儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:?
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・蒯越異度:
劉表の親友、官僚の一人。
これまでの五年間で世界は確実に悪化していた。
これはまだ
しかし政治中枢に居座る外戚と宦官は権力闘争に忙しく、寒冷化問題には見向きもしなかった。
これに呆れた有志達は寒冷化対策を地方向けに改案したものを地方の豪族に配り、地元を守りたいと願う者達の手によって問題の解決に乗り出すことになる。とはいえ国家権力と地方豪族では地力に差がありすぎた。寒冷化対策は国体を保つ最低限の成果を上げたが、それでも多くの民草が土地を捨て、北から南、つまり華北から華南へと流れてしまった。
華北に比べて田舎と称される華南の土地、まだ発展途上にある土地では流民の負担を受け止めきれなかった。急激に人口が増えたことによる食糧不足、これによって寒冷化による食料問題は大陸全土へと広まることになる。
悪い時には悪い事が積み重なる、崩れてしまった均等を元に戻すことは難しい。事態が人の手には負えなくなった時、事態は行き着くところまで行くしかなくなるのだ。
当然だが、食料が不足すると飢饉が発生する。
自前で食料を用意できなくなった人間は、道徳や倫理で飯が食えるものかと賊徒化する。誇りもなければ信念もない、守るべき家族は賊徒に襲われ、食料や衣服、雨風凌げる家屋すらも失ってしまえば、もう人生なんてどうでも良くなってくる。こんな御時世では神なんて敬うどころか恨む対象だ、どうせ救いも得られない祈りを捧げるくらいなら悪魔に魂を売った方が幾らかましである。救ってくれるならばなんでもいい、助けてくれるならばなんだっていい。人は人として生きているから人である。金にならぬ誇りは犬に喰わせろ、腹も満たせぬ信念は投げ捨てろ。家族も守れぬ正義に価値なんてない。そうして人は犯罪に手を伸ばし、頗る妖しい宗教に嵌るのだ。
そして、この現象が大陸全土で起きているのが今の御時世であり、この状況に至っても尚、権力闘争に明け暮れるのが宮中の外戚と宦官であった。
こんな有様では老若男女問わず誰も彼もが口を揃えて、お決まりの台詞を吐くに違いない。
世も末だ、と。
未だに賊討伐の軍を編成されておらず、
賊徒は規模を大きくするばかりの状況にあってはどうしようもなく、治安維持は地方努力に委ねられた。
漢王朝を見限った――というよりも呆れ果てた者達の手によって地方は統治されるようになり、軍閥の力が急速に強くなったことは説明するまでもないことだろう。今や交州と揚州では豪族が幅を利かせており、漢王朝の統治が行き届かなくなってしまっている。そして荊州南部、長江の南でも同様の問題が発生し、荊州四天王を名乗る者達が各地で勝手に自治を始めているという始末である。
この事態を重く見た荊州刺史の王叡は、孫堅とかいう何処ぞの馬の骨と共に荊州南部の再統治に乗り出したという話を聞いているが――いやはや、はらひれ、上手くいくと良いね、と椿は他人事な感想を抱いている。王叡では荊州南部の豪族を抑えることは難しいだろうな、というのが正直なところだ。
閑話休題、
此処まで語ったことで重要なのは、二つだけだ。
大陸全土が慢性的な食糧不足に陥っている点、そのせいで大陸全土で大規模の混乱が起きている点。
華北から荊州に流れてきた流民、ないし賊徒が暴れた結果、荊州の生産力は全体的に落ちている。その中で安定して生産力を向上させ続けてきた椿の手腕は、当人の知らないところで評判になっていた。
となれば当然、賊徒の耳に入る。
やり手の新参者ではあるが、まだ防備は手薄である。
健気に生産力を伸ばし続けてきた椿の荘園は、食料に飢えた賊徒にとっては格好の的。何よりも荘園の持ち主である椿の美貌は――顔というよりも主に胸だが――地元でも有名な話で、夫も居ないことから処女ではないかという噂もある。更に彼女の従者二人も器量が良いとのことだ。片や貧乳、片や未成熟との話だが、これはむしろ三者三様で楽しめるという話でもある。
