安らぎの水薬
気を鎮める効果がある。ともすればそれは、二度と目覚めぬ眠りに誘う毒となる
精神の安定は眠りと共にある
悪夢に囚われもがく事は、あるいは目覚めぬ現世の身の幸せなのかもしれない
闇の魔術に対する防衛術は歴史学に比肩する無価値な授業だった。防衛術に関しては、危険生物と呪いについての講義、そしてその対処法から成る。しかし、ビルゲンワースの蔵書はホグワーツで学べる程度の事は網羅されていた為、教授のたどたどしい説明を聞いたところで得るものはなかった。
アフリカのゾンビを駆除したからターバンを贈与されたという話をしていたが、ゾンビは西アフリカに存在する。西アフリカはサバナ気候であり、イスラム教徒でもなければ、ターバンを用いない。それだけで断定できるものではないが、具体的な顛末を他寮の生徒が問うと答えられなかったのだから、やはりその経験談は嘘なのだろう。
上位者の研究には、ゾンビ、グール、キョンシー、木乃伊といった、ヒトの肉体を加工する術からの取り組みもあった。
メンシスの悪夢では、頭が鴉で胴が犬、あるいはその逆の動物や、頭はヒトであり、身体が蜘蛛といった冒涜的試みがあった。あれは人の心を持ちながら、上位者となるための方法の1つとして研究されたのだろう。つまり、上位者の首を自身のものと挿げ替えようとしたのだ。
一学生、それも燐寸棒を針に変えることすらできない学生が知っている程度のゾンビの知識を語れないとは、何たる無能教師か。年間授業計画を聞くに、実践は無い様だったので、以後この授業は変身術の練習に充てることを決意した。
週末には魔法薬学の授業があった。
担当するスネイプ教授はスリザリンの寮監であるが、滅多に談話室に来ることもなく、大抵は研究室に籠っていた。先輩方の話によれば、スリザリンにとって素晴らしい協力者であり、教師として、大人として軽蔑すべき人間であるという。
初週の授業はこれが最後となり、引率の先輩方はこれで今年も遅刻者0名だと誇らしげに帰っていった。尤も、教室はスリザリン寮から近い地下牢の一室である為、これで迷うのであれば錯乱しているに違いない。
他寮もスリザリンに対抗したいのであれば、引率者を付ければ良いものを、真似をしたくないという幼稚な自尊心がそれをさせない様だ。既にグリフィンドールとハッフルパフは遅刻によりそれぞれ10点が減点されていた。
スネイプ教授は出席をとった後、魔法薬学を学ぶ意義を説明した。
「この授業では、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ。ここでは、大仰に杖を振り回したり、馬鹿々々しい呪文を唱えたりはしない。
沸々と沸く大釜、そこから立ち上る湯気。精緻な配合と順序によって、生み出される魔法薬。それが血管を這い巡り、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力。
我輩が諸君に教示するのは、名声を瓶詰にし、栄光を醸造し、死に蓋をする芸術である。
これらの美しさを満足に理解できる者がいるとは期待していないが、ほんの僅かでも脳を持っている者がいれば、この芸術の虜となるだろう」
思わず、拍手をしてしまった。周囲の視線が集まるが、知ったことではない。
「素晴らしい。素晴らしいですスネイプ教授。つまり、生まれ持った能力は関係なく、純粋に知性によって為される学問であると。なんと、人間的な美しさを持った学びでしょうか」
科学とは、「誰が行ってもそうなる」という法則を学ぶものだ。感情や偶然に因らず、また、持って生まれた性質に因ることもない。上位者やら悪夢やら、当事者であるのにも関わらず得体の知れないものに比べ、なんと明確な合理性だろうか。
人類は混沌とした自然を観察し、そこから法則を見出し、理解し、そして征服してきた。魔法族も非魔法族もヒトとしての根幹はそこにある。上位者からの借り物の魔力などに頼らない、生物としてのヒトの能力、知性によって成る学問の気高さよ。
