儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・劉巴子初:?
水鏡女学院が誇る英才、今は家庭教師をしている。
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
今生きていることに価値を見出せなかった。
生命活動を続ける為に生産的な行動を取らざる得なかったので家庭教師として働いているが、惰性で人生を過ごしていると言っても過言ではない。まだ二十歳にもなっていない御身分で言うべきことではないが、昔はもっと精力的で活動的だったと認識している。まだ見ぬ未来には輝かしい名誉と地位があったはずで、それは順調に登っていけば手に入れられていたものだった。
それがどうしてこうなってしまったのか、自嘲せずにはいられない。
手が届いたはずの輝かしい未来は掴む前に指の隙間から零れ落ち、気付いた時には黄金色に輝く水溜まりに興味を持てなくなっていた。
勿体ないという気持ちはある、あの時もっと利口に生きていればという想いもある。しかし、もう自分は、地位と名声、金銭に嘗てほどの興味を持てなくなってしまっていた。自分の興味が変わる前に根付いた価値観が、お前は間違えたのだ、と訴えてくる。まったくもっての正論で、その通りだとも、と苦笑する他に術がない。
控えめに云って、自分は天才の一人だ。そう評さなければ、世に蔓延る凡愚諸君に失礼だった。地べたを這いずるように研鑽を積み重ねている者達に申し訳が立たない。才能の壁に阻まれると分かっているのに、それでも努力し続ける者達には敬意を抱かずにはいられない。天才の自分には無駄なことに人生を費やせる者達の気持ちが理解できなかった。
世の中には超えられない壁というものがある。
そして己の才能に胡座をかくばかりで努力をして来なかった自分は、壁を前にした時、早々に努力することを諦めてしまうことになった。優れた頭脳が立ち向かっても無駄だと結論付ける、確かにそうだ、と心が納得する。否定もせずに壁から目を背けた結果、嘗て抱いた情熱と野心は失われていった。そして家庭教師を続けている内に、今の生活も悪くないと感じ始めている。
満足はしていない、でも仕方ないと納得はしている。まだ心の奥底で何かが燻り続けているのを感じるが、湿った落ち葉が火種を蓋して表に出てくることはない。落ち葉の隙間から煙が上がって心の内側を窮屈で埋め尽くそうとしても、軽く息を吸い込んでから吐き捨てるだけで気持ちは落ち着いた。
夏が終わり、秋真っ盛り、ふと焼き芋が食べたいと思って、従者に落ち葉を集めさせる。
うぅ、寒い。と身を震わせて背中を丸めること数分ほど――騒がしくなってきた外の様子を感じて、のっそりと体を持ち上げる。
自分の姓は劉、名は巴。字は子初。真名は
まだ湿り気の残る心では燻る熱意は燃え上がらない
†
此処は荊州襄陽郡、その都市部。
自らの荘園が賊徒に狙われていると知った
部屋に上がる時、
目的の人物である劉巴に促されるまま椅子に腰掛けると、あまりの座り心地の良さに驚いた。見開いた目の端で、劉巴がにんまりとした笑みを浮かべてみせる。いやしかし、これはどや顔しても許される出来栄えだ。腰を痛めずに何時間も読書を窘めてしまいそうだった。使うべきところにお金を費やす、そのことを改めて思い知らされる気分だ。
とりあえず、後で何処で手に入れられるのか聞いてみようと決意する。
「どうぞ」と、霍峻が四人分の御茶を机に並べる。
劉巴、椿、霍篤、常夏――椅子の腰掛ける四人に白い湯気の立つ茶が配られた後、茶請けの砂糖菓子が小皿に並べられる。それを見た劉巴が咎めるように従者の霍峻を見つめたが、当の本人は素知らぬ顔で雑に口笛を吹いてみせる。その従者らしかぬ態度に劉巴が大きく溜息を吐き捨て、茶を啜る。そしてまた横目に霍峻を見つめるも、その頃にはもう霍峻は姉の霍篤を見つめるのに必死で主人の視線に気付くことすらなかった。
