戦艦長門のすぐ側まで叢雲は近づくと、わりと乱暴に停船する。引き波が立つが、船体の大きさの違いからか、冷泉達はほとんど揺れを感じることがなかった。
車椅子を長門に押されながら甲板に出た冷泉は、駆逐艦へと叫ぶ。
「叢雲、聞こえるか? すぐにそちらに転送してくれ」
「……了解」
少し間があったが、船外スピーカーから叢雲の声が聞こえた。どういうわけか、彼女の声には元気が無いように感じられた。どうしたんだろう? そんなことを一瞬、冷泉は思ったが、今はそんなことを聞いている時間は無い。すぐにでもこの海域から離れなければならないのだから。
「叢雲、いつも迷惑かけて、ごめんな。早速頼むよ」
そう言うと、艦橋にかすかに見える叢雲らしき姿に向けて冷泉は手を振った。
「ふん! じゃあ、……転送を始めるわよ」
「了解した。長門、行こうか」
「転送開始」
叢雲の声に合わせ、ふわりとした感覚が冷泉を包んでいく。
そして、続いて着地したような感覚があり、次の瞬間に彼の体は戦艦長門を離れ、駆逐艦叢雲の甲板にいたのだった。
「ふう。よし、後はこの海域を離れるだけだ……な」
そう言って冷泉は車椅子を押してくれていた長門に声をかける。しかし、背後からは何の反応もない。それどころか、先程まで感じていたはずの人の気配が消えている事に気づいた。冷泉は、後ろを振り返れないので、慌てて電動車椅子の操作レバーを動かして方向転換すると、後ろを見る。
しかし、冷泉の背後には誰もおらず、十数メートル以上離れた場所の戦艦の甲板の上に立つ長門の姿があった。
「な! どうしたんだ、長門。早くしないと敵が近づい来るんだぞ。お前、何でそこにいるんだよ」
「……」
彼女は冷泉の問いかけに答えることなく、ただ、こちらを見ているだけだ。
「どうした? 艦内に何か忘れた物でもあるのか? 」
状況から考えて、あり得ないはずの事を思わず問いかける冷泉。それを聞いて長門は少し笑ったように見えた。
「申し訳ない、提督。せっかく、あなたにお誘いいただいたというのに、やはり、私には無理なようだ」
そして、頭を深々と下げる。
「私を艦娘として、そして一人の女として私を受け入れてくれようとしてくれたあなたに、今生の最後の時に出会えた事をとても嬉しく思う。……けれど、やはり、私はあなたのところへは行けないのです。残念ですが、私は戦艦長門としての最後を迎えることに決めました。本当に、ごめんなさい。自分の定められた運命には、やはり逆らう事ができないようです。女として、貴方の優しさに甘えたいけれど、所詮それは儚い夢、私にはそんな事、許されないのです。……けれど、ありがとう。もしも、……もしも今度、生まれ変わることができたなら、願わくばあなたの鎮守府に配転されたいですね」
そう言って寂しそうな笑顔を見せた。そして、冷泉に背を向けるとそのまま艦橋へと戻っていこうとする。
「待てよ、長門! お前、どこに行こうとしているんだ。何をしようとしている? 」
冷泉は叫ぶ。その声には苛立ちと怒りが含まれている。
彼はここに来てやっと気づかされたのだ。長門が冷泉の説得に応じ、彼の元へついて行くような事を言ったのは、彼女の本心なのでは無く、あまりにもしつこい彼を追い払うための方便であることに思い至ったのだ。……確かにそうでも言わなければ、冷泉は長門が彼の申し出に同意するまでは、絶対に離れずにずっと一緒にいるつもりだったからだ。
そこで彼女は考えた。適当な嘘で冷泉を騙して、彼を自艦から追い払うことができれば、車椅子の冷泉にはどうすることもできないはず。さらに敵艦が接近中の現状であれば、まさに好機である。もはや、叢雲さえもどうすることもできない。なぜなら彼女は提督の身の安全を最優先し、例え冷泉が命じたとしても、長門を置いてこの海域から待避するだろうから。
急激に沸き上がった怒りが冷泉の体を震わせる。とにかく、彼は転がり周りたいほどに猛烈に腹が立っていた。長門に嘘をつかれた事に対する怒りではなく、彼女が当然のように死を受け入れようとしている事に対してだ。
