1.逃走
幼い頃から争い事は苦手だった。
劉表、つまり
太学とは、官僚を養成するための施設のことだ。 入学者の大半は家柄の良い者達で固められており、出世街道を目指す若者達が一心不乱となって勉学に励んでいた。 その中で椿は好奇心の赴くまま、自分の知りたいことだけを知識として取り込んでいった。この時から彼女は学歴や出世に興味を持っておらず、ただ純粋に学問に没入したいという欲だけを胸に抱いていたのである。
そんな椿が研究する内容は主に儒学が中心となる。しかし片手間に農耕や治水、土建に関する知識を仕入れることも多く、法律や税収に関する研究する者達から相談される機会も多かった。そうして手広い知識を得ることになった椿は、洛陽の知恵袋、と称される存在となり、以後も太学の研究内容から恋愛事情に至るまで多くの相談を受けることになる。以上の事もあって、この時期に提出された研究論文には、連名で劉表景升の名が刻まれていることが多い。
好きなことを好きなだけ勉強できる環境に不満のなかった椿は、むしろ出世を拒むようになった。
年に一度行われる官僚試験。
これを椿は最初の二年間を仮病を使って休み、三年目も同じく仮病を使って試験を休む腹積もりであった――が、漢王朝から出仕しろと直々に辞令が届けられたので断念する。こうなっては仮病を言い訳にすることもできず、椿は渋々と官僚の一人として漢王朝に仕えることになる。
官僚となった後も椿が地位と名声に興味を示すことはなかった。
滞らない程度に仕事を熟し、空いた時間には太学へ足を運ぶ毎日を送る。あまり宮中に身を置きたがらなかったのは、政争に巻き込まれたくなかったためだ。同じ理由で賄賂も受け取ろうとせず、渡すこともしなかった。任された仕事にだけは忠実であった彼女は、とんとん拍子で出世が決まり、あれよあれよという間にそれなりの地位を与えられる。
そして、どうしてこうなった、と椿は首を傾げてみせるのだ。
これは本人の預かり知らぬことになるが、
官僚になった後も太学で在学生の研究を手伝い続けて来た椿には相応の信奉者が多く存在している。
政争などの理由によって空いた役職の後任を誰にするか、という話になった時に、椿の信奉者がとりあえず彼女の名を挙げてしまうことが多々あった。そして派閥争いを続ける者達も「中立派の劉表であれば、まあ……」といった感じで承諾し、落としどころにされ続けてきたのが今の地位だった。
いずれにせよ、本人にとって過分な地位を得た彼女は否が応でも政争に巻き込まれることになる。
椿にとって、地位が高くなるということは面倒が増えるということだ。
仕事が増えるのは勿論のことでだが、それよりも清流派を自称する人間から熱烈な勧誘を受けることに椿は辟易していた。かといって清流派を対する宦官勢力――つまりは濁流派――に靡くこともせず、政務を口実にして、ただひたすらに引き籠ることを選択する。
このことがまた彼女を窮地に追い込むのだが、それはもう少し後のことだ。
さて、ここで少し話を整理する。
清流派とは宮中にある派閥のことだ。
その名の由来は「宦官と繋がりを持たず、汚職に手を出さない人物」ということになっている。逆に宦官と強い繋がりを持つ人物のことを、清流派を自称する人間は「濁流派」と呼んで蔑んでいる。まあ尤も清流派を自称する人間は外戚勢力と強い繋がりを持っており、汚職に励んでいたりするので、椿からすればどっちもどっちの五十歩百歩に過ぎなかった。
どちらにも正義がないのであれば、自分の出る幕はない。
元より椿には漢王朝を変える度胸もなければ熱意もなかったので、持ち前の事なかれ主義を駆使することで中立の立場を維持し続けることになる。
宮中情勢は複雑怪奇、真面目に解説しようとすれば小難しくて仕方ない。
さておきだ、
どっちつかずの椿に痺れを切らした宦官達は、どうせ取り込めない相手であれば中立派として置いておくよりも、清流派にしてしまった方が扱い易いと考えるようになった。対して清流派は未だ太学に強い影響力を持つ椿を、どうにか取り込みたいを考え続けている。
この両者の思惑は妙なところで噛み合うことになり、政務室に引き籠り続ける椿の知らぬところで事は動き始める。
椿は何時の間にか清流派の一人として認識されるようになっていた。
そして、これまた気付かぬ内に八及の称号まで与えられてしまっていたのである。この太学関係者から与えられた寝耳に水の情報に「えっ、なにそれ、いらないんですけど」と椿は困惑し、「肩書きなんて帝から貰った分だけで充分です」と今までと同じように無視を決め込んだが――その身は既に火中に放り込まれている。
椿は本人の望まぬまま、望まぬ形で政治の沼に足を踏み入れていた。
繰り返すが、椿は地位や名声には興味がなかった、それどころか官僚という立場すら望んだものではない。