そんな主従の様子を眺めながら茶を啜る。そして、成程と納得する。香りの時点で想像できたことだが、茶葉は最高品質の物が使われているようだった。茶の淹れ方も素晴らしい、少なくとも官僚時代から一度も味わったことのない美味しさだ。この分では砂糖菓子の方も高価なのだろうと思った。
横目で隣に座る常夏を見ると、とても幸せそうに口元を綻ばせてる。
「良い趣味をしています」
素直な感想を零すと「まあね」と劉巴はぶっきらぼうに返してきた。
さてはて、
自分の目の前に座る女性、劉巴は家庭教師として名を知られている。
襄陽郡では最も腕のある教師という評判を持つが、その履歴よりも注目すべきは水鏡女学院を二年で卒業したという点だ。まだ荘園の経営が軌道に乗る前、農業に関する資料を得るために同女学院で講師を務めた経験を持っているが、その生徒達の学力は決して低いということはなかった。洛陽の太学でも充分にやっていけるだけの実力があり、その中には今すぐにでも官僚として働けそうな者もいるほどだった。
その水鏡女学院では入学から卒業まで六年間の勉学に励むのが通常であるが、それを彼女はたったの二年間で卒業したと云うのだから彼女が規格外であることがよく分かる。そんな彼女が凡百の範囲にあるとは、とてもじゃないが認められない。
ともあれだ、今この場で大事なのは彼女が心に闇を抱えていることではない。それだけの能力を持っている事が重要である。
茶を啜る、口を濡らして滑りを良くする。頭を切り替える。
その頭脳を借りるために今日は訪れたのだ。
「今回、劉巴様のところに伺ったのには……」
「そうだな、そろそろ話を煮詰めるとしようか」
劉巴は大袈裟に両手を広げると満面の笑顔で椿の言葉を遮った。
「さあ私が見る新しい教え子は誰かな? 見たところ、そこの可愛らしい少女かな? それとも、この場に居ない? 言い難い手合いの相手かな? 安心してくれて良い、どんな問題児だろうが人格から矯正、もとい教育してやるし、頭の悪い奴の扱いには慣れている」
にやりと角度を上げた口から早口で捲し立てるように告げられる言葉の数々、されども相手を見下すような両目は笑っていない。その姿に「またか」と呆れる霍篤とは別の印象を椿は得る。これは恐らく忠告で、踏み込むならば相応の覚悟を持てと挑発している。そして自分は止まれない、何故なら背負っているものがあるためだ。だから彼女も
「いや、用件は家庭教師ではありません」
踏み込んだ。
「……ほぉう?」
劉巴が片目を見開き、相手を見定めるような視線を向けてくる。
きっと彼女は性格の良い人物ではない。この短いやり取りでも理解はできた、それでも悪人ではない。何故ならば霍篤が彼女のことを嫌悪していない、霍峻が彼女を慕って仕えている。そして奴婢で悪意に敏感なはずの常夏が拒絶などの反応を見せていなかった。
ならば何も問題はない、何故ならば彼女には他人の話を聞く意思がある。
大事なのは礼儀作法、
相手の家に入れてもらう時に失礼しますと言うように、食事の前にはいただきます、食事の後にはごちそうさまと言うように、誠心誠意を込めて事に当たれば良い。
彼女にはそれが頗るよく効くはずだ、そして自分のやり方でもある。
「私は……」
「ああ、分かっている。分かっているとも。貴方が私に求めるのは、この頭ということだね?」
笑顔はそのまま、劉巴は自らの頭をトントンと指で叩いてみせる。
「色々と言いたいことはあるが……まあ、良いよ」
劉巴は仕切り直すように茶を啜り、とはいえ、と口を開いた。
「私が貴方に礼儀を払っているのは、霍篤の知り合いだからという点にある。霍篤が貴方に私を紹介したのは見れば分かる、だから私も霍篤の顔を潰さないために歓迎している」
その上で、と彼女は語気を強めた。
「君は私に何を願い出る?」
問いかけられる。
声色は冷たく凍り、その三白眼は細められた。薄っすらと浮かべる笑みは挑発的で攻撃的、ひぅっと隣に座る常夏が小さく悲鳴を上げた。霍篤は相手の様子を窺うように無言で睨み返している。その急な主人の変化に対して、気にも止めずに姉の霍篤を幸せそうに見つめているのが霍峻である。さあ渾身の茶を一杯、ぐいっと冷めない内に飲んでください、と期待いっぱいの眼差しを向けていた。
