瞬間、その光景が脳裏に浮かび……現実とは思いたくないがあまりにリアルな記憶を突きつけられ、扶桑は思わず悲鳴を上げてしまう。
猛烈な目眩と頭痛。吐き気を感じ、平衡感覚の喪失が襲ってくる。視野が瞬間的に暗転し、まともに立っていることができず、蹌踉めいてしまう。
「大丈夫ですか! 」
倒れそうになる彼女を永末がとっさに支えようとする。扶桑も必死で彼の体にしがみついてしまう。しかし、左足が不自由となった彼では扶桑の体を支えきれずに二人とも床へと倒れ込んでいく。
彼を下敷きにして倒れ込みそうになるため、扶桑は必死で両腕を突き出してそれを避けようとする。ドンという音とともに、二人の体に衝撃が走る。その時、何故かチクリとした痛みが腕に走ったように感じた。
「だ、大丈夫ですか? 」
どうやら永末にはそれほどのダメージはないようで、むしろ扶桑を気遣うような言葉をかけてくる。
「は、はい……。だ、大丈夫です」
自分が男性の体に密着するような状況になっていることを認識し、慌てて飛び退く扶桑。転倒した際に腕を捻ったような僅かな鈍痛が残っているが、大したことはないはずだ。
男性の体に触れてしまったせいで少し動揺したためか、妙に動悸がする……。
立ち上がった扶桑は、左足が不自由な為か起きあがりにくそうにしている彼に手を差し伸べる。
「すみませんね。こんな私でも、さすがにあなたのような女性なら、簡単に支えられると思ったんですが、……私にはそんな運動能力さえ残されていないようです」
何か嫌なことを思い出したのか、苦々しげに語る彼の眉間に深い皺が寄る。
「ど……どうなさったのですか? 」
何故か聞いてはならないことのように思うが、つい口に出してしまう。
永末は扶桑を少しの間ではあるが真剣な眼差しで見つめ、少し悩んだような表情を浮かべていたが、やがて何かを決心したように語り始めるのだった。
「扶桑さん、あなたは知らない……いや、覚えていないのでしょうね。……緒沢提督が、何の落ち度もないのに、国家に巣くう何者かの陰謀により無実の罪を着せられて処断された事を。それは、はじめは恐らく、誹謗中傷レベルのものから始まっていき、人々を疑心暗鬼させ、やがて陰謀へと変化させていったのでしょう。それに引っかかったか、……もしかしたら、憲兵隊もグルだったかもしれませんが、動いた。……当然、鎮守府司令官の咎です。一人だけで行っているとは思われないでしょう。幾人もの仲間が憲兵隊の取り調べを受けることになりました。けれど、私達は提督が何の罪で処断されたかさえ知らぬまま、奴らの取り調べを受けることになったのです。そして、私達の証言が無実の提督を有罪としたのです。当然、奴らの捜査がミスだったと認めるはずがありません。その証拠を得るために提督に近かった者への想像を絶する取り調べが行われたのです。彼らの意向に沿わない態度をする者には苛烈な取り調べが行われました。非人道的な事がね。……その結果、私の体はこんなになってしまいました。さまざまな誘導や取引が持ち出され、飴と鞭を使い分けた尋問が行われました。……けれど、私は提督を信じていましたし、そもそも彼が何の罪を犯したのかさえ想像も出来なかったのですから、答えようもありません。私は、彼らが言うありもしない事を認めることは私にはできなかった。それは、絶対に。そして、他の者の尋問結果で確証を得られたのでしょう。私は用無しということで放逐されたのです」
そう言いながら、彼はおもむろに服を脱ぐと、その体に刻まれた無数の深い傷跡を見せた。深くえぐられるような傷がいくつもあり、どれほどの拷問が彼に対して行われたのか、それを思うと扶桑は言葉が出なかった。
人は時として信じられないほど残酷になれる……。それを目の当たりにしたような感覚だ。
「いきなりこんな話を持ち出されてもすぐに信じることができないのは当然です。けれど、この傷を見て下さい。すべては現実に起こった事なのです。そして、緒沢提督が無実の罪で処断されたことを 」