言葉一つ、文字一つに至るまで気を配り続けるのは疲れるし、そんな気の張った人生の何が面白いのか分からない。許されるならば、今すぐに地位も政務も投げ出して、太学を寝床に引き籠りたいくらいである。
それがどうして命を担保に政争を題材にした賭博に参加しなくてはならないのか、これがよく分からない。
そう思いはしても、椿は責任感から目の前の政務を放り投げることもできなかった。
政争に巻き込まれたくないと願うには、もう手遅れである事実から目を逸らし続けている内に、事は致命的な段階にまで発展する。
つまり、党錮の禁。宦官勢力による清流派の排除が始まったのだ。
そんなことも露知らず、この時の椿は呑気に太学へと足を運んでいた。
†
椿は太学の学生から好かれていた。
彼女が足を運ぶと、いつも彼女の周りには学生達が集まり、学問談義に華を咲かせるのである。
宮中のドロドロした政争を知る椿にとって、まだ汚れを知らぬ若者達と対話することは癒しであった。その夢と希望に満ちた瞳を見る度に、彼らのためにもう少しだけ頑張ろう、という気にさせてくれるのだ。
正直なところ、国の行く末なんてどうでも良かった。
大事なのは今ある日常だ。目の前の光景を守るために、自分は今を生きていると云っても良い。
「
椿が学生達との談話を楽しんでいると、朝服を着込んだ男が研究室に乗り込んで来た。
唐突な役人の登場に萎縮する学生達、その中心には椿が膝上に幾つかの菓子を置いたままキョトンとした顔を浮かべている。
その瞳に驚きはあっても恐れはない、それもそのはずで彼と椿はよく知った仲であった。
彼の名は蒯越、字は異度。真名は
椿が宮中で友達と認める唯一の存在だ。よく菓子折りを持って来てくれる事から椿は彼のことを慕っていおり、今となっては真名を交換する程の仲になっている。その二人が仲良くなる経緯を知った学生達は是非とも餌付けしようとした結果、彼女の膝に置かれた菓子群になるのだが――真名を交換した時に山藤が「菓子如きで真名は交換するべきものではない」と言い付けていたこともあって、新たに椿と真名を交換できた者はいなかった。
椿は研究室に飛び込んできた友人に「どうなされました?」とあざとく首を傾げてみせる。
すると山藤は両手を拡げて、「ようやく見つけたぞ!」と大きくて濃い顔を椿に近づけてきた。このことに椿は強張った笑みを浮かべながら「まあまあ落ち着いてください」と彼の胸に両手を添えて、今にも抱き締めてきそうな彼を優しく押しのける。
自分よりも頭二つ分も大きい体と押しの強い性格を持つ山藤のことが椿は少しだけ苦手だったりする。とはいえ彼は押しは強いが引きの早いので、こうやると彼は慌てて謝罪しながら距離を取ってくれるのだ。
しかし今日に限り、彼の様子は違っていた。
椿は彼に手首を掴まれると、自身の華奢な体を引っ張り上げられた。
「緊急事態だ、ついて来い」
そして山藤は説明もなしに自分のことを連れ出そうとするのだ。
この不躾な態度に椿は文句の一つも言ってやろうと思ったが、彼の切羽詰まった顔を見て口を閉ざした。
――山藤は意味もなく、こんなことをする男ではない。何か理由があるはずだ。
椿は山藤のことを信じることにしたが、その強引な態度に学生達は不安な顔を浮かべている。
中には山藤に飛び掛かろうとしている者もいる程で、椿は「大丈夫ですよ」と手で制して微笑みかけた。
そして、そのまま山藤に連れ去られるように研究室を後にする。
太学の門前には馬車が用意されており、その御者席に椿は座らせられる。
山藤が椿の隣に座ると、手綱を握り馬を走られた。見る見るうちに太学は小さくなっていった、未だ沈黙を保つ友人に椿は漠然とした不安を感じる。ここまで彼が強引な手段を取るのは珍しかった、少なくとも椿の記憶の中にはないことだ。その彼の表情は最初に見た時から変わらず険しい、その様子から自分の知らないところで何かが起きている、と椿は察する。
問いかけるべきか、身を委ねるべきか。
「山藤、これから何処に向かうつもりなのでしょうか?」
少し悩んだ結果、椿は直接的な質問を避けて探りを入れることにした。
「……洛陽から出る。迎えは用意させているから、彼女と一緒に荊州まで行って欲しい」
「荊州へ? えっと私、まだ仕事が残っているのですが……」
「構わん、放っておけ。今はお前の身の安全を確保する方が先決だ」
身の安全? と椿は首を傾げる。
「党錮の禁だ。清流派が宦官の専横に対する罪を告発しようとしたが、逆に宦官が朝廷を誹謗したと告発し、それが帝に受け入れる流れとなった。そして清流派の逮捕者一覧には椿、お前の名も入れられている可能性が高い」
「私ってそこまで大した人物ではありませんよ。そもそも清流派の方々って、強引だから好きじゃないですし……」
