあった。
†
姓は黄、名は承彦。真名は
襄陽黄家の当主である彼女は、基本的に面倒な事は嫌いであった。軍隊とか面倒なものを抱えたくないので官僚に丸投げ、荘園の経営も面倒だからと信頼できる者に投げつける。奴婢の管理すらも奴婢に階級を与えることで管理させる徹底っぷりだ。
そんな彼女が唯一、自分の手で管理しているのが暗部になる。
「へえ、
萩乃は侍女に扮した暗部から受け取った手紙を燃やしながら呟いた。
娘も元気にやっているようで何よりだ。家から出て行くのは寂しいが、自立して欲しいとも願っている。相変わらず引き篭もりがちではあるようだが、外に出れなかった今までと比べると大きな進歩である。
やっぱり親の自分だと甘やかしてしまうのだろうなあ、と萩乃は複雑そうに頷いた。
「それにしても、こっちはどうにかなんないのかな?」
萩乃は装飾の施された巻物を面倒そうな顔で手に取る。
これは襄陽太守からの招聘状であり、数年前から執拗に送られてきているものだ。内容は配下として迎え入れたいというもので、現地登用としては破格の条件が書き記されている。それによって得られる利権は大きいに違いない。だが萩乃自身が彼の下で働きたいとも思えなかったので、仮病や居留守を使いながら適当に聞き流している。
別に現太守の何が悪いと云う訳ではない。能力は並程度にはあるし、見た目も悪くはない。賄賂や不正の数も、今の腐りきったご時世では控えめと云える。これといった不満はないし、あえて太守の座から引きずり落とそうとは思わない。地元の為に動いてくれる分には、ちょっとした手助けをしてあげることもある。
そんな彼の悪い点を挙げるとするならば、地味なことだ。
此処、襄陽郡は地元豪族の力が強い。特に襄陽三名家と呼ばれる豪族の力は強く、その発言力は太守をも上回ると言われる。襄陽郡で何かしらの問題が起きると
ただ惜しむらくは現太守には武才がなく、彼には武に長けた優秀な配下がいなかったことだ。
そのせいもあってか彼は暗愚ではないが無能に近いと云われており、今の襄陽郡を支えているのは三名家の尽力があってのことだと言われている。それで満足に地元民の支持を得られずにいる彼は、元から地元の支持を得ている三名家を引き込もうと企てているのだ。他二人にも招聘状を送っているようだが、常日頃から兵糧の支援などをしている自分には特に多いようだった。この数ヶ月で招聘状を送りつける頻度が増えており、娘月英に対して縁談話を持ってくることもあることから彼もなかなか切羽詰まってきたと見える。
そろそろ次を考える時かな、と萩乃は思い耽った。
正直、好きでもない相手から執拗に手紙が送られてくるのは面倒臭くて仕方ない。
「――よし、蔡瑁と鳳徳公に連絡を取ろっか」
萩乃は軽い調子で頷くと侍女に扮した暗部に墨と紙を用意させる。
宴席を設けるから来て欲しい、と云った内容。身内だけの小規模なものを企画していると伝えれば、他に大事な用事でもない限り二人は必ず足を運んでくれる。そして劉表には、戦勝を祝いたいから屋敷まで来て欲しい、と日付を添えて雑に書き記す。
他にも数名、信頼できる者に宛てた手紙を用意して暗部に手渡した。
「宴席には、うん、そうだね。美味しい酒と美味しい料理、他で凝ったものはいらないよ」
そう告げると暗部は頷き、黙したまま部屋を出て行った。
†
内容は至って単純なもので、戦勝を祝いたいから屋敷まで来て欲しい、と云ったものである。そういえば前に顔を合わせた時から一ヶ月もの日にちが過ぎている。月英も屋敷に送り返さないといけないので丁度良い頃合かもしれないと思った。それで月英の部屋まで赴いて、手紙を見せながら黄家の屋敷まで送ることを伝えてあげる。
すると彼女は途端に顔を蒼褪めさせたのだ。
「あ、ああ、あの、あのあの、あ、ああ……あの! そのっ!」
「はい落ち着いて、深呼吸。うん、ゆっくりと喋ってくれて構わないわ」
「み、みみ、身嗜みを整えて! そして、えっと……これ、やばい! やばいやつ、です!」
彼女の吃り癖はいつものことだが、その戸惑い方はいつもとは違っているように感じられた。
とりあえず落ち着かせようと試みるが、なにを急いているのか彼女は焦ったまま必至に言葉を口にしようとした。
「こ、こここれ、さ、さん、三名家が待ち構えてます! 三名家との談合です、はい!」
襄陽三名家、実質的に襄陽を牛耳っている豪族の名称だ。彼女達に目を付けられると郡単位で村八分を受けて、別の州への立ち退きを余儀なくされる。その実質的な権力の強さは太守ですらも抗うことは許されない程だと云われている。
「……宮中に跳梁跋扈する魑魅魍魎と、どっちが厄介かしら?」
ふっと遠くを眺める。
なぜ、どうしてこうも問題が次から次にやって来るのか。
劉表景升は安寧が欲しい。
これで第一章「雌伏編」は終わります。
第二章「黎明編」。漸く恋姫を出すことができます。
長かった、本当に長かった。
本当はもっとじっくりと書くべき内容が多いと思いますが、
恋姫が出せない状況にモチベが尽きそうなので気が向いた時に間幕として書き足したいと思います。
主に月英周辺。月英と劉表で視点別に整理するかもしれないです。
しかし、これでやっと下地が整いました。