見上げると、夜空には月が浮かんでいた。
それは見事な満月。まるで物語のようなタイミングでのそれに、思わずクスリと笑ってしまう。
ほんの少しだけ腕を持ち上げて月に手を伸ばしてみるが、勿論届くわけがない。だからこの行動に意味なんてない。
そしてこの気持ちも、きっと届くことがないと私は知っている。
そう、まるで満月のように完璧なあの人には、きっとこの気持ちは届かない。
……違う、届かないじゃない。本当は、届けちゃいけないんだ。
それでも……意味なんてなかったとしても――。
「……月が、綺麗ですね」
――私は、手を伸ばした。
「夏目漱石が和訳したとされる告白の言葉として有名なものを、ご存知ですよね?」
「うん。『月が綺麗ですね』って奴だよね?」
「はい。かつて漱石が英語教師だったときにある生徒が『I love you』を『我君を愛す』と和訳した際に『日本人はそんなことを言わない。「月が綺麗ですね」とでも訳しておきなさい』とおっしゃったことが由来となっているそうです」
「少しだけ聞いたことはあるかな」
「ただこれは文献に残っている逸話ではないらしいので、創作の可能性が高いそうです」
「へぇ、そうなんだ」
レッスンルームの床に座ってスポーツドリンクを飲みつつそう相槌を返すと、俺の正面で女の子座りをしながらタブレットを手にした橘さんは少しだけ得意げに笑った。
毎度おなじみ346プロのレッスンルーム。今日は橘さんと文香ちゃんの二人のレッスンを見てあげていた。ハッキリと言うと、この二人がクローネメンバーの中では進みが遅いので、少しばかり重点的に見てあげることにしていた。まぁ最年少の橘さんと一番体力がないであろう文香ちゃんの二人だから、しょうがないと言えばしょうがないだろうが。
そして休憩がてら橘さんとお喋りをしていたのだが……どうやら橘さんはタブレットで色々なことを調べるのが好きらしい。普段からタブレットを常備しており、何か分からないことがあるとそれを使って調べていた。
彼女はそうやって得た知識を度々披露してくれる。中には俺にとって既知のものも含まれていたが……自信満々に話す彼女が可愛くて、思わず知らないふりをしてしまうこともしばしば。
ちなみに「『ふぁんしーあいらんど』という可愛らしいサイトがあると聞きました」と言い出したときは流石に止めた。橘さんに『検索してはいけない言葉』を吹き込んだ奴は誰だぁ!?
さて、そんな橘さんの今回の豆知識は文学系だったわけで、それならば純正文学少女であるところの文香ちゃんから何かしらの補足説明的なものを期待したいところなのだが……。
「文香ちゃん、大丈夫?」
「……はい……なんとか……」
この通り、まだバテているので会話に参加できる状態じゃなかった。
他のクローネメンバーが橘さんを含めて全員着実に体力を付けている中、どうにも文香ちゃんはずっとこんな調子である。いや、間違いなく体力は付き始めているのだが……みんなの体力が10から15になる一方で、彼女の場合は5から10って感じだからなぁ……上がり幅が同じでも、最初の体力が無さすぎた。
彼女の持ち歌である『Bright Blue』自体はゆったりとした曲調なので、ダンスも大人しくて今の彼女でもこなすことは簡単だろうが、
余談ではあるが、彼女と同じぐらいに体力が無かった志希には123プロの方でも別プログラムを用意して、文香ちゃんよりも遠慮なしに体力を
まぁそれはそれとして、もう少しだけ休憩させてあげることにしよう。
「それで橘さん」
「はい、なんでしょうか?」
「そんなことを調べるなんて……もしかして、好きな男の子でもいるの?」
「なっ!?」
というわけで、ちょっとだけ橘さん
俺が尋ねると、橘さんは顔を赤くしてワタワタとタブレットを取り落としそうになった。
「そそそ、そんなわけないじゃないですか! た、ただ気になっただけです!」
「学校のクラスメイトの男の子が気になった、と」
「そういう意味じゃありません!」
十二歳の年相応の少女らしい反応に思わずホッコリとする。
「つい先日、ドラマでそんなセリフがあったんです! ヒロインの主人公への告白のセリフがそれだったので……」
なんとも古風な告白の仕方である。
「文香ちゃんも、告白のときにそういうこと言いそうだよね?」
「……えっ」
今度は文香ちゃんが赤面する番である。
「なんとなく、文香ちゃんは直接『好きです』って言葉より『月が綺麗ですね』っていう表現を使うのが似合う気がするんだ」
「それは私も思います!」
ブンブンと勢いよく首を縦に振りながら同意を示す橘さん。
「……わ、私は……そんな……」
体を起こし、照れた様子で両手で顔を隠す姿が大変可愛らしい。
とはいえ、これだけ奥ゆかしい性格の彼女だから、実際に彼女から告白することは殆どなさそうだなぁ……。失礼かもしれないが、文香ちゃんは恋をしたとしても自分から告白することが出来ずに陰で涙を流すタイプのような気がする。
「……あれ、休憩中だった?」
さてそろそろ……と立ち上がろうとした矢先、レッスンルームの扉が開いて凛ちゃんが顔を出した。いつもの運動着姿なので、彼女もレッスンをしに来たのだろうか。
「うん。凛ちゃんもレッスン?」
「それもあるけど……良太郎さんに伝言」
「俺に?」