「待てよ、勝手に何をしようとしている。くっ……そんなの、絶対に許さないぞ。なぜ、お前が死ななければならないんだ。お前は今も生きているじゃないか。そして、お前は本当は生きたいと願っているんだろう? 生きたいと思っているんだったら、お前は生きるべきだ。いや、生きなくちゃならない。船体が無くたって、そんなの関係ないだろう。そんなことで今のお前に居場所がないっていうのなら、そんなもの俺が作ってやる。そんなものいくらでも準備してやるから。それにお前が役に立つか立たないかなんて、俺が決めてやる。俺が必要としているんだから必要なんだ。だから、逝くな……。何も考えずに俺の所に来い! 」
唯一動かせる右腕を彼女の方へと必死に差し伸ばす冷泉。
「……あなたと私は、出会うのが遅すぎたのです。それはとてもとても、……残念です。けれど、それらも含めてこれは私の運命なのでしょう。今更そのことを嘆いても仕方ありませんし、後悔などはしていません。思えば、今生の私は、最後の最後まで本当に幸せなままいられました。あなたは否定されるでしょうが、本当に私は何一つ思い残すことなどないのです。それだけ幸せなのです……幸せだったのです。けれど、私の事をそんなに思ってくださりありがとう、提督。……そして、さようならです」
「駄目だ駄目だ。最後の最後で何を訳の分からない事を言っているんだよ。お前、俺と約束しただろう? 死ぬなんてそんなことは認めない。俺は絶対に認めないぞ。お前一人を死なせるなんて、できるわけないだろう」
「……その気持ちだけで嬉しいです。それが私の救いになるでしょう」
感情がこみ上げてきたのか、彼女は言葉を詰まらせる。
「けれど、……けれど、ここまでです。私は、あなたの元へは行けません。行けないのです。私に情けをかけてくださった事は嬉しく思いますが、やはり、その優しさに甘えてはいけないのです。私があなたのいる舞鶴に行けば、きっと提督にご迷惑をおかけします。私は死ぬまで横須賀鎮守府所属の艦娘なのです。そんな私が何の根回しもなくあなたの下へと行ったとしたら、それは大きな問題を生むことになるでしょう。それは間違いなく大きなトラブルへと発展するでしょうし、そうならずとも、必ず提督の今後の障害となるに違いないのです。私はそんなのは嫌なのです。誰かに迷惑をかけてまで生きながらえて、なんとするのですか」
「そんな事、気にするな。俺が俺の意志でお前を連れ出したんだ。俺がお前に来いと命じたんだ。すべての責めは俺にある。だから、お前は何も悩まなくていいんだ。ただ、俺の所に来れば良いんだ。それ以外のありとあらゆる面倒事は、全部俺に任せればいい。お前は何も心配しなくていい」
「口だけではなんとでも言えます。今はそう言って頂いても、この先訪れるであろう問題事を前にして、きっとあなたは後悔するはずです。私は最早戦艦ではない。ただの艦娘でしかない。戦闘には使えないのに問題事だけは一人前以上だ。そんなのを引き取る覚悟が本当におありなのですか? あなたにとって何のメリットももたらさない私を、この先起こるであろう様々なマイナス部分を含めて受け入れる覚悟が! 」
「お前の言いたいことは分かった。けど、俺は諦めないぞ。お前が言う覚悟ならいつでも決めている。そんなくだらないことで何を思い悩んでいるんだ。俺はいつでもそんなトラブルなんて吹き飛ばしてお前を護ってやるさ。俺の覚悟を疑っているっていうのか? 俺はお前を護るためだったら何だってするんだ。とはいえ、言葉だけでは信じられないよなあ。……だったら、俺の覚悟を見せてやるよ。……こうだ」
冷泉は電動車椅子のギアを入れ、前進させる。するすると車椅子は進み出す。タラップも何もない、虚空に向けて……。
車椅子毎落下していく自分の司令官の姿を見、丁度、迎えに甲板に出てきた叢雲が悲鳴を上げる。
長門も何かを叫んでいるようだったが、その言葉は冷泉には聞き取れなかった。
冷泉は甲板からそのまま海へと車椅子ごと転落していった。
