タマツバキ(仮)   作:にゃあたいぷ。

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・劉表景升:椿(つばき)
 儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:?
 蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・蒯越異度:山藤(やまふじ)
 劉表の親友、官僚の一人。


2.始動

 此処、荊州襄陽郡。

 予め親友である山藤(蒯越)が用意してくれた屋敷まで無事に辿り着くことのできた椿(劉表)は今、座り心地の良い椅子に腰を下ろしながら霍篤に淹れさせた茶を優雅に堪能している。

 洛陽から荊州までの旅路は期間にすると一ヶ月以上にもなったが、その道中は旅の供を務めてくれた霍篤のおかげで覚悟していた以上の苦労を強いられることはなかった。むしろ霍篤が献身的に尽くしてくれたおかげで荊州までの道のりを楽しむ余裕すらあった程だ。とある日の朝にちょっとした我儘のつもりで着替えさせて欲しいと云えば、霍篤は嫌な顔一つ見せずに手早く着替えさせてくれた。まるで御姫様気分、「苦しゅうない」と椿が御満悦で答えてみせると「お褒め頂き光栄です」と霍篤は苦笑混じりで頭を垂れる。他に身の回りの世話も霍篤が全てやってくれたし、野営の準備も宿の手配も彼女が率先して動いてくれる。正に良い旅夢気分、こんなにも気分が良いのは何時ぶりか。洛陽で官僚をしていた時は仕事に追われるばかりで心に余裕を持つことはできなかった。

 嗚呼、なんて楽なのだろうか。何か行動を起こす度に根回しをする必要もなければ、誰かと会う度に段取りを組む必要だってない。責任を丸投げできる相手がいることが、ここまで幸福なことだとは思ってもいなかった。あの時に感じていた苦労を思えば、旅の不便なんて些細なことだと笑い飛ばせる。

 椿(つばき)の心は今、頭上に広がる大空のように清々しい開放感で満たされていた。

 

 ただ一つの気がかりは、霍篤は山藤(やまふじ)から借りているだけということだ。

 屋敷も自分のものではない。今、自分に与えられているものは親友からの無償の好意であることは自覚している。山藤は優しいから今直ぐに自分をどうこうするつもりはないという事は分かっている。だからといって彼の好意に甘え続けるのも間違っていると椿は思うのだ。心配性な友人を安心させるためにも早く自立する手段を確立しなくてはならない。

 一度は面倒見ると決めたのだから最後まで面倒見るべきだ、と何処ぞの国士無双のような図々しさを椿は持ち合わせていなかった。

 

 茶を啜る、喉を潤せれば良いと片手間に茶を淹れてきた自分とは根本的に違っている。

 美味しかった、香りも良かった。濃くもなく、薄くもない、丁度良い渋みが脳を刺激する。そして湯気立つ茶の熱さが喉を通った後、鳩尾の辺りから心地良い温もりが体全身に染み渡る。本当に良い腕をしている。昨日、屋敷に着いた時から掃除を続けている霍篤に想いを馳せる。

 此処は余りにも心地よ過ぎる、早く行動しないと駄目になってしまいそうだった。

 

 熱の篭った吐息が漏れる、そして思考を切り替える。

 自立する術は幾つか思い付いていた。官僚として身を粉にして働いてきた身の上だ、何処かしらに仕官することは難しくないと考えている。気楽な暮らしを求めるのであれば、太学で培った知識を元に家庭教師を務めるのも悪くない。四書を諳んじる程度のことはできるので、取引相手に困ることはないと思っている。

 では、それらが自分のしたい事か、という話になると微妙なところであった。

 

 椿の本質は学者である。

 事務処理に頭を働かせることでもなければ、詰め込んだ知識を周りに教え込むことでもない。それは官僚として働いていた時期から変わっていなかった。太学に足を運び続けたのは研究という分野に関わり続けるためである。実際、椿は官僚を辞めたことには後悔もなければ、欠片ほどの未練も感じていない。むしろ太学との関係が断たれてしまったことの方が辛かった。

 これから先も何かしらの形で研究を続けていきたいと考えているが、それと金が結びつく手段が思いつかなかった。

 やはり研究は趣味と割り切るべきなのだろうか。

 

 まあ、いざとなれば金を稼ぐ手段はあるのだ。

 これは今後の人生を左右する大事な問題、性急に決めることではない。官僚として休みなく働いていた事もあり、今暫く楽な生活を堪能していたいという気持ちもある。

 のんびりと暇を暇なまま時間を潰していると霍篤が文を一つ持って、部屋に入ってきた。

 

