黄承彦の娘。引き籠り。
私にはこれしかなかった。
どう控えめに見ても私が屑という事実に変化はなく、何をやったとしても及第点に届くことはあり得ない。
愛想を振りまくことも気恥ずかしくてできないし、相手に合わせるなんて器用なことも難しかった。人間関係が面倒と思うようになったのは何時からだったか、親の目に怯えるようになって顔を合わせることすらもできなくなったのは何時からだったか。呼吸をしているだけでもしんどくて、心臓の鼓動は心の軋む音のように思えて仕方なかった。生きている、ただそれだけが辛かった。
また私は天からも見放されているようで運もない、何をやっても上手くいかない。どれだけ準備をしていても何処かで必ず綻びが生じて失敗してしまうのだ。奮起しても、改心を試みても、結果として現れたことは一度もない。努力を褒められたこともあるけども、結果を出せない努力に何の意味があるのか分からない。
こんな私ではあるが信心深くはあるようで、神の存在は認めている。それは認めたところで損はなく、認めなかったところで得はない、という極めて消極的な思考が起因となっている。やっぱり私は信心深くはないかもしれない。まあ神が存在していたとしても、神が誰か個人を救うために動くことはないと思っている。何故ならば、神は人間という種に興味を持っていても、個人としての人間を認識することはないためだ。地図上から眺めた光景に人の営みが映らないように、頭上遥か高くから見下ろす神の視点は誰か一人を追いかけることに向いていないのだ。それ故に神が木っ端人間の一人に救いを与えるなんてあり得るはずもない。あったとしても気紛れに過ぎず、たまたま目に付いたからとかそんな理由だ。そんな訳で神が何もしないからといって、八つ当たりするのも間違えていると思ったりする。だからまあ私の人生は私だけのものだと思いはするのだ。
人生どん底なのは当たり前、心は何度も折れている。地べたを這いずるように生きている。それは不幸と呼ばれるものかもしれないが、それは決して不幸と呼ぶに相応しくない。だって、何故ならば、それは私にとって当たり前なのだ。心が折れて、膝を付き、胸が苦しいのは日常に過ぎない。
私がどれだけ苦しもうが、辛かろうが、世界は変わらずに回り続ける。もしも仮に私自身に価値があるとするならば、きっと世界は無様な生き方をしている私を許しはしない。こんな生き方をしている私は大なり小なり世界へ悪影響を与えているはずなのだ。それなのに世界は何事もなく回り続けている、そうある時点で私には価値がないのは証明されたようなものだった。
私は私のことを人間として終わっていると考えている。人間であることに資格が必要というわけではないだろうけども、少なくとも私が私自らを評価するに辺り、人間失格の烙印を押すことに躊躇することはない。だって、何故ならば、私は人間として欠陥を抱えている。周りの皆が意識せずにできていることが私にはできないのだ。誰かと目を合わせるだけで辛い、対話なんて吐きそうになる。同じ部屋に誰かがいるなんて目眩がする。
こんな私が真っ当に生きることは難しい、いやできない。できるはずがないのだ。試みる気すら起きやしない。
だから薄暗い部屋に閉じ篭って、部品を弄り続ける毎日を送っている。目の前の壁には設計図、右手の壁には絡繰人形が三体吊ってあり、その直ぐ側には調整用の工具を詰め込んだ箱を置いている。私の指先は傷付き火傷の痕も残っている。連日連夜の不規則な生活に肌は荒れる、髪も傷んでる。こんな有様では嫁の貰い手もいるはずもなく――いや、しかし待て、そもそも私のような欠陥人間、失格者に嫁ぎ先なんてあるはずがないのだ。だから、この身が傷付き荒れようとも気にしない。