これはもう襲うしかない、略奪して陵辱するしかない。むしろ襲わなかったら賊徒じゃない。
鼻息を荒くして全速前進、ヒャッハーと掛け声が上がる。
夢と希望、浪漫を追い求めて、賊徒達は行軍する。目指す先は理想郷、欲望の限りを尽くした酒池肉林。そうだ、自分達は報われるべきである。あれだけの苦労をしたのだから、少しくらい報われたっても良いじゃないか。世の中にはもっと極悪な奴らがいる、もっと悪どい輩で満ちている。ならば、自分達がしてはいけないという道理はない。田畑を耕したところで意味はない、足りないものは奪って補えば良いのだ。
進め、進め、進みに進め。
腹一杯の飯と溜まりに溜まった性欲を発散するために、この腐った世の中に拳を振り上げるのだ。
世の中、奪ったもの勝ち、やったもん勝ちである。
世は正に大賊徒時代だ。
収穫期まで後二週間、収穫を待って襲撃する。
それまでは男の尻でも掘って性欲を我慢してやるさ。
俺達、皆、穴兄弟で竿兄弟。掘って掘られた絆がある。
†
荊州襄陽郡、
週に一度という契約で荘園まで足を運んでくれていた商隊の足取りが消えてから二週間、契約先の商家に事情を聞きに向かうついでに物資を調達しようと思った椿は護衛を二人連れて都市部まで足を運んでいた。護衛の一人は何時もお馴染みの霍篤、椿の親友である
そんな二人を従える椿は茶店で、大きな溜息を零しながら頭を抱えていた。
「どうしましょうか?」
思わず、溢れた言葉に二人の付き人は答えない。
霍篤は武芸に長けているが軍事や政治といったことには疎く、常夏は基本的に家事以外のことは役に立たない。いや、護衛を務められる程度には武芸の腕を上げているが、知識面で彼に期待することは何もない。そして椿は学者であるが軍事は専門ではない。基礎的なことは教養として知っているが、それは二人よりも幾らかましといった程度で知恵として頭が働くことは決してない。元より争いごとは忌避する身の上だ、軍事関連の書籍なんて目に通すだけで読み込むはずがないではないか。
それでもまあ楽観視することはできる。近場まで賊徒が移動しているからと言って、自分の荘園が襲われるとは限らないではないか。近場の山に賊徒が身を潜めており、その近場にある目ぼしい荘園が自分のところ以外にはないという点に目を瞑れば、完全に楽観視することはできる。収穫時まで二週間、それが終わってから悠々と攻め込む気であることは十中八九で明らかだが、その事実から目を背けることで泰平の未来を幻視することが可能だ。問題の先送り、棚上げした牡丹餅が棚ごと地面に落ちてしまいそうな現実から逃避することで精神の安定を図ることができる。
うふふ、あはは、と椿は奇妙な笑い声を零し、付き人の二人は気の毒そうに互いの顔を見合わせる。
そして見るに見かねたのか、霍篤が一歩前に出て優しい声色で告げる。
「別に逃げても良いのではありませんか?」
その言葉に椿が顔を上げる、常夏も驚きに霍篤の顔を見ていた。
「できないことはできない、これはもう仕方ありません。それに前にも言いましたが貴方には逃げ場があります、主様は貴方一人を養う程度であれば負担になりません。荘園を続けたければ支援だってしてくれるでしょう――むしろ、その方が主様も安心されると思います」
諭すような言葉使い、自分のことを思って言ってくれていることが椿には理解できた。
ただ同時に諦めてもいる。霍篤はそうなることを願っているにも関わらず、そうなることを諦めているかのようであった。呆れとも、蔑みとも、読み取れるような微妙な表情、ただ貶している訳ではないことが嫌でも見て取れた。
そして事実、椿は彼女の差し伸べた未来を受け取ることを考えていなかった。
「逃げません、逃げて良いはずがありませんよ」
何故ならば、これは自分が始めたことだからだ。