「スリザリンに5点をやろう。君がその熱意を成績として残すことを期待しよう。ところで、ポッター。我らがスター。アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか」
スネイプ教授の視線が教室の奥に伸びた。それを追うと、ポッターが緊張と困惑とが入り混じった表情をしていた。それもそうだろう。一年生で行う内容ではないし、仮に分かっていたとしても唐突に問われれば答えに窮するのも仕方あるまい。その隣のグレンジャーが大きく手を挙げていたのには感心する。
たった2種の材料で同定は出来ないが、思いつく中で適切なものは生ける屍の水薬だろうか。問われたのはポッターであるので黙っていたが、ポッターは一向に困惑した顔をするのみだった。ここでウィーズリーであれば、「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えたもの」とでも答えそうなものだったが、スネイプ教授はその様な冗談を笑って受け容れる人間ではないだろう。
「どうやら有名なのは額だけで、その頭蓋の中はそう素晴らしいものではない様だな。では、チャンスをやろう。ベゾアール石を探すならば、どこから探すかね」
山羊の胃。推測をしなくても構わない、単なる知識を問うものであれば、教科書を眺めていれば分かることだ。これにはダフネも「山羊だか鹿の胃だっけ?」と小声で訊いてきたので「反芻動物ならどれでも取れるが、一般的には山羊」と答えた。
どうせ弄ばれるのだから、スネイプ教授の薬品庫とでも答えればいいものを、ポッターは教授を睨んでいるだけだった。
「分かりません」
談話室でマルフォイが吹聴しているので、ポッターはマグル育ちだと知っている。だが、グレンジャーは先程より大きく手を挙げていたし、他の生徒もうずうずとしているので、単に彼の努力不足だろう。
「そうかそうか。優秀な我らがスターは予習など不要と、そう思し召していらっしゃったということか。では、他の質問をしてよろしゅうございますか? モンクスフードとウルフスベーンの違いは何でしょうか?」
音を立ててグレンジャーが立ち上がる。グリフィンドール生は同じ寮の生徒が辱められているということに怒りを感じているようだったが、その怒りの片隅にはグレンジャーの態度もある様だった。ウィーズリーは非難がましい視線をグレンジャーに送っている。
グレンジャーにあるのは、寮への貢献と自己顕示欲の半々だろう。自分が回答することで獅子寮への得点を獲得できると考えているようだ。
「分かりませんが、ハーマイオニーが分かる様ですから、彼女に聞いてみてはいかがでしょうか」
グレンジャーにはポッターを貶めようとする意識はないだろう。だが、ポッターはそうとは思わなかったらしい。彼にとって、グレンジャーは自分の無知を嘲り、それを踏み台にして自分の得点にしたいと考えている性悪な女だろう。ポッターは教授への憎しみがこもった目のまま、グレンジャーを見て言った。
「座りたまえ」
教授は舌打ちをしてから言った。グレンジャーには目もくれなかった。
「さて、先ほどからおしゃべりに夢中な様だが、ミス・ボーン、答えたまえ」
「1生ける屍の水薬ないしはその解毒薬2山羊の胃3呼称。これでよろしいでしょうか」
「それぞれの意味を説明したまえ」
「生ける屍の水薬は睡眠薬。用法用量を誤れば二度と目覚めない程の眠りをもたらす、強力な睡眠作用があります。その様を、生ける屍と。
ベゾアール石は反芻動物の胃にある結石であり、魔力の有無に関わらず作用する万能の解毒剤です。
モンクスフードとウルフスベーン、それとアコナイトは同じもの。トリカブトを指します。ですが、教授は違いを述べる様仰ったので、違いは呼称ということになりましょうか」