明らかに一人だけ空気を読めていないが、あれは無視して構わないと椿は劉巴を見定める。
「……どうか私に賊徒から荘園を守る手立てを授けてください」
礼儀に則るならば、頼み事をする時は誠意を見せるべきだ。
そう考えて机に両手を着き、頭を下げること数秒――えっ? という間の抜けた声が耳に入った。
ゆっくりと顔を上げると三白眼が訝しげに
「そういうことならば、私の頭脳なんて必要ないではないか」
溜息混じり、呆れた顔で劉巴が告げる。
「
その言葉に霍篤の方を振り返ると彼女は困ったような顔で首を横に振る。
「そこまで私の武は高くありませんよ。森の中であれば、あわよくば……といった程度ですね。
「そりゃもう
菊姉様のためならば、と両手をバッと広げた霍峻が悦に浸る。
そんな妹の姿に霍篤は苦笑いを浮かべていた。
「此奴は馬鹿だが、荒事は得意だから安心すると良い」
劉巴が補足すると「ああ、少し待って欲しい」と何かを思いついたように棚から紙と筆を持ってきた。
そして丁寧で読みやすそうな文字で文章を書き綴り、最後に独特な字体で自らの名を刻んだ。そして「ついでだ」と悪戯っ子のような笑みを浮かべた彼女は小さな紙に単語を一つだけ記して丁寧に折り畳んでみせる。
「霍峻は勝手に付いて行くだろうが……」
「当然ですよ」
「……まあ私は君達に付いて行くつもりはない、その代わりと云ってはなんだが知恵袋を紹介してあげるよ。これが紹介状だ、小さい方の紙は奴がどや顔を決めた時に手渡してやって欲しい」
二枚の紙が椿に手渡される。小さな紙に書かれた単語も彼女が言っている意味も椿には理解できなかったが、まあ劉巴の楽しそうな顔を見る限り、特に深い意味はないと思って快く頷き返した。
「それで何処に行けば良いのでしょうか?」
紹介状を含めた紙二枚を振袖に入れながら問いかけると「黄家は知っているな?」と劉巴が確認を取り、椿が首肯する。
黄家とは襄陽三名士の呼ばれる名家の一つだ。現在の当主は黄承彦、荘園を始めたばかり頃に農業が上手くいかなくて頼った相手である。水鏡女学院の存在を教えて貰って、紹介してくれたのも彼女だった。
荘園の経営が上手くいってからは足が遠のきつつあったなあ、と椿は罰の悪そうな笑みを浮かべる。
「黄承彦様とは知った仲です。もしかして知恵袋というのは彼女のことでしょうか?」
彼女は自分よりも年上の存在であり、年齢相応の経験によって裏打ちされた知恵にはよく助けられた。
しかし劉巴は首を横に振る。
「今回、頼るのは黄承彦殿ではなくて、その娘だよ」
その言葉に「はて?」と椿は首を傾げてみせる。
彼女の年齢を考えれば、娘の一人や二人、居たとしてもおかしくないが屋敷で見たことがない。そもそも子供が居ないのか、屋敷から出て自立しているのか、まあ大して興味を持っていなかったので気にも留めたことがない。ただ居ると知れば、どういう子なんだろう、と思う程度には知人に興味を持っていない訳でもなかった。
先を促すように劉巴に視線を向けると、彼女は頃合いを見計らったように話を進める。
「アレの名は月英と云う、見てくれは悪いし、性格にも問題を抱えているが才知は確かだ。私が見てやった生徒の中では最も優れているよ」
しかし、と劉巴は付け加える。
「アレは所謂、引き篭もりと呼ばれる人種でな。世間を知らないが故に視野が狭いところがある、是非とも表に連れ出してやって欲しい。私程とは云わずとも、それなりの役には立つはずだよ」
それにあれば軍師というよりも学者だからね、と劉巴は椿を見つめる。
この時に漸く最初から相手は自分のことを知っていたと気付いた。考えてみれば、霍篤と霍峻の繋がりがある以上、自分の情報が伝えられていても可笑しくはない。なんとなく面白くないな、と思いながら霍篤を横目に見ると、彼女は茶請けの砂糖菓子を口にしながら不思議そうに自分を見返してくる。次に霍峻を見ると露骨に目を逸らされた。