椿は椅子から立ち上がり、そして大きく深呼吸を繰り返した。
椿は行動には責任が伴うと考えている。それは行動には必ず結果が付随するものであり、自分が起因で発生した結果には責任を負う必要があると考えているためだ。その結果から逃げることは無責任と呼ぶ他にない。とはいえ、これが自分だけの話であれば逃げることも吝かではない。しかし五年間だ、洛陽から荊州に逃げ延びて五年間、新たな土地で紡がれた縁は多く、少なからず愛着も持っている。華北から流れてきた民草を受け入れて、衣食住を提供する代わりに田畑で働いて貰ったりもしている。奴婢も買ったからには面倒を見る責任はあると思っている、彼らは人間ではないが一個の命であり、手前勝手な理由で見捨てることはできない。
思考が駆け巡る、逃げ出すべきという合理的な発案もある。それ以上に荊州から離れたくなかった、嫌だった。自分の築き上げてきたものが余所者の理不尽な暴力に晒されることが許せなかった。それは未練と呼ぶべきものかも知れない。世に名だたる英傑達であれば、真っ先に切り捨てるべき感情と云うだろう。だが生憎なことに椿は凡人であった、それで良いと思っている。人間味を失ってまで超人になりたいとは思わない。
つまるところ、それが全てだった。未練を投げ捨てることはできない。何故ならば、これは自分が始めたこと、やりたいと思ったことをして、それが結果に出ている。捨てたくなかった、捨てられる訳がない。
ならばもう答えは決まっている。
「逃げたくは、ありません」
どうすれば良いのかわからない、名案なんて都合よく浮かぶものでもない。
それでもだ、逃げたくはない。だからも何故もない、それだけが結論として出てしまっていた。
霍篤が差し伸べてくれた手を無視して、じっと彼女のことを睨みつける。
「……私の御役目は貴方様の安全を確保することにあります」
霍篤も負けじと椿のことを睨み返し、そして大きく溜息を零した。
「しかし私には策がない。御存知の通り、私は頭の出来が良くありません」
そこで霍篤は心底嫌がるように言葉を切り、椿が沈黙を以て待ち続けると彼女は渋々と続きを口にする。
「かといって当てがない訳でもありません。策をなければ、策を授けてくれる人に頼りましょう……まあ実際に策を授けてくれるかは話が別ですけどもね」
と投げやり気味に告げてから「勝算がなければ気絶させてでも連れ去りますよ」と付け加えた。
これが彼女にとって精一杯の譲歩なのだと思って、ありがとう、と言葉にする。本来、霍篤は
それが私の御役目です、と彼女は頰を赤くした顔で素っ気なく返す。その姿がいじらしくて好ましく感じられた。
「さてはて、はらひれ、ほれいろは……兎にも角にも、貴方が当てにできると云う人物に合わなくては話が始まりませんね」
揶揄いたくなる想いを抑え込み、霍篤に先導するように促した。
余談になるが、初めての街に浮かれていた常夏のことを椿は会話中、ずっと後ろから抱き締め続けていた。これには他にも理由があり、いつも重いと感じている胸が丁度、彼の頭に乗るので良い感じに楽ができるのだ。問題なのは常夏が顔を真っ赤にしている――のは何時ものことなのでどうでも良いが、周囲の視線を妙に集めてしまうことにあった。
街ではやめてください、とほんのりと顔を赤くした霍篤に注意されて、渋々と彼を抱き締めるのをやめる。
「……大きな胸は凶器です」
常夏が逆上せあがったような顔で呟いてみせる。
とりあえず屋敷に戻ったら御仕置きすべきだろうか、それとも教育すべきだろうか。調教してやるのも良いかもしれない。
どれも大差ないが、どれもしようと椿は結論付けた。
主人の勝手気儘の思いつきに付き合わされるのは奴婢の特権である。
常夏は人知れず身を震わせる、歓喜から。
†
がたんごとんと馬車が揺れる、ゆっさゆっさと胸が揺れた。