むしろ清流派とは距離を取っていたくらいですし、と椿は口先を尖らせる。
「お前は生き方が下手過ぎるのだ。賄賂なんてものは適度に受け取り、渡しておけば良いのだよ。それを面倒だのなんだのと言って、全部を投げ出したりするから宦官から睨まれて、清流派からも不信感を持たれることになるのだ」
「宦官も嫌いなんですよね、賄賂を寄越さないなら体を差し出せと要求してきた奴も居ましたし……あの方々、本当に去勢済みなのでしょうか?」
「あいつら絶対に許さない……」
めらりと山藤の氣が燃えるのを感じ取り、まあまあ昔のことですので、と椿は彼を宥め続けた。
馬車に揺られること四半刻、まだ手回しは充分でなかったのか城壁の門を簡単に突破することができた。そのまま更に馬を走らせること半刻、道から少し外れた場所にある大きな木の下まで辿り着く。その木の陰には商人の身なりをした女性が腰を下ろしており、こちらの姿に気付くと彼女は立ち上がって姿勢を正した。
年齢は二十歳には届かないといったところか。まあ氣の使い手だと思うので、見た目の年齢は信用できない。小柄な体をしており、腰まで届きそうな髪を後ろで馬の尻尾のように纏めている。
なんとなしに雰囲気から若そうだな、って印象を受ける。
「彼女の名は霍篤、私に仕える者の一人だ。此処から先は彼女に任せる、信頼できる者だから安心して欲しい」
それだけを告げると山藤は馬車から飛び降りた。
代わりに椿の隣に座るのは先程紹介を受けた霍篤という女性であり、軽く会釈を交えるだけで手綱を手に取った。
山藤は彼女が乗ってきたらしき馬に跨っている。
「山藤、貴方はどうするのでしょうか?」
「私にはまだ宮中でやるべき仕事がある。椿、お前は先に荊州へ向かっておいてくれ」
「……貴方が何をしてしようとしているのか分かりません。政争に疎い私には今起きていることすらも分かりません」
椿は小さく溜息を溢した、そして自らの友人を見据える。
「信じていますよ。先に、と言ったからには私のことを迎えに来てくれるのでしょう?」
「ああ、事が済めば、いずれ荊州に向かうと誓おう」
「それでは約束ですね」
椿は戦地に戻る彼に向けて小指を立てる。
山藤は少し呆然とした後、はっと何かに気付いた様子を見せてからおずおずと小指を差し出してきた。
お互いに小指を絡めて、ゆびきりげんまんと軽やかに歌って指を切った。
「御武運を」
「必ず、迎えに行く」
山藤が馬を走らせる、遠のく背中を見送っていると馬車が緩やかに動き始めた。
「我が主人も良い人を巡り会いましたね」
霍篤が話しかける。
「良い人だなんて、そんなのではありませんよ」
「いえいえ、そんなことはありません。きっと貴方のような方と出会えて主様も幸せに違いありません」
「むしろ私の方が彼の世話になっているくらいですよ……本当に良い友人を持ちました」
「友人?」と彼女が不思議そうに問い返すので「親友と呼ぶべきかもしれませんね」と椿は訂正しておいた。
「……少し宜しいでしょうか?」
「はい、なんでしょう」
「なにかこう、主様に惹かれるような点とか、あれば教えて頂きたいのですが……」
恐る恐る問いかける霍篤に、山藤も隅に置けませんね、と椿は一人納得するように頷いてみせる。
「山藤の良いところはいっぱいありますよ。例えば、そうですね、毎回菓子折りを持って来てくれるところとか……そういえば彼、甘いものが好きなのですよ、結構な酒飲みなのに珍しいですよね」
「いや、主様は確か辛党……」
「そんなことありません。だって私、よく彼に甘味処まで付き合わされてますもの」
私も甘いのが好きなので構いませんけどね、と得意顔で語る椿に彼女は徐々に顔を蒼褪めさせていった。それを横目に見た椿は「あっ、別に私と山藤とは何にもありませんよ!」と慌てて否定する。
「山藤とは太学時代からの友達でして、彼は誰にでも面倒見が良いのですよ。何時も研究に付き合ってくれましたし、必要な資料を用意して頂いたこともあります。本当に優しい方ですよねえ、憧れるのも分かりますよ」
「おお、主様……言ってはなんですか、なんと、なんという…………」
手綱を握り締めたまま項垂れる霍篤に、椿は慰めるように弁明を繰り返す。
椿とて浮いた話が一つも出てこない親友の恋路を応援したい気持ちはあるのだ。云っては悪いが、あの濃くて厳つい顔を持つ彼を好む女性はそう多くないと思っている。この好機を逃せば次はない。これはもう彼の良さを知る私が二人の仲を取り持つしかないでしょう、と鼻息を荒くして意気込んだ。
しかし椿が熱弁を振るえば振るう程に、霍篤は意気を消沈させていくのである。
何故だろうと首を傾げる椿、溜息を零す霍篤、そんな二人を乗せた馬車はゆったりとした足取りで荊州を目指すのであった。