見てくれが悪い、ついでに性格も悪い。陰険で陰湿、口下手に挙動不審、そして情緒不安定と数え役満も待ったなしだ。こんな私を愛してくれる者なんて、世界中の何処を探したっていないに決まっている。というよりも私が私自身を愛していないというのに誰が私を愛するというのか。
嗚呼、嫌になる。人生、生きているだけで嫌になる。呼吸をするだけで億劫で、気が滅入る。きっと空気には毒が詰め込まれている。人間に成れた者だけが抗体を持ち、人間失格者だけを殺す毒が散布されているに違いない。
それでも手元の部品を弄り続けるのは、それしか私にはないためだ。
こうすることに価値なんてあるとは思わないけども、こうしていると他の余計なものを考えずに済んだ。人形作り、これ一つに没頭できる、没入できる。御飯を食べることすらも必要とせず、睡眠を貪ることも必要としない。ただ一つ、目の前の作業を黙々とこなすことに意味がある。そうしていられる内は嫌なことは思い出さない、思い付かない。この作業をしている時だけ私は慢性的な不幸から抜け出すことができた。
だからこそ今日も今日とて人形弄りに精を出す、人知れず、独りきり、延々と。
†
姓は黄、名は月英。真名は
突然の危機に直面した彼女は今、頭から布団を被って震えていた。
幼い頃から極度の人見知りであった彼女は誰かと面を向かって話すと吃ってしまう癖があり、何時しか誰かと言葉を交わすことを恐れるようになってしまった。それは誰かが悪いという訳ではなく、ただひたすらの申し訳なさから対話することを避け続けてきた結果、誰かと顔を合わせるだけでも緊張で気持ち悪くなるといったものだ。そして、そうなってしまうから相手に対して、より一層に申し訳なく感じて喉奥から酸っぱい胃液が込み上がってくる。
自分は欠陥を抱えている。それ自体が親に対しても申し訳なかった、毎日を生きているだけでも親の負担になっている事実がもう申し訳なさすぎて死にたくなる。自分を変えなきゃいけないと思っている、でもできないのだ。部屋を出るだけでも胸の動悸が激しくなるし、離れを出ようとすれば目眩がして、まともに立っていられなくなる。変えようとして変えられないのであれば、もういっそ死んでしまいたいし、殺して欲しいと思っている。
でも、駄目なのだ。死にたくって、何度か首を吊ろうとしても自分は臆病者で自分自身を殺しきることができなかった。何度も手首を切り裂こうとしても浅い傷を付けるばかりで死ぬには至らない。どうして自分は生きているのか、どうして自分は生かされているのか、これがもうよくわからなかった。生きているだけで不良債権、産まれてきたことが間違いだった。こんな駄目で欠陥を抱えた自分だから
もっと幸福に生きられたのに、自分のせいで不幸になっている。
「……月英さん、であっていますでしょうか?」
布団の中、真っ暗闇の中で下唇を噛んで震えていると声が聞こえてきた。
大人っぽい声がする。母様のように落ち着いた声で安心感がある、でも知らない声という事実が胃を圧迫して吐き気を催した。何時しか布団に火を点けられたことを思い出して、今回も強硬手段に出るのではないかという恐怖で涙が溢れ出す。あの人、絶対に可笑しいんですよ。布団に火を点けられたことは勿論、屋敷の入り口を土壁で塗り固めても火を放たれるし、屋内外に仕掛けた罠を見破るのは……まあ良いけど、それをわざわざ解体して拷問に活用してくるんですよ。