 どうやら山藤からの手紙のようだ。

 用件だけが簡潔に纏められた内容に、山藤らしい、と椿は口元を綻ばせる。そして最後の追伸にある一文、「体は大丈夫ですか?」という妙に丁寧な言葉遣いを可笑しく思いながら胸の奥が心温まるのを感じる。

 さて、手紙の内容になるが、洛陽の屋敷にあった家財は山藤が確保してくれたようだ。そのほとんどが返品拒否の押し付けられた賄賂になるので、あまり執着をしていなかったが――身一つで洛陽を出た今となってはありがたい。情勢が落ち着いたら荊州の屋敷まで送り届けてくれるとのことだ。

 それを読んだ椿は霍篤に紙と筆を用意させると、親友へ手紙の返信を(したた)める。

 先ずは感謝の気持ちを書き連ねて、近況を綴り、最後に家財を全て売り払って欲しいと書き記した。それで得られた金銭を半分だけ送って欲しいと願い出る。最後に癖のある書体で、椿、と真名を刻んで手を止める。そして「追伸」と思い出したように書き足して、少ない余白に「おかげさまで健康です、そちらこそ体に気を付けて」と付け足しておいた。

 丁寧に手紙を封筒に包み――後は霍篤に頼んで届けて貰えば良い、と椿は背凭れに体重をかける。

 

 生き急ぐことはない、考える時間は充分にあるのだ。

 今後の身の振り方に関しては、じっくりと考えてみようと思った。

 

 

 霍篤に手紙を預けてから一ヶ月が過ぎた。

 荊州の屋敷に来てから暇を持て余すようになった椿(劉表)は、よく釣りを嗜むようになっていた。

 きっかけは屋敷の隣に建っていた蔵に足を運んだ時のことだ。なにか書籍でも保管されていないかな、と思っての行動であったが、本棚どころか書籍の一冊も見つけることはできなかった。代わりに見つけたのが釣り道具一式であり、どうせ他にやることもないからと見つけた釣り道具を持って、近くの小川まで赴いたのである。

 そして嵌った、それはもう物の見事に。

 釣れる魚は日に一匹か二匹、三匹も釣れた日には大漁旗を掲げる腕前であり、お世辞にも上手いとは言えない。それでも釣りは椿の性に合っていた。

 時間に追われる事もなく、ぼんやりと時間が過ぎていくのを感じているのが好きだったのかもしれない。

 

 洛陽の喧騒は人の営みだった。

 あの都市では誰もが生き急いでおり、何かに追い回されているようであった。その光景を初めて見た者は圧倒される、そして否応なしに気持ちが急かされてしまうのだ。まるで立ち止まれば死んでしまうとでも云うような――そんな強迫観念に似た感覚に陥ってしまうのだ。

 洛陽には魔力がある、宮中は魔窟と呼ぶに相応しかった。

 宮中の官僚が登る出世の階段は細く、手摺がない。出世欲に目の眩んだ者達が前を進む者を背後から突き上げる。その圧力に押し負けて足を滑らせようものであれば、地の底まで身を落とすことになる。二度、這い上がることは難しい。政治生命は瞬く間に尽き果てる、運が悪ければ肉体に宿る命そのものが失われる。まるで蠱毒、生存競争、自分自身が生き残るために他者を蹴落として糧にする。

 宮中では人と獣で何が違うのか嫌でも考えさせられた。

 その空気に馴染めなかったからこそ、自分は宮中での出世に興味を持てなかったのかもしれない。

 

 落ち着いた空間、穏やかに時間が流れる。

 のんびりとすることを好む椿であったが、その価値観は洛陽のものに染まっている。

 何もせずにはいられない、手持ち無沙汰では落ち着かない。考えずにはいられない、疑問を挟まずにはいられない。疑問を持てば追求せずにはいられず、情報を得れば整理せずにはいられない。何故、どうして、が頭の中にこびり付いている。

 要は考えることが好きなのだ。

 繰り返される思考実験、だからといって何もしないのは落ち着かない。なので待つことに意味がある今の状況を椿は歓迎する。

 魚を待つという大義名分の下、椿は気兼ねなく自らの思考に没入することができた。

 

 荊州に入ってからは人以外が出す音が耳に入るようになった。

 枝葉が擦れる音、川が流れる音、水流によって運ばれる寒気が肌を撫でる。空では小鳥が囀った。草叢から虫の鳴く音が少し煩わしく思える。風を感じることができた。空気は綺麗で澄んでいる、都会特有のさまざまなことが入り混じった臭いを感じない。臭いには圧力というか、質量というか、そういうものを感じさせる。空気が美味しいという感覚はきっと、喉越しの良さだ。それは即ち、余計な臭いが空気に混じっていないことなんだと椿は考える。