海へと墜ちる。顔面から海面に叩きつけられ、その衝撃で一瞬、意識が飛びそうになる。駆逐艦の甲板から海面との高低差は結構あったようだ。本気でかなり痛かった。でも意識を失わず持ちこたえた。……けれど、意識が跳んだほうが良かったかもしれない。
領域解放ただ中の海は、まだ領域という深海棲艦の支配影響が残っていたようで、どす黒いヌメヌメしたものが、生き物のように漂っている、人間の感覚を刺激する異様に汚れた海だったのだ。
右腕しか動かない状態ではまともに泳げるはずもなく、体はどんどん沈んでいく。
おまけに汚れた海水が容赦なく口や鼻の穴から入り込んできて、激しくむせて更に海水を飲んでしまう。苦くて染みるような焼けるような感覚が口の中に広がる。
溺れないように動かせる右腕を必死に動かしてもがくが、体は浮上することなく、沈んでいくしかない……。
冷泉は自分の想像通りに行かなかった事への焦りで、更にパニックに陥った。冷静に考えればあまりにも愚かなことなのだが。一か八か、自分を死地に追い込めば、この機能停止した体が火事場の馬鹿力的な作用を起こして動く……なんてことを勝手に推測していたのだ。
絶体絶命の窮地に陥り、主人公、完全復活!
そんな映画のような展開を、割と本気で身勝手ながらも考えていたのだった。
この世界に来てから、何度も大怪我を負いながら、前の世界ではあり得ないレベルの回復力で回復していた自分だ。今回もよく分からない加護の力で復活するんじゃないかな? と思っていた。
けれど、現実はこんな時に甘くは無かった。やっぱり最後の最後で現実の厳しさを思い知らされてしまうのか。
意識が勝手に走馬燈のような風景を描き出す。わりと恵まれた世界だったのに……。可愛い女の子にモテモテだったり、艦隊司令官なんて前の世界では考えられないような高い地位を与えられ、みんなにちやほやされながら偉そうな事を言ってていたけど、結局は最後の最後で帳尻あわせをされてしまったか……。まあ、仕方ないか。
そんな事を考えているが、それは現実逃避でしかなかった。再び息苦しさで現実に引き戻される。
濁った視界で見える海底は、タールがへばりついたようにどす黒いように見える。ゆっくりとそれが生き物のように退いていっているのが見える。まるで生き物のようだ……。このまま海底に沈んでいったら、あの得体の知れないものに取り込まれてしまう。そう思うと、恐怖すら感じた。
必死で右手で水をかき、体を上に向けると遙か上方に太陽の光を浴びた海面が見えた。おそらく距離にして数メートルだろうが、今の冷泉では決して届くことのない高みだ。
冷泉は息が続かなくなりむせて、更に大量の海水を飲み込み、再びむせる。
ダメだ……。溺死なんて最悪だ。
けれど、足掻いてもどうしようもない事は理解したくないのに理解できてしまう。
死ぬのかな。……現実が目の前に立ちはだかる。
何も護れず、何も救う事もできないまま死んでいくというのか? それはしたくない。認められない。自分が死ぬのは、百歩譲って仕方ないのかもしれない。けれど、今なそうとしていること。舞鶴の艦娘達を守ることを途中で投げ出して、死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だ。
だから、冷泉は必死に足掻こうとする。動かない体を必死に動かそうとする。なんとしても生き延びなければいけない。俺は長門を救いだし、鎮守府に帰るんだ。鎮守府でみんなが俺の帰りを待っているんだ。彼女達を護ると約束したんだ。だから、絶対に成し遂げる。
動け、動いてくれ! 冷泉は必死に叫ぶ。
かすかな意識の中で再び上を見ると、ぼんやりとした視界の中、何かが近づいて来るのが見えた。黒く長い髪をたなびかせながら、それはゆっくりと近づいて来る。
その丸みを帯びたフォルムから女性であることは分かった。その姿はまるで人魚のようだった。
だめだ、幻覚が見えるようになっている。
天使が迎えに来たのかな?
薄れゆく意識の中で、冷泉は思った。