儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
劉巴から受け取った紹介状を懐に入れた
隣には手綱を操る霍篤が腰を下ろしており、膝上には
今、向かっているのは襄陽黄家の屋敷になる。黄家とは地元で有力な豪族であり、抱える荘園の規模は荊州で最も大きいと言われている。それ故に抱えている奴婢も多く、その数は千を下ることはない。新参者の椿とは文字通りに桁が違っており、彼女が住む屋敷も椿の五倍以上と比べ物にならない。
そんな格上を相手にすることは正直、気後れしてしまうのだが――でもまあ官僚時代に霊帝や大将軍と同じ場所にいた時のことを思えば、この程度の事で臆すわけにもいかない。ましてや襄陽黄家の当主である黄承彦とは、よく知った仲である。荘園を運営する上で色々と御世話になることが多く、そのことに対して、まともな恩返しができていないことに気を病むことが増えた。おかげで前に顔を見せてから三ヶ月以上も間が空いてしまっており、そのこともあって尚更に顔を合わせ難かった。
とはいえだ。行かない、という選択もない。決して会いたくないという事はないが、ただひたすらに会い難かった。
悶々とした想いが胸の奥に疼き出した。それを少しでも抑え込むために椿は常夏を後ろから抱き締める。
時間は過ぎる、距離は縮まる。世は無情なり。
目的地に近付くにつれて、憂鬱な気持ちが募るばかりだった。このまま延々と辿り着かなければ良いのに、という本心からは望んでいないその場凌ぎの考えが脳裏を埋め尽くすが――運良く事故が起きることもなく、無事に襄陽黄家の抱える荘園まで辿り着いた。
此処は椿の抱える荘園とは比べられない程に広大であり、草木を開拓した田畑は見事な地平線を形成している。道すがらで見かける奴婢の数も多く、皆が精力的に働いており、痩せ細っている者なんてほとんど居なかった。その奴婢達の手に持つ農具が金属製であることから襄陽黄家の財力の膨大さには驚嘆する他なく、また武具としても活用できる金属製の農具を奴婢に扱わせている度量や人望には感心する他にない。川辺では野菜や衣服を洗っている光景がよく見られる、新鮮な野菜に丈夫な衣服、それだけでも下手な良民よりも彼らが良い暮らしをしていることが分かった。
ここに来る度に思うことであるが、襄陽黄家の荘園はそれだけで一つの小さな国であるように感じられる。
田畑の横にある道を少し歩き続けると大きな屋敷が見えてくる。
玄関前では侍女が箒を手に掃除をしているところであり、彼女は椿達の姿を確認すると慌てた様子で屋敷の中へと駆け込んでいった。その間に馬車を玄関前に付けて、椿達は馬車から降りる。「劉表様、ようこそおいでくださいました」と頃合いよく侍女長が出迎えてくれて、屋敷の中に入るように促される。霍篤は馬車を厩近くまで送ってから追いかけるとのことであり、椿と常夏の二人が先に屋敷に上がることになった。
屋内は全面板張りで土足厳禁だ。玄関口で内履きに履き替えて、客間までの案内を受ける。
通された客間には素人目にもわかる高価な調度品の数々が飾られており、床には毛皮の絨毯が敷かれている。膝上程度の高さしかない質の良い机、その側に置かれた長椅子に腰を降ろすと座面が沈み込んだ。確か、中には羽毛が詰め込まれているだったか、相変わらず不思議な感触だった、お尻を優しく受け止めて包み込んでくれているかのようだ。家にある敷き布団よりも柔らかく、寝やすい気がする。
右を見ても、左を見ても、高級感に溢れた部屋に改めて格の違いを思い知らされる。