真剣な眼差しで扶桑を見つめてくる永末。
彼の体に刻み込まれた傷。彼の真剣な表情と物言い。そして、自分の中にある僅かな記憶。それらすべてを総合的に判断すれば、何が正しいのかは推測できてしまう。それは、扶桑本人がずっと疑問に感じていた事への解答であるはずだった。彼女がずっと求めていた正解のはずである。
けれど、何故かそれを認めたくない自分がいたのだ。
それが彼女を困惑させていた。
「どうかされたのですか、扶桑さん」
心配そうに問いかけてくる永末。
「いえ……あまりに急な事だったので、混乱しているのかもしれません。何が真実で何が嘘なのかが、記憶が混乱している今の私では整理し切れていないのです」
「それはもちろんです。記憶操作の影響力を考えればそうなるのが当然でしょう。……一気に話を進めようとした私に問題があったのです。けれど、残された時間が余りなかったので、直接お会いしてお話するしかなかったのです。本当ならば、もう少しゆっくりと時間をかけてご説明すれば良かったのですが」
「それはどういう事でしょうか? 」
「最近の舞鶴鎮守府の動向があまりに目まぐるしいのは、外にいる我々にも伝わってきています。どうやら、緒沢提督を排除した勢力が活発に動いているようです。このままではあなた達にまで何らかの処置が為されるかもしれないと感じたのです」
永末の言うように、最近の舞鶴の動きは目まぐるしすぎると感じていた。新しい艦娘の着任や計画があることは扶桑にも伝わってきている。これほどの増員計画はかつて記憶に無い事だったが、冷泉提督には何か考えがあると思っていたのだ。……否、そう思おうとしていた。
「冷泉提督の背後にいる連中は、舞鶴に新しい艦娘を入れ、かつての緒沢提督を知る艦娘を各地の鎮守府へ異動させようとしているという情報も入ってきています。最近の目まぐるしい人事がその証拠です。記憶操作をしたとはいえ、緒沢提督の記憶があるかもしれない艦娘たちを同じ所に集めていることは彼らにとっても不味いことなのでしょう。舞鶴鎮守府には私達以外にも緒沢提督の世話になった兵士達がたくさんいますからね。彼らが何らかのきっかけで暴発した際にあなた達がいたら、共闘する可能性を考慮して、危険だと判断したのかもしれません」
「そんな……。いくらなんでもクーデターなんて起こすはずがありません。それに、冷泉提督は私達をどこかに異動させるような事をする人には見えません。あの方は、何を差し置いても私達の事を考えて下さる人なのです」
「何を仰っているのですか? 冷泉提督は敵勢力が配置した人物なのですよ。彼らの意志をすべて知った上で、彼らが行った違法行為をすべて承知の上で、司令官の役職に就任させてもらった男だ。彼らの意向を無視できる立場であるはずがありません。あなた達の味方のような態度を取っているかも知れませんが、それはうわべだけの物だと思っておいたほうがいいと思います。あなたが冷泉提督に対してどういった感情をお持ちかどうかは、……正直、私にはわかりません。けれど、再考していただけませんか。その感情はあなたの本心なのか……と。彼への好意はもしかしたら、操作された物ではないかと疑って下さい」
「そ、そんな」
その言葉は扶桑の心を抉るような衝撃を与えた。しかし、彼の言葉に反論できる材料を持っていない……。
「こんな厳しいことを言うのは本意ではありません。けれど、一度冷静に全てを精査してみてください。どこかに綻びを感じたらそれを徹底的に追求して下さい。そうすれば、何かが、……真実が見えてくるかもしれません。それが真実にたどり着く唯一の方法だと私は考えます」
永末が語る言葉は全てが彼女のこれまで感じていた違和感を証明しているようで、自分がそうだと思っていた事がすべて嘘ではないかと疑心暗鬼にさせてしまう。悪寒と眩暈が継続していて、気分が優れない。立っているのが苦しい。……こんなこと初めてだ。
これが、記憶操作を疑った事への副反応なのか?