生み出してきた絡繰の数々は、拷問のために作ったんじゃない。もっと平和的目的のために――いや、別にただの手慰みだけど、少なくとも自分に心身を痛めつける為に作ったものではなことは確かだ。ちなみに屋内外の罠は、間違えて母様が引っかかって以来は外してある。
うー、うー、と唸りながら身を震わせていると「これは何でしょう?」とカタッと何かに触れる音がした。
「触らないでっ!」
思わず布団から顔だけ出して睨みつける。
部屋にいるのは母様の侍女の他に三人、先ず目に入ったのは背が高くて髪も長い女性だった。衣服や仕草、立ち位置からして彼女が最も立場が高い人間のようだ。そして彼女の母性の塊を頭に乗せているのは可愛らしい顔付きの少年、何故か女物の衣服を着込んでいるために一見するだけでは女性と見間違えてしまいそうだが、体付きと骨格が男性だった。それから自分の大事な工具に触れようとしているのは、小さい方の女性。馬の尻尾のように纏めた髪を揺らしながら驚きに目を見開いている。
そして、その片手には既に自分の命と同義、いや自分自身よりも価値のある特製の工具があった。
「あー、あーっ! あーっ!!」
「え、あ、いや……えっと……職業柄、気になって……」
「返せ! 私の返してっ!! 勝手に触らさないでよぉっ!!」
近くにあった頭程度の大きさのある人形を片手に取り、その背中から十個の指輪を抜き取った。
指輪には糸が付けられており、それぞれが人形と繋がっている。それぞれを指に付けると人形は生き物のように動き出した。そのまま十本の指を器用に動かして、小型人形を馬の尻尾の女性に飛び掛からせる。絡繰人形。なんとなしに嵌り、今ではもうこれしかないと思えるほどに人生を費やしてきた代物だ。
彼女の手から工具を奪い取って、それから流れるような動作で再び布団に丸まった。
護衛代わりに先程の人形を布団の前に立たせている。
「まあ可愛らしい人形ですね」
ゆったりとした声が聞こえる。先程、感じた落ち着いた声、足音で近付いてくるのが分かったから絡繰人形にシュッシュッと殴る仕草をさせて威嚇する。しかし、効果はあんまりなかったようで絡繰人形の頭を撫でられたのが糸越しに伝わった。
「男の子かしら? この子に名前はあります?」
絡繰人形が優しい手付きで頭を撫でられているを感じる。
こんな対応を取られては傷付ける訳にもいかず、ペチペチと優しく彼女の手を振り払う動作を人形にさせた。
それから、ふんっと不機嫌そうに彼女から顔を逸らす仕草を取らせる。
「あらあら、お気に召さなかったかしら?」
少し残念そうな声がした。そのことに申し訳なさを感じたが――でも、それは仕方ないことだった。この子は撫でられて嬉しいと感じるような性格をしていないのだ、そういう設定である。代わりに胸を張り、ドンと片手で叩かせた。
「……こ、この子はか、絡繰夏侯惇将軍……弐式。し、しし試作で作った小型絡繰人形……」
「からくり? かこうとん、将軍?」
「夏侯惇というのは今、頓丘県令を務める曹操の配下武将のことですね。巷では結構有名ですよ」
馬の尻尾の女性が横から口を挟んできたので、絡繰人形を操って威嚇するように拳の素振りを始めさせる。
「駄目、そうやってすぐ暴力で訴えるのは将軍のすることではありません。それに無闇矢鱈に威嚇していると小物に見えて仕方ないですよ」
そう嗜められて、少し不機嫌に思いながらも威嚇をやめさせる。代わりに腕を組んで仁王立ちさせた。
「劉表様の手にかかれば、将軍も形無しですね」
「あまり挑発しないで頂戴、それで夏侯惇っていうのはどういう人物なの?」