客間というのは御家の格を分かりやすく示すものだ。そのため地位を持つ者は交渉事で相手に見縊られないようにすつために見栄でも客間を飾り立てる必要が出てくる。おかげで客間と玄関は豪華であるにも関わらず、実際は生活費を切り詰めるような貧相な暮らしをしている豪族も珍しくない。しかし襄陽黄家の財力は文字通り桁が違っており、あるもので適当に揃えた、と屋敷の主人である黄承彦が云っているのだから木っ端豪族とは根本的に感覚が違っている。
劉巴の屋敷で淹れて貰ったものと遜色ない茶を頂きながら、その襄陽黄家当主の登場を待った。
「私が来たっ!」
バンッと唐突に客間の扉が開け放たれた。
見た目は十二歳程度の少女が両手を突き出したまま、ふんすと楽しそうに鼻息を立てる。
ただ威勢が良かったのは最初だけで「やっほー、元気してた?」と眠そうな目を椿達に向けながら緩い調子で問いかけた。
彼女こそが襄陽黄家の当主、黄承彦その人である。
ええ、まあ、と椿が曖昧な笑顔で返すと、黄承彦は数瞬の間を置いて「久しぶりだねえ、顔が見れて嬉しいよ」と椅子に腰を沈める。数ヶ月ぶりに見る彼女の姿は、もう実年齢が三十路近いと云うのに相も変わらず若過ぎる。
「むぅっ……今、失礼なことを考えたでしょ?」
黄承彦が眠たげな目を細めてギラリと光らせる。
「いえいえ、若さの秘訣を教えて欲しいなあと思っただけですよ」と愛想笑いで嘘ではない言葉を返した。
黄承彦は胡乱げに椿を見つめた後、「まあ良いんだけどね、事実だし」と溜息を零した。
「若さの秘訣が知りたければ、閨でも共にする? 今の私は未亡人だから構わないよ」
あっけらかんと問われる。
幼い見た目ではあるが、その落ち着き方は外見不相応なので年齢差による違和感は少ない。ただ常夏の方には効果があったようで、あわあわと不安げに視線を黄承彦と椿で行き来させていた。数年前ならいざ知らず、それなりに経験を経た椿は特に慌てるようなこともせず、「今日中には戻らなくてはならないので」と丁重に断りを入れる。
あ、そう? と黄承彦は素っ気なく答えると顔を真っ赤にした常夏に視線を向けた。
「
「私も若いままではいられませんので」
「近頃は顔を見せてくれないし……君の御主人様は可愛くなくなったよね?」
「あ、はい」
オロオロしながら御主人様に救いを求める常夏。気不味くて二人から視線を逸らすと、黄承彦はケラケラと悪戯っぽく笑ってみせた。
「なにはともあれ近くまで来たのなら、用事がなくっても顔くらいは見せて欲しいな。今の御時世、何が起きてもおかしくないんだからさ。連絡が途絶えるとおばちゃん心配だよ?」
黄承彦は振袖から紙に包んだ飴を取り出しながら告げる。
耳が痛いばかりの言葉に椿は項垂れる他になく、対して黄承彦から飴を頂いた常夏は満面の笑みを浮かべていた。
それからも黄承彦からの質問は続き、御飯はちゃんと食べてるの? 身体の調子は悪くないの? 読書が好きだからって夜は寝れないと駄目だよ? と何処の母親のような心配事に椿は「ええ、はい、大丈夫ですよ」と苦笑混じりに相槌を打ち続ける。
こんな感じになってしまうから顔を合わせ難かった。でも心配されることに疲れはしても嫌ではないのだ。身から出た錆ではあるが心苦しいので、ついつい後回しにしてしまうだけの話である。
軽い尋問のような質問攻めが十分近くも続き、漸く黄承彦が運ばれてきた茶を啜って一息吐いた。
「で、今回の用事は?」
その咎めるような声色に、椿は息が詰まるのを感じた。
用事はない、と此処で言えたならば気も晴れるのだろうが、それを今する訳にもいかずに申し訳なさだけが積もり続ける。
常夏は飴の虜になっているので、役に立たない。
「あ〜あ、
「……近い内にまた寄らせてもらいます」
「うんうん、是非そうして頂戴。こう見えても私って寂しがり屋なんだよ?」
それで漸く溜飲を下げてくれたのか、黄承彦は満足げな笑顔を浮かべてみせた。
「もし来なかったら、お仕置きがご褒美になるくらいお仕置きして、自分から来たくなるようにしてあげるからね」