何が正しく何が間違っているのか。そもそも何が正しいのだろう? 自分の記憶が作られたものであるとしたのなら、何で判断すればいいのか。
ああ、苦しい。吐き気がする。眩暈がする。冷や汗が滲んでくるのを感じている。さらに自分の呼吸が荒くなっていることを感じるが、いつものようにそれを制御する事ができない。それだけ感情が乱れているというのか。
朦朧とする意識の中、遠くから誰かが歩いてくる音を感じた。それは、こちらに向かってきている。
「永末さん、どうやら誰かがこちらに向かってきているようです。ここでこれ以上の話は無理です」
何とか平静を保つように言葉を発することができたと思う。
それを聞いた途端、永末が驚いたような顔をしたが、すぐに冷静な顔へと変化する。
「わかりました。……この先の話については後日させていただきます。これをお渡ししておきます」
そう言うと、まるで最初から準備していたかのように、鞄から小さなケースを取り出した。
「これは? 」
中を開けると記憶媒体が2枚とPTP包装された数種類の錠剤があった。
「メディアについては、それを観て頂ければ我々が掴んでいる全てがあります。それからそこに私への連絡方法もあります。もし、今後、我々がお役に立てる事がありましたら、ご使用下さい。それから、錠剤については、あなたへのこれ以上の記憶操作を防ぐことのできる成分の含まれたものです。使う使わないはお任せ致します」
「わ、わかりました」
半信半疑ながらも拒絶することができなかった。
「それでは、これにて失礼いたします」
恭しく頭を下げる永末。
「お見送りしますわ」
「それは恐縮です」
そして、二人は会議室を退出し、廊下を歩んでいく。扶桑が前を、少し後ろを永末が歩く。
廊下の向こうから一人の少女が歩いてくるのが見えた。ピンクの髪をポニーテールにした不知火だ。派手な髪の色だからすぐに分かる。
「扶桑さん、こちらにいらっしゃたのですか」
二人に気づいた彼女は、少しだけ歩みを早めて近づいてきた。そして、後ろにいる人物に気づく。
「永末少佐! ……お久しぶりです」
すぐに敬礼をする。
「お久しぶりですね、不知火さん。……けれど、私はもう軍属ではありませんよ」
苦笑いを浮かべながら永末が答える。先ほどの真剣な表情ではなく、人好きのする笑顔に変えている。
「今日はどのようなご用でいらっしゃったのですか? 」
何も知らない彼女は当たり障りのない質問を続けている。それに対して永末も通り一辺な答えで返している。不知火も緒沢提督がいた頃から舞鶴に所属しているから、彼女にも記憶はあると思うのだが、そういった事は全く口にしない。
そう思ってすぐに得心する。不知火は特に忠誠心が高い子である。故に、記憶操作の影響を受けやすい性格といえる。上からの命令には常に絶対的なものと思っている節があるからだ。冷泉提督に対してだけは少し違った感情を持っているようではあるが、その傾向は変わらないだろう。だから、いきなり記憶と齟齬のある事実を告げられても受け入れるはずがないのだ。
その辺も永末は把握しているのだろう。彼女を説得するにしても、随分先の事だと考えているのかも知れない。
二人は形式的な会話を終えたらしい。不知火は後で報告したいことがあると言い残すと、どこかに歩き去って行った。
その後は監視カメラや隠しマイクを警戒してか、永末は一言も発さなかった。
しかし、去り際に
「冷泉提督には絶対に気を許してはいけません。これだけは心に留めておいてください」
耳元で囁くように言うと、ニコリと笑い立ち去っていった。
その片足を引きずるような歩き方に彼がこれまで歩んできた苦悩の人生を見てしまったような気がして、扶桑は再び心が苦しくなるのを感じていた。