「最近になって名を上げた猛者ですね。曹操の逸話を相まって、その武勇が民間にも広まっているのですよ。まあ曹操の代わりに兵を率いることはあっても所詮は県令、とても将軍と呼べるものではありませんが……」
「夏侯惇将軍は……夏侯惇将軍、ですッ!」
ガバッと立ち上がりながら布団を両手で打ち上げた。
「夏侯惇将軍は弱きを助けて、強きを挫く正義の味方ですッ! 賊徒を相手にすると千切っては投げて、千切っては投げてを繰り返し、悪事を前にすれば悪即斬と斬り捨てるッ! 普段は曹操閣下に跪いて絶対の忠誠を誓う純白の騎士、巨剣を両手に巨悪を切り裂き、正義の道を切り開く……それはもう素晴らしい正義の味方!! 決め台詞は“またつまらぬものを切ってしまった”。武勇を誇らない素っ気ない態度が格好よくて素敵で惚れちゃう! 貴方の視線で私の心を鷲掴みィッ!! キャーッ!」
両手を顔で覆ったところで打ち上げた布団が頭上に落ちてきて、「ふぐっ!?」とそのまま寝台の上に丸まった。
「……あー、そっちですか」
「そっち、というのは?」
「民間伝承に伝わっている方の夏侯惇将軍ですね。夏侯惇は紙芝居といった創作の主役として扱われることも多いのですよ。それでまあ物語上の彼女――いや、彼の印象が大体、さっき彼女が言った通りです」
庶民の間では正規軍を率いていれば将軍ですし、と呆れ混じりに答える。
「曹操って女好きで有名だったわよね? 夏侯惇って男なの?」
「いえ、本人は女ですよ。ただ庶民の間では同性愛ってあんまり理解されないので、分かりやすく異性にしてあるだけだと思いますね」
「実在する人物の性別を変えるなんて、随分と思い切ったことをするわねえ。本人から怒られないのかしら?」
「夏侯家も古い家柄ですからね。たぶん怒ると思いますよ」
私が知らない世界だわ、と背が高い女性が呟いた。
自分だって現実と妄想の違いくらいは分かっている。でも現実なんて基本的に夢も希望もないんだから、妄想の中でだけでも夢や希望を見ても良いじゃないかって思うのだ。というよりも現実があまりにも辛いから妄想の世界に逃げるのだ。でもちょっと言い過ぎてしまった、張り切り過ぎてしまった。やってしまった、やらかしてしまった。いつもは舌が回らず、吃る癖にこういう時だけ、流暢に口が回るのだ。嗚呼、死にたい。恥ずかしいし、辛いし、申し訳なくて胸がぎゅうっと締め付けられる。ぎりりと胃が痛み出した。もう放っておいて欲しい、さっさと出て行ってくれないだろうか。これ以上は死にたくなる、もう死にた過ぎて死んでしまいそうだ。死にたいという想いだけで死ねてしまいそうだった。
うー、うー、と涙目になりながら呻いていると布団越しで誰かに頭を撫でられる。
「この人形、素晴らしいですよ」
唐突に優しい声で褒められてしまったものだから「ほ、ほほ、褒められても嬉しくなんてないやい!」と怒鳴り声を上げてしまった。
折角、褒めてくれたのになんてことを言ってしまったのだろうか。褒められて嬉しい気持ちもあり、でも気恥ずかしい気持ちもあり、こんな程度で褒められてもっていう気持ちがあり、もっと自分はできるのだと言ってみたい気持ちもあり、嗚呼もう死にたい、とっても死にたい! 悶え苦しんで死にそうだ、死んでしまいたい。殺して欲しい、拷問だ。神や仏に慈悲があるならば、今すぐに心臓麻痺でも起こして欲しかった。布団の中で気持ち悪い笑みがこぼれて、その度に死にたくなる。今、きっと自分は最高に気持ち悪いのだ!
もうこんなの自分は死ぬしかないじゃないか!!