何時かと同じように椿は馬車の御者席に座っており、その隣では霍篤が手綱を握って馬を操っていた。あの時と違うのは椿の膝上には女装をした少年が座っていることであり、椿は彼のことを逃さないように後ろから抱き締めている。伸ばさせた髪は徹底的に手入れをさせているので、髪の触り心地は嫉妬してしまう程に良い。その後頭部に唇を落とすように顔を乗せて、大きく息を吸い込めば髪に染み込んだ石鹸の香りが鼻腔を満たした。
先程から
彼の顎下を指先で擽れば、くぅん、と切ない声が零れて楽しかった。
「虐めるのも程々にしてくださいね。此処には替えの下着も、着替える場所もありませんよ」
仄かに顔を赤らめる霍篤に、はいはい、と椿は空返事で答える。
しかし椿の手は女装少年のお腹を撫で続けており、常夏は快感に身を震わせながら霍篤に潤んだ瞳で助けを求めた。それを霍篤は口笛を拭くことで雑に無視する。この程度の触れ合いはいつもの事だ、口を出せば切りがないと霍篤は椿との長い付き合いから学習している。
前屈みで必死にナニかを堪えている奴婢のことよりも、今はもっと他に話すべきことがある。
「これから会いに行く人物は、頭は切れますが性格の方に難がある御方ですね、正直疲れます」
「疲れる? 貴方が云うのであれば、余程ね」
そう云う椿は前に屈んだ常夏の後ろ髪を三つ編みに結び始める。
手が空いた椿が常夏の肉体を弄るのは、この五年間で染み付いた彼女の癖のようなものだった。これが屋内になるともっと扱いが酷くなる。言及はしない、明らかに度が過ぎた行為も含まれているので言及することができない。
これで一度も間違いを犯していないというのだから詐欺だ、と霍篤は密かに思っている。
「ところで名前はなんという御方なのでしょうか?」
小さく喘ぎ出した常夏を無視して、椿の問いに霍篤が答える。
「姓は劉、名は巴。字は子初。今は江夏太守を務める劉祥の一人娘です」
幼い頃は神童の名を欲しいままにした逸材、今は家庭教師として名家を渡り歩いていると霍篤は聞いている。
家庭教師としての腕は良い。その評判は荊州にある名家の間では有名であり、刺史や太守、県令から度重なる招聘を受け続けているが――何が気に入らないのか、どれだけ好条件を提示しようとも招聘を断り続ける変わり者でもあった。
幼い頃の彼女は野心家だったと記憶しているが、これはもう会って確かめてみないことには分からない。
「さあ、そろそろ着きますよ」
と霍篤は小振りな屋敷を指で差し示す。
移動中、その身を弄ばれ続けた常夏は口の端から涎を垂らして光悦の表情を浮かべながら小さく痙攣していた。生臭くはないので、出してはいないと思われる。この達し方は恐らく女の子の方だ。
それが分かってしまう程度には、見慣れた光景である。
†
劉巴の屋敷は大きいとは云えなかった。
庭があり、塀もあるが屋敷そのものは一階建て、部屋数は多いようには見えない。独りで暮らすには充分過ぎる広さがあるだろうが、家族が暮らすには少し手狭かもしれない。
霍篤や
「ここに貴方が云う人物が住んでいるのですね」
椿が豊満な胸を常夏の頭に乗せながら問いかけると、二人の様子に半ば呆れながら霍篤は首肯する。
とはいえ急な訪問に対応してくれるのかまでは霍篤にも分からない。それでも劉巴に話を通す程度のことはしてくれる根拠が霍篤にはあった。その思惑を知らぬ椿は、横目に見やる霍篤の顔が心なしか機嫌良さそうに思えた。
霍篤が塀の門を叩く、トントンと。
それは屋敷の中に居る者を呼ぶには、あまりに小さな音だった。それで通じる確信が霍篤にはあった。
「はいはい、どなたで……あれ?」
少女が塀の上からひょっこりと顔を覗かせた。二つ結いに纏めた髪、くりっとした大きな目で一点を見つめている。
そんな彼女の顔を見て、椿は直感する。よく似ている、と。第一印象も、纏う雰囲気も、身の振る舞いも、まるで違っているのに――それでも椿は彼女の姿に自身の護衛を務めてくれる従者に似ていると感じた。
少女は塀の上によじ登って跳躍、くるっと宙で一回転してから霍篤の前に両手を広げた華麗な着地を見せる。
そして満面の笑顔で大きく口を開いた。
「
