儒家思想の持ち主、政争に巻き込まれて荊州に逃げ延びる。
・霍篤:
蒯越に仕える女性。今は蒯越の指示で劉表に仕えている。
・?:
仮の名は
・霍峻仲邈:
霍篤の妹、劉巴に仕える。
・黄月英:
黄承彦の娘。引き籠り。
荘園に戻ってから黄月英の働きは著しかった。
荘園の周辺地ずができる上がるまで期間、次に月英が取り掛かったのは陣地構築になる。
実力で自軍を大きく上回る相手を敵に回した時、素直に真正面から戦っているようでは万に一つの勝ち目もない、というのが月英の言だ。事実、
それでも百を超える賊徒を追い返せるという霍姉妹の武勇があれば、賊徒に勝つことは難しくないかもしれない。だが霍姉妹の武勇が個人技である以上は限界がある。精々同時に相手にできるのは三人が限度、姉妹二人を合わせても六人だ。そうなると単純に考えても二人の防衛網から漏れた残り五十四人の賊徒が荘園に襲いかかってくる計算になる。無論、霍姉妹も早々に賊徒の首を刎ね飛ばしてくれるだろうが、数的優位を得るにも最短で三十人だ。それまで椿達は奴婢だけで自らの数を上回る賊徒を防ぐ必要があった。
賊徒との戦闘に勝つだけでも、これだけの困難が待ち受けている。
「かか……か、勝つだけだと難しくありません……!」
劉巴から紹介された有望な知恵袋は頼り甲斐のあることを口にしてくれる。
その言葉に椿は満足したが、しかし月英の顔色は良くなかった。常夏を後ろから抱きしめる腕に力が込められる、それに常夏は苦しそうに唇を真一文字に結んだ。
月英は申し訳なさそうに視線を宙に漂わせており、ふへっと歪な愛想笑いを浮かべている。
「むむ、む、難しいのは戦略的目的のたっ達成……しょしょ……んぐっ、荘園を存続可能な範囲で戦いを終えることがむ、難しい……」
つまり月英が云うには荘園の被害を出さずに勝利することが難しいとのことだった。
奴婢は専業軍人ではない。彼らは荘園の労働力であり、奴婢の損失はそのまま荘園の生産力に影響を与える。そして椿の荘園に仕える奴婢の半数が三年以上も農業に従事してきた経験豊富な奴婢であるために替えは効かず、残りも荘園に仕えてから一年以上が過ぎている。失ったからといって、直ぐに補充が効く存在ではない。そして、まだ豪族と呼ぶには新米も良いところの椿に補充できるだけの財力もなかった。
頼りの資産は田畑に実っている作物のみ、換金前で持ち出すことは不可能。これを失うことは荘園の破産を意味している。
また田畑そのものを荒らされることは来期の収穫にも影響が出てくる。
「い、如何に被害を少なくして勝利するのか……これが大事、肝心……」
そこまで云うと月英は常夏の後頭部に顔を隠してしまった。
キョトンとした顔をする常夏と見つめ合った椿は溜息を零し、とりあえず牛車と納屋の解体を命じる。陣地構築をするために資材は必要であり、今から木材を調達しているようでは遅いためだ。田畑の収穫作業と並列しながらの陣地構築、ついでに近場の河で投石用の石の運搬、更には投石と最低限の武芸を仕込ませる。この辺りの運用は元官僚である椿の得意分野であり、事細かに
その途中、地図の作成から戻ってきた霍篤は、複製した地図に印を付けられたものを月英に手渡されて、風呂敷いっぱいに詰め込まれた罠を授けられる。そして今度は罠を設置するために山や森を駆け回ることになった。
そうしている内に、あっと言う間に二週間が過ぎる。
戦いの鼓動はもう目の前まで来ていた。
†
時は少し遡り、劉表達が荘園に辿り着いてから三日後の話になる。
人を使う事に長けた劉表の活躍もあり、必要最低限の準備が整いつつあった。とても万全とは言い難いが、今回は時間が足りない。あと数日でも準備に取り掛かるのが遅れていれば、自分達が戦場という舞台に立つ前に全てが決していた可能性もあった。その事を思えば、賊徒と対峙できるだけの準備を整えられただけでも僥倖と思うべきだ。