「とりあえず、布団の中から出てきてくれないかしら?」
「死ねと、私に死ねと!? 死刑宣告ですか!?」
こんな気持ち悪い顔を晒せるはずがないじゃないか、外から布団を引っ張られるのを全身全霊で拒絶する。亀が甲羅に籠る時のように耐え忍ぶのだ。
「……劉表様、いっそ燃やしますか?」
そんな冷たい言葉と同時に、カッカッと石を鳴らす音を幻聴した。自分の被っていた布団に火を点けられた時のことが脳裏に思い返される。
「ひぅっ!」
本能的に布団を投げ出して、部屋の端っこに駆け寄って三角座りで縮こまる。
ガタガタと体が震えて、カチカチと奥歯が鳴った。自然と涙が込み上げてきたけども、体全身が恐怖に縛られて涙を拭うこともできない。両手で庇うように頭を抱えたまま、「もうやめてよ……お願いだよぉ……」と懇願する。それが通じる相手ではない、あの鬼畜は泣けば泣くほどに口の端を釣り上げて、くつくつと愉悦を込めて嘲笑うのだ。なにを言っても許してくれず、なにをしても止まることはない。あの鬼畜と顔を合わせるのが嫌過ぎて、屋外へと逃げ出したこともあって、洞窟の中に逃げて時は入り口で火を炊かれて、煙で燻り出された。何処にいても追ってくる、何処に逃げても見つけ出される。もう駄目だ、おしまいだ、と絶望が心を覆い尽くす。世界に神や仏に慈悲があるとするならば、どうして目の前の鬼畜が悠々と生きているのか理解できない。手が伸ばされる。今度はどんなことをされるのか、どんな嫌味を言われるのか。
目をギュッと閉じると柔らかく頭に手が乗せられた。
「大丈夫ですよ。意地悪なお姉さんは今、退治されているところです」
背の高い女性の後ろでは、女装した少年の手によって組み伏せられていた。その少年が何処となく申し訳なさそうな顔をしており、床に這い蹲った馬の尻尾の女性が不本意な顔をしているのを見て、これが演技であるということを見破る。
「そそそんな子供騙しでわわ、んっ……ぷ……わ、私が騙されると思って……ッ!!」
「大丈夫、貴方を虐める者はここにはいませんよ」
ぎゅうっと抱き締められた。母性を具現化した二つの塊を顔に押し付けられては押し黙る他になく、母様にはない柔らかい感触に心地よさを覚えた。ついでに良い匂いもする。抵抗する意思が削がれるようで、全身を脱力させて為すがままになった。
「……大きな胸って凶器ですよね」
馬の尻尾が何かを呟いたが聞こえないふりをして、その柔らかい感触を顔全体で堪能する。
そういえば母様が言っていた――胸は脂肪の塊に過ぎない、と。でも違ったのだ、胸には夢と浪漫が詰まっている。
それは現実世界における唯一残された希望のようにも思えた。
†
黄月英、つまり自分が豊満な果実に囚われてから
すっかりと戦意を消失してしまった自分は椅子に座らせられており、まるで尋問するように三方向から見つめられていた。ちなみに侍女はもう母屋の方へと戻ってしまったので今、この場に自分の味方はいなかった。
そんな自分の姿を見かねてか、真正面に座る胸の大きなお姉さんが困ったように溜息を零した。別に困らせようとしているわけではないんです、あうあうと口から情けない声が溢れるだけで言い訳一つもできやしない。嗚呼、もう死にたい。今すぐに死にたい。どうして生きているだけで、こんな辛い目に合わなきゃならないのかわからない。大丈夫なんて言われても全然大丈夫じゃなかった。死にたいからといって、今すぐに死ぬ勇気もないから辛いことが延々と続くのだ。どうして創作上の間者達が秘密を守るためにあっさりと自害できるのか理解できない。
喋ろうと思えば涙声、呼吸をするだけでも震えている。過呼吸で酸欠になりかける、それでも頭は嫌でも回り続けている。
胸に顔を埋めている間に自己紹介は終えている。
先ず目の前に座っている巨乳のお姉さんの名は劉表であり、寝台に陣取る馬の尻尾の女性は霍篤。そして下手な少女よりも可愛らしい顔をした少年は