 思考する、強く意識するのではなく漠然と。なんとなしに頭を働かせる。穏やかな自然の流れの中に身を置いて、感じるまま、思い付くままに思考する。靄がかった輪郭を遠目に眺めるように、意識せずとも頭は働いた。

 すると意外にも、こんな時に今までずっと悩んでいたことがあっさりと解決される。

 

 それは――荘園の運営なんてどうだろう? という軽い気持ちの思い付きだった。

 

 洛陽ではやりたいことも満足にできず、やるべきことばかりが積み重なる毎日だった。

 そう考えると今回の件はいい機会だったのかもしれない。もとより権力や名誉に興味がない癖に、政に関わっていたことが間違いだったのだ。洛陽から離れることで太学の研究に関われなくなったことは残念に思っているが――本当に自分がやりたかったことを思えば、惜しむ気持ちも少しは晴れる。

 椿は研究と関わり続けたかった訳ではない、それは妥協の結果なのだ。本心では自分自身の手で研究を推し進めてみたい、と思い続けていた。

 釣りも誰かにやらせて指示を出すよりも、自分でやった方が面白いに決まっている。

 

 そんなことを考えている内、ふと気付いたことがある。

 農耕や治水、土建と知識を仕入れているが実際に試してみたことはなかった。今まで数字を睨みつけながら机上の計算を繰り返してきただけに過ぎないのだ。実践してみることで初めてわかる事もあるに違いない。例えば、今やっている釣りのように。

 幸いにも太学で手伝ってきた研究論文は全て頭の中に入っている。

 今まで詰め込んできた知識を活用しながら研究を続ける。その上で資金を稼ぐ手段が荘園運営だった。

 それは漠然と考えていたものが唐突にまとまったかのような感覚、ばらけていた点が全て線で繋がってしまったかのような錯覚。考えれば考える程にこれしかないと思える、理由は後から幾らでも付いてきた。好きなことを思う存分に楽しまなければ、人生を生きている意味がないとすら考えるようになっていた。

 まだ小川に垂らされた釣り糸に反応はない、しかし穏やかな時間だけが流れ続けている。上機嫌な気分とは裏腹に、今日は魚が釣れそうにない。

 それで良かった、今は思考を邪魔されたくなかった。

 

「劉表様、よろしいですか?」

 

 どれだけの時間が過ぎたか。

 次々と湧いてくる発想に椿が没入していると、ふと後ろから声をかけられた。

 振り返ると霍篤が困惑を隠しきれない顔で立っていた。

 

(あるじ)様から大金が送り届けられて来ました、これが添えられた手紙です――なにか致しましたか?」

 

 どうやら疑われているようだ、と椿は苦笑する。

 余裕を持っていられるのは霍篤の視線から敵意を感じなかったためだ。疑念を持たれている、何かしらの理由があるとも思っている。それでも目を瞑ることができなかったのは、彼女の主人――山藤(蒯越)に対する忠誠心によるものだろう。だから自分が動じていないことに霍篤は僅かに安堵している。

 此処で敵対はない。何故ならば、それはやましい金ではないのだから。

 

「洛陽の屋敷にある家財を山藤(やまふじ)に売り払って貰いました」

 

 椿は手紙を受け取りながら答える、そして中身に目を通してから霍篤に手渡した。

 

「近々、此処を離れるためには纏まった資金が必要でしたので先に売って貰いました。手数料分は受け取って貰うように書き残しておきましたよ」

「それにしては量が多すぎる気が……」

 

 いえ、と霍篤は首を横に振り、受け取った手紙に目を通す。

 

「確かに、貴方様が言った通りのことが手紙に書かれていました。余計な詮索をして申し訳ありません」

「いえいえ、貴方が疑われるのも仕方ありません」

 

 霍篤には良くしてもらっているが、いずれ山藤の下に戻る日が来るのだと実感する。

 彼女が仕えているのは自分ではなく山藤、分かっているつもりなのだが彼女の好意に身も心も慣れてしまっていた。事のついでにと椿は霍篤に何時戻るのか問いかけると「貴方様を守ることが今の私の御役目です」という答えが返ってきた。過保護だな、と椿は苦笑する。「屋敷の方もいつまでも居てくれて構わないとのことですよ」と霍篤が付け加えるように申し出たが、そこまで世話になることはできない。あまり甘えすぎると、きっと自分は駄目になる。

 できるだけ早い内に自立しなくてはならない、そうしないと彼らの好意に溺れてしまいそうだ。

 山藤も霍篤も、少し優し過ぎる。

 

「本当に居てくれて構わないんですよ、むしろ居てくれた方が……」

「私は山藤と対等な友人でありたいと思っているのですよ」

 

 その答えに霍篤はとても複雑そうに眉を顰めて、天を仰いだ。




次回は三日後

ps.
霍篤さん

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