黄月英、真名は
どうしてこうなったのか、よくわからない。自分は何処までも落ちぶれた人間失格者であり、誰かに指示を出しても良いような人間ではない。ましてや、誰かの人間の命を背負って良いはずがないのだ。胸が苦しくなる、自分の発想一つ、意見一つが誰かの命を握っていると思うと胃が締め付けられるようだった。それでも何もしなければ、より多くの人間が死ぬ事になる。
吐いた、毎日のように吐いた。夜になれば、厠で延々と胃液を垂れ流し、昼間は屋敷の裏で吐き続ける。その傍に何時も居るのが
何時からか、気付けば彼に依存していた。少なくとも彼が一緒の時は外を出歩ける、相変わらず吐き気に苛まれることになるが、それでも取り乱す事をせずに済んだ。年下に頼るような駄目過ぎる自分に嫌気が指すが、しかし今一時、自分は倒れるわけにはいかなかった。吐いて、吐いて、吐き続けて、水以外のものを胃が受け付けなくなっても立ち続ける。幸いにも頭は回っている、それだけあれば他は無視しても構わない。
四日目の夜、何故か
それから添い寝してくれるようになり、たったそれだけで夜中に三時間も眠られるようになった。
一週間が過ぎた頃、陣地構築の進捗に遅れが生じている事を知る。
どうやら賊徒の足を止めるために作らせていた堀の進捗が著しくないようであり、上手く土を掘ることができていないようであった。実家から持ち出してきた万能農具の
この事態を前に月英こと菫は告げる――私がなんとかします、と。
菫には現場で働いた経験がない。故に頼れるのは数字のみであり、それ故に全てを計算でどうにかする他に術がない。そして菫は現実の辛さを知っており、自分の思い通りに事が進むなどとは最初から考えていなかった。絶対に何処かで齟齬が生じる、絶対に何処かで自分は失敗している。その自虐的な思考故に慢心できず、余裕も持てず、常に最悪と失敗を想定して生きている。
今、目の前にある問題も菫からすれば想定内、であればこそ対応する方策も考えてある。しかし、それは菫にとってはあまり使いたくない手だった。だからこそ、こういう事態が起きるのだと菫は諦める。彼女は自分の運の悪さをある意味で信頼している、それ故に動揺はない。常に最低、最悪であることは彼女にとっては当たり前なのだ。
自室に戻った撫子は人間大の絡繰人形から十個の指輪を取り出して、自らの指に付ける。
実家から持ち出した絡繰人形は一体、最も信頼ができる人形を連れてきた。
それは菫が最も信じる対象、そんなのは言うまでもなく決まっている。演義で最高に格好良くて、最高に強くて、最高に頼り甲斐のある存在だ。
それ故に菫は心の中で声高らかに叫びながら絡繰人形を駆動させた。
――助けて、夏侯惇将軍ッ!
その想いに応えるようにギギギと絡繰人形、いや絡繰夏侯惇将軍が動き出した。
糸繰りした結果、と言えば、それまでかも知れない。しかし人形に意思はなくとも自分の指示に応えてくれるのだ。自分が絡繰夏侯惇将軍を操っていることに優越感がある、歓喜がある。そして自分が最も夏侯惇将軍を扱えるという自負がある。人間大の大きさをした絡繰夏侯惇将軍の正式名称は“絡繰夏侯惇将軍・参式”、壱式と弐式は共に
とはいえ絡繰夏侯惇将軍は戦闘用として造られたものではない。何故ならば、菫にとって夏侯惇将軍は万能超人であるためだ。それ故に絡繰夏侯惇将軍は如何なる運用にも対応できるように汎用性を重視していた。扱える装備に制限はなく、だからこそ絡繰夏侯惇将軍の操縦は複雑を極めたが――そこは底尽きない愛で補填した。そして余りにも複雑過ぎる操縦系統故に扱える者は月英の他にいない。事実上、絡繰夏侯惇将軍は黄月英だけが扱える絡繰人形、即ち夏侯惇将軍は月英の他に誰にも仕えることがない。
その事が堪らない、だからこそ月英は胸を張るのだ。
――私が最も絡繰夏侯惇将軍を扱えるんだ!