此処は荊州でも有数の豪族、襄陽黄家の荘園。つまりは治外法権だ。
木っ端豪族の一人や二人、この土地で消息を消したところで誰も動いてはくれない。
故に椿は冷や汗を流しながら、必ず、と振り絞るように答えるしかなかった。
「合意を得たところで用事を済ませちゃおうか。良い歳した女が説教で耳に
合意ではない、と訂正したくなったが押し黙る。代わりに彼女の言う通り、用件を伝えようと口を開いた。
「今回は黄承彦様にお願いがあって来ました」
椿は姿勢を正しながら真っ直ぐに相手を見つめる。
「いつも言っていることだけども私個人で協力できる範囲なら手伝うけど、黄家の力が必要な時は応相談だよ」
黄承彦もまた椿を見つめながら応じる。
彼女相手に小細工は通用しない、話術を弄するような間柄でもない。今に限らず、騙すような真似は得策ではなかった。
だから素直に真正面から切り出すことに決める。
「ええ、大丈夫です。して欲しいのは、とある人物との顔合わせです」
その言葉に黄承彦は「んー?」と渋い顔をしてみせる。
「景升ちゃんのことは信用しているけどねえ……どうするかは相手と内容によるよ?」
「そこは大丈夫ですよ。黄家の当主としてではなく、黄承彦様個人にお願い申し上げています」
「えー、んー……?」
黄承彦が年不相応、外見相応に首を傾げてみせる。
「ちょっとわからないかな、とりあえず誰を紹介して欲しいの?」
彼女には珍しくまだ困惑しているようだった。
これまでの話の流れを考えると、椿の荘園が賊徒の脅威に晒されているのかもしれない。だが黄家の支援を受けるつもりは最初からない、というよりも黄家は私兵をほとんど抱えていなかった。都市部付近に荘園を抱えた襄陽黄家は襄陽太守や県令との仲が良く、襄陽黄家が外敵に脅かされると襄陽の正規軍が優先して派兵される手筈となっている。その代わりに襄陽黄家が軍隊を維持するのに必要な食料の半分以上を肩代わりしている。
という事情を持っていることから戦力という点で黄家に頼ることは得策ではなかった。精々、太守や県令に意見を具申してくれるのが精々であり、そのための対価を支払えるだけの能力が今の椿にはない。
椿は小さく息を吐くと、自らの要望を伝えるために改めて口を開いた。
「どうか私に貴方様の娘である月英を紹介してください」
「ん? んん? んー、えーっと? えぇー……」
黄承彦は表情豊かに困惑すると、じっとりとした目で椿を見つめた。
「娘婿が娘よりも自分の方が年齢近いってのは、ちょちっと複雑なんだけど?」
「はい?」
いやいや、と椿は首を横に振る。
確かに、今の御時世においては同性同士での結婚は珍しいことではない。
陰茎を生やすことができる不思議な蜂蜜を使った薬が市場に出回っており、ある程度の資金力を持った存在であれば入手することは難しくない。また男性が子供を孕む薬がまだ開発されていないことから、富裕層の間では男性よりも女性の方が優れているという認識があり、女性同士の婚約が忌避されることはなかった。元より漢王朝の成り立ちからして、男性の項羽を女性の劉邦が打ち破ったとされているので、古い家柄であればある程に女尊男卑の思想は根強く残っている。
逆に庶民の間では、その薬を入手する困難さによって庶民が手に入れることは難しいことから女尊男卑の思想は薄れている。氣を習得しなくては、女性は男性と比べて体力が劣る。そして氣とは所謂、特殊技能に位置付けられるものであり、誰も彼もが簡単に扱えるものではなかった。そうなると体力がある男性の方が仕事場では重宝されるようになるし、庶民から兵を募る軍隊では男性主体で構成されるようになるのも必然となる。そうなると必然的に女性は家を守る存在になるというものだ。
そういう事情があって、庶民では異性同士の結婚が多かった。