霍篤のことを姉と呼んだ少女は、全身から好意を溢れ出しながら告白した。
「
紹介してくれませんか、と椿が問いかけると霍篤は苦笑いのまま答えてくれた。
「彼女は私の妹の――」
「――霍峻です! よろしくお願いします!」
二つ結いの少女が元気よく名乗ると、くるりと霍篤に向き直る。
言葉を遮られた霍篤は困ったように笑っている。端から見れば微笑ましい光景、ちょっと姉が好き過ぎるのが問題な気がしないでもないが、当人同士が気にしないのであれば、あえて横槍を入れるような真似をすることもない。
というよりも、もう霍峻の目には自分が写っていないように見える。
「菊姉様の御主人様って蒯越様じゃありませんでしたっけ?」
どうやら存在は認識してくれていたようだ。
「いや、今も私の主様は変わっていないよ」
と霍篤が返す。その砕けた言葉遣いに椿は少し胸の奥が疼いたが、その想いを飲み込んで代わる言葉を口にした。
「姓は劉、名は表。字は景升。貴方の御姉様は山藤から借りているのですよ」
そう椿が答えると「へー、なるほどー」と霍峻は大した興味もない様子で返事した。
それでもう彼女は椿に対する興味を失ったようで「今日は何の御用でしょうか!」と霍篤だけにむけて笑顔を振り撒いた。
霍篤が気まずそうに椿を見やり、構いませんよ、と椿は笑みを深めることで応じる。
鼻息荒く興奮する霍峻を、霍篤が宥めること数分、門の脇にある潜戸が開かれた。
「あー、五月蝿い輩だな。門前で叫ぶな、騒ぐな。礼儀がなってない。蓮葉、お前は何時になれば礼儀を覚えてくれるのか?」
そんな気怠げな言葉と一緒に姿を現したのは、如何にも肉体労働よりも頭脳労働が好きですといった格好の女性であった。
その雰囲気は学者というよりも、文官に近い。その鋭く吊り上がった両目は極端に黒目の部分が小さい三白眼、彼女の面倒臭そうな仕草からそうするつもりはないと分かっているのに、その目付きの悪さから睨まれているように感じさせられる。身長はあまり高くない、自分よりも頭一つ分小さな霍篤と同じくらいである。とはいえ筋肉質な身体を持つ霍篤と比べると、華奢で少し小柄にも見える。ゆったりとした足取りで自分達の方へと近づいてくる、背中まで覆い隠すほどに長い髪が彼女が歩く度に柔らかく揺らされる。
霍峻が急に畏まった姿勢を取る。霍篤が自分に視線を投げてきたことで、彼女が目的の人物だと察する。
「貴方は私の名前を知っているだろう。しかし初対面の相手には名乗るのが礼儀だ、だから名乗らせて貰うよ」
そう云うと彼女は姿勢を正して、自らの胸に手を当てる。
「姓は劉、名は巴。字は子初。水鏡女学院で歴代最高の成績を収める英才で、在学期間は僅か二年。秀才揃いと知られる女学院の先輩方をごぼう抜きした結果、これは手に負えぬと水鏡先生から特別に飛び級での卒業を許された稀代の天才とは私のことだ」
そこまで言い切った後、とはいえ、と劉巴と名乗った少女は困ったように肩を竦めてみせる。
「それは周りが付けた評判で私個人は凡百の人物に過ぎない、ただのしがない家庭教師だよ。ちなみに、馬鹿でもできる、が私の教育方針だ」
ここで劉巴が横目に霍峻を見やり、こんなでも読み書き算盤程度は仕込んである、と告げる。
霍峻は褒められたと思ったのかドヤ顔で胸を張ってみせた。
「……育てて欲しいという教え子がいれば、まあ都合が付く限り面倒を見よう。なんせ貴方は霍篤君の紹介だからね。もう教え子を抱えるつもりはなかったが多少の融通は利かせるよ」
でないとあいつが五月蝿い、とまたも霍峻に視線を向ける。霍峻は首を傾げるばかりでよくわかっていないようだ。
「いえ、家庭教師の話では……」
「詳しい話は中で聞く、客に茶の一つも出さぬとあっては礼儀に反する」
劉巴は霍峻に向けて、茶を淹れろ、と指示を出して屋敷に戻った。
どうにも癖が強い人物のようだ、と椿は霍篤を見つめる。だから言ったでしょう、と霍篤は苦笑で答えた。
この間、ずっと胸置き場になっていた常夏は少し首を辛そうにしていた。