両手に大型の円匙を携えて、いざ出陣。
外に出ようとすると無意識に体が震えてくる、胃液が込み上がってくる。大丈夫、と自らに言い聞かせる。何故ならば隣に夏侯惇将軍が居てくれている、そして傍には今も撫子が居てくれていた。だから大丈夫と震える声で自らに言い聞かせて、涙目で前を見据えた。歪んだ視界、それでも自分の成すべきことの為に白日の下に身を晒す。
何故、自分が此処まで頑張らなくてはならないのか――それは怖いからだ。このままでは皆が死ぬ、それを知っていて見過ごすことが怖かった。それに夏侯惇将軍は理不尽を許さない。弱きを助けて強きを挫く、そういう存在として絡繰夏侯惇将軍を菫が作ったのだ。だったら、今この時に動かなければ絡繰夏侯惇将軍は嘘になる。絡繰夏侯惇将軍は、夏侯惇将軍足り得ない。夏侯惇将軍は絡繰夏侯惇将軍なのだ!
……正直なところ、理由なんてなんでも良かった。
自分を奮い立たせる理由があれば、なんだって良かった。正義や理念なんて、なんでもいい、なんだって構わない。惨めで臆病で欠陥を抱えた人間ではあるし、何時だって死にたいと思うくらいに自分は自分のことが大嫌いだった。目の端から涙が溢れる、それでも歯を食いしばって堪える。ただ一歩、それが果てしなく重たい。たった一歩、それだけでどうしようもないほどに負担だった。変えたいと思っている、でも変えられない。もっとまともで居たかった。ちゃんと話をしてみたいし、自分の好き勝手に外を出歩いてもみたい。それでもだ、それでも駄目なのだ。生理的に受け付けない、体全身が拒絶する。魂が臆病風に吹かれている。吐きそうだ、吐いてしまいそうだ。今すぐにも逃げ出したい、布団に包まって何事もなかったかのように現実から逃避していたい。
でも、それでは何も変わらない。
この時、傍にいた撫子が囁いてきた。
もし仮に、これが激励だったとしたならば自分は今きっと、この場には立てていない。もうどうようもない程に逃げ出して、布団の中に丸まって出て来れなくなったはずだ。
しかし撫子は優しかった、それはもう頸動脈に刃を添える程に優しすぎる言葉だった。
――無理をしないで、後は私が頑張るから。
その時、彼が自分を見つめる瞳は心配だったのだと思った。
だが穿った自分には軽蔑と落胆が込められているように感じられたのだ。
歯を食いしばる、何度でも。
自分には価値がない。自覚している、だからこそだ。価値がないことに劣等感がある。
どうして自分には普通のことが普通にできないのか、これがよく分からない。
「私が、頑張る……!」
何故ならば――理由はなんだって良い! 私が夏侯惇将軍を最も上手く扱えるんだっ!