「見事だ。君も兄同様、魔法薬学への適性がある様だ。今後に期待し、スリザリンに5点。だが、私語は慎む様に」
「ええ、その様に」
「諸君、何故ミス・ボーンの説明を記録しないのだ。それとポッター。勉学に対する不遜な態度によってグリフィンドールより1点減点」
そこかしこからガリガリと羊皮紙に書きつける音がした。ダフネは生ける屍の水薬とモンクスフードだけを書き込んでいた。
本日の実践は出来物を治す薬だった。教科書を読みながらであれば、初めて魔法薬を作る者であっても出来る程度の簡単なものだ。先程の問答は新入生が満足に答えられるものではなかったが、実践となれば適切な難易度を設定することから、スネイプ教授はやはりスリザリンに対しては甘いのだろうと察せられる。レイブンクローとハッフルパフであれば、手順を間違えれば文字通り爆死する様な調薬をさせたのだろう。この薬の作成手順を間違えたところで、逆の効能、つまり出来物が出来る程度の事でしかない。
素材には蛞蝓を用いるが、精霊たる蒼き蛞蝓ではない。いずれにしても、この薬を肌に塗りたいとは思わない。非魔法族の町に行けば、より衛生的で、肌にも良く、香りも良いものが手に入るのだから、作る為だけに作る薬になった。
ダフネとペアになって進めたが、どうにもダフネの手際に不安を感じる。手順は教科書通りで正しいのだが、動作がぎこちない。蛇の牙を砕く時も、せっかく厳密に計量してから乳鉢に放り込んでいるのに、何回もこぼしてしまっていた。見かねて手を出せば嫌がられ、仕方なしに黙って見ていれば手伝えとやかましい。自尊心も実利も望む、我儘なお嬢様である。
マルフォイはスネイプ教授に気に入られている様で、明らかに不出来な仕上がりであれば、優しく改善点を伝え、平凡な出来であれば称賛した。そのマルフォイのツノナメクジの茹で加減が絶妙であると、グルメリポーターの様な評価をしている時、グリフィンドールのテーブルから緑色の煙が生まれ、地下牢いっぱいに立ち込めた。火にかけられているはずの鍋は捻じり切った様な屑となり、噴き出した薬液はその作成者の肌を出来物だらけにした。その斑となった皮膚と肥満体型から記憶をたどれば、列車でペットの蛙を無くしたという男子生徒だった。名はロングボトルだったか。いや、ロングボルトだったか。痛みで泣き喚いている姿は、図体の割に高音で泣く蟇蛙を彷彿とさせる。耐えよ少年。亡者の吐瀉物を浴び、肉が腐りゆく痛みに比べれば、蚊の刺したようにも感じまい。
こぼれた薬液が床に広がり、周囲の生徒の靴に穴を開けた。
「熱い! 痛い!」
「ぎゃああああっ! 足がぁぁっ!」
「爪が、爪がなくなってる! 肉が溶けるぞこれ!」
過去の授業で床に染み込んだ成分を吸収したのか、より酷い薬品に性質を変えている様だった。教授が憤怒の形相で杖を振ると、薬液は消え去り、残るは悲鳴を上げる生徒だらけとなった。肉が溶けゆく足に触れれば、今度はその指が溶け始めるのだ。その様子を見て、女子生徒が嘔吐し、それにつられて別の者が嘔吐すると言う連鎖反応が起きた。
言葉を為さない悲鳴を上げながら悶え、嘔吐する様は人のそれではない。獣の病とはよく言ったものだ。惨劇に心を病み、そしてその痛みによって自らも獣となり、惨劇は拡大する。
「ダフネ、鍋に吐くなよ? あの連中の様に顔が無くなるぞ。せっかく綺麗な顔なのだから、大事にするんだ」
「吐かないわよ。淑女の意地があるもの。でも、次の休暇になったらこの記憶を消すわ」
「おや、褒めたのに反応がないとは淋しいな」
「この惨状で口説かれたって嬉しくないし、顔が良いなんて言われ慣れてるから。お願い、口を開かせないで。気を抜いたら吐くわ」
「ふむ。吐瀉物まで値段が付きそうな美しい顔、というのはどうかな」
「……努めて和やかに申し上げますけど、可及的速やかに死ね変態」