さておき、と椿は冷静になった頭で口を開いた。
「違います」
いくら同性同士の結婚が珍しくないからといって、それは発想の飛躍というものだ。
「劉巴様に貴方様の娘を紹介して貰いました。これがその紹介状になります」
さっさと話を進めようと振袖から紹介状を取り出して、黄承彦に差し出した。
「
彼女は訝しげに受け取ると、ふんふん、と紹介状に目を通すと「あい分かった」と頷いた。
「娘を連れて行ってもいいよ、偶には外の空気も吸わせてあげないとね」
そう言うと黄承彦は、パンパンと手を叩いてみせた。すると扉の向こう側で待機していたと思しき侍女が客間に姿を現して「お呼びでしょうか?」と侍女然とした仕草で問いかける。
「景升ちゃん達を離れまで案内してあげてよ」
黄承彦は紹介状を侍女に手渡して、答える。
それから椿達の方を見つめると「無理に引っ張り出しても良いからね」と軽い調子で付け加えた。
そういえば引き篭もりと言われていましたっけ、と椿は思い出しながら頷き返す。
侍女に案内された離れは椿達が住む屋敷と同じほどの大きさがあった。
財力の違いをまざまざと見せつけられたような気になるも、今の生活に満足をしている椿に嫉妬はない。というよりも研究のために取れる時間と環境を確保することができれば、それ以上の財力なんて不要だった。私用では研究以外に資金を費やせるものはなく、仕事に追われる人生は官僚時代で事足りている。
さておき、途中で厩に馬車を預けに向かった霍篤と合流した椿達は侍女に連れられて屋敷の中へと入る。
その時、侍女が扉を叩いたが屋内からの返事はなかった。
「いつもの事です」
侍女は慣れた様子で外から鍵を開けた。
中は母屋と同じ板張りの床が敷き詰められている、玄関口で内履きに履き替えてから屋敷に上がり込んだ
それから廊下を歩いているとカチャカチャと何かを弄る音が聞こえてきたが、侍女は特に気にした様子はない。この音に薄気味悪く思ったのか、常夏は合流したばかりの霍篤の服の裾を摘んで挙動不審に辺りを見渡している。
月英が居るという部屋は屋敷の奥の方で、部屋の前まで来ると音は扉の先から聞こえていることが分かった。
侍女が数度、扉を叩いたが返事はない。小さく溜息を零して、侍女は勢いよく扉を開け放った。篭った空気が部屋の中から噴き出した。顔を顰めながら部屋の中を覗き込むと床一面には何かの部品のようなものが乱雑に置かれており、壁には等身大の人形が三体も掛けられている。他にも小さな人形が幾つも棚に並べられており、所狭しと置かれた台座の上には見たこともない工具が置かれている。
そして部屋の奥には、少女がボサボサの髪を揺らしながら机に向かって、齧りつくように何かの作業を行なっていた。
「御嬢様、御客様ですよ!」
侍女の張り上げた声に「ああ、うん……」と漸く少女が反応を見せる。
「……誰?」
のっそりと体を起こして振り返ると「えっ、うえっ!?」と少女は驚きに目を見開き、「ふぎゃっ!」と椅子と一緒に地面へと転がり落ちてしまった。
「ひ、ひぇっ……どうして? なんで? 知らない人が居るの? 連れてくるなら前もって言ってよぉ……」
少女は情けない声を上げながら四つん這いで寝台まで体を引き摺って、くるんと布団に丸まる。
その様子を見守っていた霍篤は呆気に取られており、その彼女の服の裾を摘んでいた常夏は呆然としている。椿自身もまた目の前の光景に付いて行けていなかった。
その中で侍女だけは見慣れた光景なのか、溜息を吐くばかりで動じる様子はない。
「……劉巴様はどのように彼女の交流してたのでしょうか?」
思わず侍女に問いかけてみる。
「一度、劉巴様が布団に火を付けられてからは、二度と彼女の前で布団に逃げ込むことはなくなりましたね」
何食わぬ顔で返された言葉に、どう反応すれば良いのか分からなくなってしまった。