両手には指輪、夏侯惇将軍に大型の円匙を握らせて、身を震わせながら外に赴いた。
今から菫が行うのは陣地構築、自分で定めた場所に円匙の先端を地面に突き刺して持ち上げる。その土の量は菫の小柄な体では本来、持ち上げることは不可能な量であった。それもそのはずで絡繰夏侯惇将軍は数多の歯車を駆使した精密絡繰であり、その
時折、撫子分を補充しながら時期が来るまで菫は土を掘り進める。
精神は摩耗し、肉体は疲弊し続けても頭だけは何時迄も回り続けた。
あまりに回り過ぎる頭脳に、今では逆に独りでいることが不安になる。無論、誰かと一緒に居ても負担になる。
結局、決戦当日まで吐き続けることになり、味がある物を口にすることができなくなった。
†
何時もそこにあったものがなくなるというのは不思議と寂しい気持ちになるものだ。
黙っていれば、姉の霍篤と見た目の雰囲気は似てる。しかし性格は似ても似つかぬ彼女は、
どうして家庭教師の従者をやっているのか分からない。そのことで理由を問えば、「働きたい時に働いて、休みたい時に休めるから」という身も蓋もない答えが返ってきた。
劉巴もよく雇っているなあ、と思いはするが霍俊は首を振って答える。
「こんな条件で雇ってくれるのが劉巴だけだったからね」
彼女もまた地位や名誉に興味がない人物のようだ。
そのことがなんとなしに心地良い。この世に生まれたからには何かを成し遂げなければならない、というような暑苦しい理念も理解できない訳ではないが――しかし、やりたい事は人それぞれだと思うのだ。強い意志や信念がなくとも人間は生きていられる。短くても太く生きていくだけが人生ではない。それは確かに格好いいとは思うが、必ずしも全員にとっては魅力的なものではない。むしろ長く細く穏やかな人生を送りたいと考える者の方が世の中には多いのではないだろうか。
誰かに何かを強制されることもなく、過度な期待を受けることもせず、好き勝手とは言わないが気ままな人生を送っていたい。やりたいことをただ一つ、それだけで人生は充実すると思うのだ。無論、衣食住が確保されている前提ではあるが。
必要以上の責任は負いたくない、だから力を持つことを忌避している。
「とはいえ力を持たなくては駆逐されるだけってね」
嗚呼、嫌になる。
人間は本質的に闘争を求める生き物であると云うが、それは決して違うと自分は思っている。弱肉強食は自然界の掟であり、人間だからこそ適用されるものではない。人類は文明を築き上げることで大規模な集合体を構築した。これは人類が人間だからこそ成し遂げられた事であり、それでもなお闘争という本能に身を委ねることは自然界への帰化に他ならない。ただ他の獣よりも上手に闘争ができる獣だったというだけの話だ。
いくら礼節を重んじたとして、「こんにちは、死ね!」と隣人に殴りかかるのは蛮族のそれに他ならない。
「だからといって武力を持たないことは生存する意志を放棄することと同じ……」
自分はきっと闘争を忌避している。
だから自分から殴りかかろうとしないし、武力を振り翳す時も専守防衛に務めている。そういう意味で自分は事なかれ主義なのかもしれない、基本的に降りかかる火の粉以外には興味を持てないのだ。近場で火種になりそうなものがあれば、消火活動に勤しむこともあるが、戦争をなくす為の戦争、恒久的平和の為といった大義名分のために争いを起こしたいとは思わない。
それは必要なことなのかもしれない。しかし、闘争に身を投じることを感情が許してくれないのだ。
きっと自分は甘いと呼ばれる人種に違いない、そう言われることを否定するつもりはない。でもきっと平和というのは人類だけが成し遂げることができる世界なのだ。平和という環境は人類が見出した新たなる世界観、人類だけが築き上げることができる叡智の結晶なのだ。後世の歴史家が聞けば、こぞって批判してしまいそうな甘ったるい理想である、そんなことは分かっている。
それでも自分、
「私はこう思っている」
ふと霍俊が口を開いた。
「平和っていうのはね、全ての生物が望んだ理想郷なんだよ。この大地が生まれて、生存競争に揉まれながら誰もが戦いに明け暮れて、戦いに飽いてきた。そして願うんだ、闘争のない世界を、と。生物が誕生した時から誰もが安寧を望んできた。その積み重ねが何千年、何万年、もしかすると何億年という昔から続いて、親から子に魂を受け継ぎ受け継がれて今がある。闘争は全生物が持つ本能かもしれない。だからこそ全ての生物が望み続けてきた安寧、その根源的な願いを形にした世界が平和なんだと私は思っている」
だから、と彼女は手を差し伸べる。
「戦うべきなんだよ。私達は私達の守るべき何かの為に」
目を伏せる。そして、ゆっくりと開き直した。
結論は何時だって単純だ。自分には守りたいものがあって、それを誰かが奪おうとしている。
だから、戦う。それで良い、それだけで良い。
自分が戦うことに壮大な大義や名分なんていらないのだ、分不相応にも程がある。
椿は微笑み頷き返した。
「こんなところで死にたくはありませんからね」
戦おう、と改めて決意を固めた。