思わず、じぃっと見つめていたせいか――撫子が不思議そうに首を傾げたので慌てて視線を逸らした。目の前には嫌でも意識してしまう巨乳があり、もう一方には怖いお姉さんである霍篤がいるので顔を向けることはできない。
必然、顔を俯けざる得なくなる。
「そ、そそそれでわた、わたっ、私、に、なななになになにをををを……!?」
「まずは落ち着きましょう」
はい深呼吸、と劉表に言われたので二人で大きく息を吸い込んで吐き出した。
なんだか、とても情けない気持ちになる。ここまでして貰わないと話一つもできやしない。やっぱり自分は欠陥人間で今すぐにでも死ぬべき人間だ。というよりも死にたい、さっさと死んでしまいたい。自己防衛なのかなんなのか、意思に反して、えへへ、ふひっと気持ち悪い笑い声が零れる。自分でも気持ち悪いと感じるのだから他者から見れば、より一層に気持ち悪いに違いなかった。
もう終わった、気持ち悪くてごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。来世はミミズでお願いします。
「えっと、その……本当に彼女で大丈夫なんですか?」
馬の尻尾が呆れたよな声に反応して、大丈夫なはずがない、と心の内側だけで叫んだ。声には出さない。だって霍篤とかいう奴は好きじゃない。話が合う気がしないし、おそらく性格的にも合わないはずだ。顔を合わせるだけでも劣等感で気持ち悪くなる。そもそも自分がこんな目に合っている原因は彼女達にあるのだから、さっさと帰って欲しかった。
「そんなことを言ってはいけませんよ」
それに比べると劉表はなんとなしに穏やかな雰囲気がある。
奴婢を抱えていることから、それなりに良い身分の人物のようだ。ただ彼女が身に纏っている装飾品を見る限り、
何気ない仕草や立ち振る舞いが様になっていることから察するに、ここ数年で襄陽にやってきた豪族辺りを推測している。商家はありえない、何故なら彼女には隙が多すぎるためだ。そういう意味では元官僚という線もない訳ではなさそうだ。洛陽の政争に敗れたか、巻き込まれたか――まあ彼女の気質から考えると巻き込まれたと考えるのが正しいはずだ。
劉表の従者と思われる霍篤が真面目なのも、きっと彼女には抜けているところが多いせいかと思われる。
「私達は劉巴様の紹介で貴方に会いに来ました」
「劉巴……先生……?」
聞いたことのある名前に思わず布団から顔を出して、周囲を確認する。良かった、火は点けられていないようだ。
「ええ、そうです。貴方ならば、きっと力になってくれると――」
「……あのど畜生でど鬼畜など腐れ先生が私になにを?」
「えっ?」
涙を流せば愉悦の笑みを零し、泣き叫べば嗜虐的な笑みを浮かべる彼女のことだ。
普段はお便りの一つも寄越さないくせに不気味すぎる。絶対、嫌がらせをするために自分に遣いを寄越したに違いない。今回、どんなことをさせられるのか、どんな嫌味を言われることになるのか。どんなお仕置きが待ち受けているのか。嗚呼、考えただけでも体が震えてくる。胸が苦しくなる、泣きそうになる。どうして皆、自分のことを放っておいてはくれないのか。自分はただ絡繰を弄り続けれさえすれば良いのだ。それなのに何故、皆して自分の邪魔ばかりをするのだろうか。
こんな人間なのだ、好かれるなんて思っていない。嫌われるってわかっているのに誰とも付き合いたくない、誰かと会話を続けるのはとても疲れるし、苦しくなる。だから誰とも話したくない。どうせ話が合うなんて思っちゃいないのだ、それに自分は自分から見ても変わっている。魅力的ではない、人間的に終わっている。周りに迷惑をかけることでしか生きていけない、同じ空気を吸っているだけでも申し訳なくなる。
来世があるならば貝になりたい。殻に篭って何も考えず、時間を無為に費やし続けて死にたかった。
「さっきの人形、凄かったわ」
急に話題が切り替わる。