「でもでも御主人様って、近頃は週に二日しか仕事をしていませんよね?」
話題を切り替えるように霍峻が声を上げると「蓮葉は何も分かっていないな」と劉巴が得意顔で答える。
「私は常日頃から生徒の教育方針や内容について、考えているのだよ。つまり今も仕事中ということだ」
郎らかに述べる劉巴を、霍峻は胡乱げに見つめる。
丁度、茶請けを食べ終えた頃合い。ここまで助言を与えてくれた劉巴に椿は深々と頭を下げて感謝を述べた。すると劉巴は「礼なら霍篤に言うんだな」とにべなく答える。それでもやはり彼女に感謝をするべきだと思って、改めて頭を下げると「何度もやめてくれ」と劉巴は困ったように笑ってみせた。
それから椿達三人は霍峻の案内で屋敷から出る。
「私は少し準備をしたら荘園の方に直接、向かいますよ」
門前で霍峻と別れて、次の目的地である黄家まで足を運ぶことになった。
†
「行ったか」
門の閉まる音を耳にした劉巴こと
自分に智謀を求めて、屋敷に訪れる輩は少なくない。今回のように知恵だけを貸す時もあれば、県令や太守、荊州刺史の王翳から仕官を望む申し出を受けている。それも結構な好条件、本格的に家庭教師を続けていた時と比べても、十倍以上の給金を提示されたこともある。しかし、その悉くを自分は断り続けている。
それは理由と呼ぶには余りに陳腐な感情が足を止めさせるためだ。
「行きたいなら行けば良いのに、そういうのが好きな癖にね」
つい先程まで劉表達を送り出しに向かっていた小生意気な従者は何時の間にか居間まで戻ってきていた。普段は足音を立てずに動くので急に現れることが多くて心臓に悪い。その癖に街中では人混みに紛れる時は気配を絶たず、足音や布擦れの音を立てるのがなんとも小憎たらしかった。
「今回は私の出る幕ではないだろう」
「まあね、私が行ってチャチャっと退治して来ますよ。他で暴れるならまだしも
「お前の姉好きは昔からだが……まあ、なんというか極まってるよ」
呆れ混じりに告げてやると、当然、と
「世の中、姉が嫌いな妹がいるものですか」
「いや、それは結構、居ると思うけどな」
最初、
このまま姉に付いて行かれても不思議ではない、使い勝手が良いので少し残念に思うだけだ。
「まあ御主人様が面倒臭いのは知っていますけどね。それじゃ出掛ける準備をして来ますよ」
そういうと蓮葉は嘲りながら部屋から出ていった。
私の出番はまだ先だよ、と強がりながら湯呑みの底で僅かに残った茶を飲み干した。
自分が家庭教師を始めたのは最初、お偉い様に渡りを付けるためだった。
あの時はまだ野心を胸に抱いていたし、自分が天下を差配する程の傑物であると信じていた。実際、自分は天才であるし、戦国乱世の御時世であれば、国家方針に意見を出すことが許されるだけの才覚はあると自負している。
ただ才能だけを支えに生きてきた自分は思っていた以上に軟弱者だったようで、自分以上の才覚を前にした時に心が折れてしまった。
それからはもう駄目だ。上を目指すことに対して、情熱を燃やせなくなった。意欲よりも先に諦めが出る。才覚で劣る者が努力をしたところで、より才覚がある者が努力を始めたら追いつけなくなるのは当然の道理だ。そう言い訳をしてから数年が過ぎている。一芸に特化すれば生き残る道もあるかもしれないが、そういう生き方を良しとする程、自分は人間ができる訳でもなければ割り切りも良くなかった。かといって野心が完全に失われた訳でもない。
胸の奥に燻り続ける情熱、霧状の小粒な雨が降り続ける心象世界。霧雨に阻まれながらも太陽は空にある、しかし世界を乾かすには程遠い。
未だに湿り続ける心では、如何なる想いは燻り続けることになる。
書き直し、そして時間がかかってしまい申し訳ありません。
文章が書けない時は本当に書けない、思っていた以上に時間がかかってしまいました。
徐々に調子を取り戻していきたいと思います。
あと三話で一章が終わる予定です。
近頃、恋姫二次の黒狼伝を楽しませてもらっています。
わんわんお、わんわんお!