「お母さんから『幸太郎君から《いつもの花を注文したいんですけど母さんが【リョウ君に取りにいってもらうねー】って言ってたので帰りに良太郎が取りに行きます》って連絡があったんだけど《母さんは【でもリョウ君にはまだ伝えてないのー】って言ってたからまたこちらから連絡しておきます》とも言われたの。良太郎君が事務所にいるなら凛ちゃん伝えてあげて?』って言われて」
「括弧が多い」
日本語の使い方が不器用過ぎて逆に器用なことになってる。要するに、俺は帰りに凛ちゃんの家に寄っていつも通り花を買って帰ればいいってことだな。
「ついでだから、帰りは車で送っていこうか?」
元々橘さんや文香ちゃんも送っていくつもりだったし、寧ろ方向的には凛ちゃんの家の方が俺の家に近い。手間にはならないし、そちらの方が早いだろう。
「最初からそのつもり。だから私も今からだけどレッスンに交ぜてもらうね」
勿論俺はオッケーだし、橘さんもコクリと頷いた。
「とはいえ、まだ鷺沢さんの体力回復中だからもうちょっと待ってあげて。その間、凛ちゃんの理想の告白の言葉でも聞かせてもらおうかな。凛ちゃんは直球派? それとも変化球派?」
「……は?」
ここで赤面せずに冷たい目になる辺り、凛ちゃんもだいぶ手慣れたものである。スレてしまったとも言い換えることが出来るが……あの素直で可愛かった凛ちゃんを一体何が変えてしまったのだろうか。
とりあえず先ほどまでの流れをサラッと凛ちゃんに説明する。かくかくしかじか。
「というわけで改めて、凛ちゃんはどういう告白の言葉がいい?」
「……そんなの考えたことないよ」
「えー? 小さい頃は――」
お姫様ごっこに付き合って王子様役をやって欲しいとせがまれた……と続けようとしたら、俺が何を言おうとしたのかを察知したらしい凛ちゃんの右手でガッと口元を掴まれてしまった。顔を赤くしながら(それ以上話したら許さない……!)と目で語っていた。
頷きつつそのまま彼女の手のひらをクンカクンカしてたらバレてグーパンチと共に解放された。
「別に恥ずかしがるようなことじゃないと思うんだけどなー。ホラ、CMでも『女の子は小さい頃から王子様からのプロポーズを夢見ている』って言うじゃん」
「全員に当てはまるわけじゃないから! ……そ、そういう良太郎さんはどうなのさ?」
「俺?」
「理想のプロポーズ。男の人だって、あるんじゃないの?」
これは思わぬ返球である。果たして何処に需要があるのだろうかと思わないでもないが、橘さんはやや興味深げで、文香ちゃんもチラチラとこちらを見ていた。
「うーん、そうだなぁ……ここはやっぱり『毎日俺の為に――』」
「定番だね」
「『――キュートマフィンとパッションマフィンとクールマフィンを焼いてください』って」
「マフィン!?」
「いやだって、親愛度上げきってないSSRアイドルがまだ四十人も残ってるんだよ? 手持ちのギフトだけじゃどうにも足りなくて……」
「もう本当に意味が分かんないんだけど……」
とまぁ軽いボケはこの辺にしておいて……そうだなぁ。
「仮に俺に恋人が出来て、そしてこれからの人生を一緒に歩いてもらいたいって思ったら……そうだね。普通に『貴女を愛しています』って言うかな」
「……普通だね」
凛ちゃんと橘さんはやや拍子抜けしたような様子だった。文香ちゃんは……よく分からない。
「普通だよ。
「っ!? ……それって」
「そう……俺には結婚する予定が一切ないってこと! はい、休憩終わり! そろそろ文香ちゃんもいけるよね?」
「あ、はい……大丈夫です」
スポーツドリンクとタオルを置きながらヨッコラセと立ち上がる。
「秋の定例ライブまで時間もない。周藤良太郎がレッスンを見てあげる以上、半端なステージはして欲しくないかな?」
「……分かった」
「分かりました……」
凛ちゃんと橘さん、そして文香ちゃんも立ち上がる。休憩前と同じように、クローネの全体曲を中心に進めていくことにしよう。
それじゃあ、気合入れていきましょうか。
「………………」
・『月が綺麗ですね』
ここまで来ると逆に定番の告白台詞。
・『ふぁんしーあいらんど』
いわゆる『検索してはいけない言葉』の一種。
ホラー系のドッキリサイトでグロくないが……正直見ていると精神が不安定になってくる。
気になる人は某笑顔動画に実況動画が上がっているので、そちらで観ればまだマシ。
・『Bright Blue』
文香のソロ一曲目。既に二曲目の『銀河図書館』も出ており、そちらは『With Love』に収録されているぞ!
・『女の子は小さい頃から王子様からのプロポーズを夢見ている』
最近映画を観に行くたびに、このCMをスクリーンで見ている気がする。
・三色マフィン
いや、在庫はあるんだけど、これは『担当や推しが急に来た場合すぐに親愛度をMAXにする』用だから……。
・アイドルがマイクを置くときは、『普通』に戻るのがセオリー
某伝説のアイドル「普通の女の子に戻ります」
ちょっとだけ真面目な空気を醸し出しつつ、次回からは秋の定例ライブに入っていきます。
『どうでもいい小話』
そう言えば触れ忘れてましたが、志保の恒常SSR来ましたね。まさか恵美に引き続き連続で来るとは……なんか狙われたような気がする(被害妄想)
いつもだったらここで「お迎えしましたー!」と報告する流れですが……今回はまだ引けておりません。大人しくセレチケを待つか、最後にダメ押しするか……。
でもなぁ……水着ジャンヌも来るしなぁ……。