言葉にしたのは劉表であった――がしかし、これは自分の興味を惹くために告げられた言葉であることはすぐに分かった。だから自分の心には届かない、響かない。むしろ警戒心を高める結果になるだけで、此処から如何様に話を持ってくるのか身構える。しかし劉表は自分から目を逸らした。その瞬間、意識に隙間が生じるのを感じる。そして劉表の視線の先に居たのは撫子、女の子よりも可愛らしい男の子だった。
主人からの視線を受けた撫子は頷き、答える。
「すごい」
……なんだろう、これはなんだろう。
「凄い」
馬の尻尾が揶揄うように言葉を重ねてきたので、咄嗟に絡繰人形を飛ばして殴りかからせた。
腕を振るった一動作、その時に動かした指は超絶技巧、幾度と行ってきた反復練習で体が覚えている。歩くのと同じように、箸を使うのと同じように、呼吸すると意識せずに行えるように、ただ殴るという意思のみを以て体が動くまでに感覚は昇華されている。突発的な行動に霍篤は無防備な頭を叩かれて、涙目になった。
周囲に気を張り続けるのは護衛の証であるが、しかし明らかに格下な自分を見て油断していたに違いない。そうでなければ此処まで綺麗に攻撃が入るとは思えない。やけに足音や布擦れの音が小さかったことや、特製の工具に興味を示していたことから間諜出身の可能性も考慮していたが――もし仮にそうであったならば、ここまで間抜けなはずがない。むしろ間諜としての素質がなかったから護衛をしているのだろうか。
まあとりあえず彼女の頭に人形を乗せて、カタカタと笑わせてみる。
うん、怖い。まるで呪われているかのようだ。
「……すごい」
目を輝かせて呟いた撫子の顔は日陰者の自分には眩しすぎて見ていられなかった。代わりに人形を操って、簡単な舞踏を披露してみせる。この程度は手馴れたもので見ていなくてもできる。というよりも指先に伝わる糸の感覚で、人形が今どのように動いているのか手に取るように分かった。最後には撫子の膝上に絡繰人形を座らせる。
「貴方はもっと自分に自信を持っていいですよ」
劉表が感心するように告げる。
いやはや、しかし簡単にできるとまでは言わないが、この程度のことは誰でも練習をすればできることだと思っている。自分には才能がない、才覚がない。底辺の人間、いや、欠陥人間であるからに底辺以下の存在だ。だからこそ自分にできることは誰でもできることだと思っている。絡繰仕掛けの人形だって、今まで誰もして来なかっただけで自分と同じように時間を費やせば、いずれ誰かが開発していたに違いない。自分は特別ではない、他と比べて欠陥がある。だから人並み以下の存在でなければ理屈が合わない。あのど腐れ先生も頭の出来は良いと言っていたが、あれはきっと自分を上げて落とす策略に違いないのだ!
しかし、すぐ隣には無邪気に輝かせた瞳が自分を照らしつけている。どうにか、あれを否定する材料を見出そうとするが、しかし勘違い以外の言葉で否定する材料が思いつかなかった。そして勘違いというのは、勘違いするだけの材料があったという事実の他ならない。そう感じたことは嘘偽りない彼の感性であり、自身すら自信を持てない自分が他者の感性を否定できるはずもなかった。
だから思考を閉じ込める、彼のような瞳にまで猜疑心を向ける自分はなんて愚かなのだろうと自身を貶める。
期待なんてしないで欲しい、感心なんてしないで欲しい。その輝かせた目を自分に向けないで欲しい、自分の欠陥を暴かれているかのようだ。こんなにも自分は惨めなんだって、突きつけられているように感じる。
吐きたくなる。慈悲があれば、さっさと部屋から出て行って欲しかった。
「……協力してくれたら常夏、つまり撫子を貸してあげても良いですよ」
えっ? と顔を上げると劉表が黙って頷き返した。
ゆっくりと隣に視線を向けると、絡繰人形を撫でながら驚きに目を見開いている撫子がいる。
そんな仕草も可愛い、と思いながら視線を劉表に戻すと、彼女は楽しそうに目を細めていた。
してやられた、と察するも既に時遅し。
「言葉通り、文字通り、なんでも好きにして良い。壊さない程度に、ですが」
それって、つまり、えっと……あんなことや、こんなことを!?