「淑女がはしたない言葉を使うものではないぞ」
ダフネが無言で殴ってきたので、仕方なしに安らぎの水薬を与えてやる。まさかこの程度で発狂し、獣に変態することはないだろうが、友人の尊厳の危機を坐して眺めることは寝覚めが悪い。
ビルゲンワースの鎮静剤でも良かったが、一般的な魔法薬を投与することにした。先程の視線だけで射殺す様な表情から、平常のたおやかな乙女のそれになった。
「ミス・ボーン。無傷の者の内、動揺している者にそれを与えたまえ。消費した分の材料は都合してやろう」
「スリザリンに加点もお願い申し上げます」
「スリザリンに15点! 見事な調薬とその冷静な態度と強かさにだ! 少しでも薬品の掛かった物は医務室に連れていくので手を挙げよ! 残った者は何故この惨事が起きたかレポートをまとめ、次週提出する様に!」
「恐悦至極。さぁ、飲みたい者はこちらに並べ。そこのグリフィンドール生、飲めとは言わないが、淑女の尊厳を失いたくなければ飲んだ方がいいんじゃないか」
東洋系の整った顔立ちの生徒が蒼ざめた顔で肯き、列に加わった。
「おい、騙されるな! あいつはスリザリンだぞ!」
「なんだウィーズリー。貴公にこの場をどうにかする術があるなら、是非ともご助力頂きたい。なければさっさと荷物をまとめて教室を出ることだな。さもなくば、私が叩き出すぞ。
――さぁ、あーん、だ。あーん、するんだ。大量に摂取すれば眠ってしまうからな」
合同授業でウィーズリーの頭の出来は見ていたつもりだったが、その予想の遥か下を行く、驚く程の馬鹿であった。
「スリザリンの出す薬なんか信用できるか。飲んだらもっと酷いことをさせるつもりだろう!」
「そんなに生徒の苦しむ様を見たいのか? それとも、この中に貴公の想い人でもいるのか? だとすれば随分と歪んだ情欲だな」
「マリア、これは上級魔法薬ね。同じ1年生なのに凄いわ。魔法薬でも負けてしまうなんて、ちょっとショックね。そうそう、さっきのネビルの失敗だけど、多分ヤマアラシの針を入れるタイミングが原因よね? 確か安らぎの水薬もヤマアラシの針を使ったはずだけど、タイミングを誤れば同じ事が起きるのかしら。それに――」
「グレンジャー、後にしてくれ。君の後ろに何人も並んでいるんだ」
「あら失礼。けど、私だってスプーン一杯を飲ませる事くらい出来るわ」
「そうか、ならそこの赤い駄犬よりは役に立つところを見せてくれ。それとダフネ、落ち着いたなら貴公も手伝って……いや、やはりいい。貴公は自身が考えているより不器用だ。飲ませすぎたり、口からこぼしたりしそうだ」
「私がポタージュスープをこぼすとでも言いたいの?」
「無きにしも非ず、かな」
「失礼ね。それこそ淑女の尊厳に関わるわ」
長い一週間だった。
自身が重点的に受けるべき授業と、やはりホグワーツの授業は新入生に対する殺意を剥き出しにしていることを理解できた上、25点も獲得したのだ。得たものは大きい。
ダフネは失った淑女の尊厳を取り戻す為、魔法薬学に力を注ぐ決意を固めていた。その意志に敬意を払い、スープを飲む時に凝視するのは止めてあげようと思った。女たるもの、努力とは白鳥の様に。必死なところを見せてはならないのだ。
スネイプ教授の大演説、当時小学生だった私でもすっげぇ!って興奮したんですよね。
杖振るわないってことは、単なる漢方薬調剤じゃん!
機械化出来るよこれ!大量生産できるよこれ!
マグル生まれも活躍できる凄い分野だこれ!先生は最悪だけど!
と。
スネイプ教授の無茶な質問に対しても、ハリーの気持ちになって全力で苛立ってましたね。
読んだ時の歳で感想が変わる。それ自体は珍しくないと思うんですよ。少年の日の思い出とか、山月記とか。
けれど、感想が変わる程、歳が変わっても読み返そうと思える物語ってあんまりないと思うんですよ。
ハリー・ポッターってやっぱ名作だと思うんですよ。