「その反応を見る限り、この条件で良さそうですね」
顔が熱くなっているのがわかる。そして撫子は困惑したまま、視線を自分と劉表で行き来させている。
「霍篤、私達の現状を説明をしてあげて」
「……はい、わかりました」
不機嫌そうに霍篤が承諾して、彼女達が置かれた状況についての説明を始める。それを耳にしながらも思考は何処ぞへ上の空、官能小説で蓄えてきた知識が駆け巡っていた。
「ちゃんと話を聞いています?」
「えっ、ふえっ!? ふひひ、ふへっ……」
状況が悪くなると愛想笑いをしてしまう癖は抜けない。気持ち悪い、そんな気色悪いところを撫子に見られていると思うと鬱になる。頭は回らず、思いついたことを片っ端から口に出した。
「とりあえず荘園の見取り図を……いや、やっぱり現場を見ないことにはなんとも……武器を扱った訓練もできないし、陣地構築するしか道はなさそうだし……えっと、それで接敵されたおしまいだから、その前に数を減らさないといけなくて……罠は此処に沢山あるから持っていけば……あと、投石用の石とか集められるよね? 河の石に手をつけてないっぽいし、手拭い程度もあれば簡単に……真っ直ぐに投げる程度なら三日もあれば……あと武器の調達は農具を加工すれば…………」
「待って、待って待って、ちょっと待ってください。霍篤、紙と筆はある!?」
「あ、はい! こちらに!」
「こ、こここんな思い付きを書き留められても意味はないから、ないです。……ああ、また余計なことを言った。生意気でごめんなさい、来世では人の手の届かない森の中にある木になりたい。でもやっぱり、周りを同族で囲まれるのは辛いのでやめます……」
「面倒くさいやつだなあ……」
「霍篤!」
「生きていてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい……うへへっ、ふひゅっ……」
「……常夏、どうにかできないかしら?」
「えっ? ええっと……がーんばれ、がーんばれ♪」
「自分よりも幼い子に応援される始末、辛い。死にたい。可愛い、今死んだら私、幸せなまま死ねると思うんです……」
ぎゅっと両手を握りしめながら真剣な顔で応援してくれる撫子を前に成仏したくなった。
こう幽霊が召されるように、すぅっと蒸発するような感じで。何故か劉表の手引きで撫子が自分の膝上に座ったので、とりあえず後ろから抱きしめておいた。良い洗剤を使っているのか髪の匂いも良かった。すんすんと鼻を鳴らしながら抱きしめること数秒、もしくは数分、冷静になった頭で今の状況を考えてみると――自分は今、かなり恥ずかしいことをしているのではないだろうか。ああもう穴があったら入りたい、そのまま墓穴として埋めて欲しい。そのために墓穴を掘る為の絡繰を作らなきゃ……
てんやわんや、なんやかんや、小型の絡繰人形を胸元に抱える撫子を自分が後ろから抱えたままでいると、気付いた時には馬車に載せられて出荷されていた。見送りに来てくれた母様は凄く良い笑顔をしていたことだけ覚えている。まるで身売りされる子供の気分、身内に裏切られるってこんな感じなんだなと漠然と思った。
馬車が揺れる度に自分が今、外に居ることを意識させられたが、その度に撫子を強く抱きしめることで現実逃避を繰り返した。抱き締められ慣れているのか撫子は大人しくて、むしろ何処か安心している顔で身を預けてくれている。終いには寝息まで立て始めるほどだ。ちょっと警戒心が足りていないのではないだろうか、この子の将来が少し不安になる。
ただまあ寝てくれていた方が気を遣う必要がなくなるので、そういう意味では都合が良かった。
・黄承彦:
母様。襄陽黄家の当主。
・劉表景升:?
母性の塊を胸に抱えるお姉様。
・霍篤:?
馬の尻尾。劉表の護衛。
・撫子:
劉表の奴婢、女の子よりも可愛い男の子。
・劉巴子初:
ど腐れ先生。
ps.
久々に筆の調子が戻ってきた感覚があります。勢いのままに、書きたいことがかけた気がする。
たぶんきっと、これは、私が個人的に愛読している「悪辣毒舌孔明ちゃんの姉、諸葛瑾子瑜ちゃん!」の更新があったからに違いありませんね!
「黒狼伝」も更新来てんじゃん、よし執筆頑張ります。
わんわんお!
psps.
からくり夏侯惇将軍。からくりサーカスのアレ。