深海棲艦の少女は、島風に交渉を持ちかけてきたのだ……。
それは、今こちらに向かっている加賀たちの命と引き換えに、島風だけを見逃してやるというものだった。
今、この海域は、領域の完成形態になっていない。新たに延長したエリアすべてを領域化するには、まだ少し時間がかかるというのだ。
「けどね、一部分のエリアだけであるのならば、それはすぐにでも可能なの。……今、どこも領域化していないのは、意図的に行っていないだけなの」
少女は、意図的になのか唇の端を引きつらせるようにして笑みを浮かべる。
さすがに深海棲艦の意図が掴めた。
島風は、現在航行できない状況に陥っている。それを加賀達に伝えれば、大急ぎでこちらに来るだろう。それは間違いない。深海棲艦たちは、島風の曳航作業をしている時を狙うつもりなのだ。艦娘艦隊を一網打尽にするために。
「曳航作業とその護衛を行っている状態なら、艦の速度は相当に落ちるでしょうね。そこをピンポイントで狙って、島風さんを中心とした半径数キロを領域と化すの。そうすれば、あなたの仲間の艦娘達は唐突に動力を遮断されることになるわね。当然だけど動力の切り替え作業をせざるをえなくなるわけ。でもね、あらかじめ分かっている状態だったらならその作業は十数分で可能でしょうけど、いきなりのブラックアウトとなると艦にはあちこちに不具合を生じているでしょうね。仮に機器に問題が無かったとしてもその復旧時間は30分はくだらないはず。……その間に潜水艦による攻撃をあなたの仲間達に加え、航行能力を殺ぐの。潜水艦だけで全員をやれるとは思っていない。あなた達の力を過小評価はしていない。だから、無理はせず本体の到着を待つわけ。充分な戦力をの到着後、あなたの仲間達は海に没することになる。そのために島風さんには協力して欲しいんだけど」
「そんなこと、できるわけない! 」
苦しさに耐えながらも、必死に声に出した。
「えー、何をそんなに嫌がってるの? 島風さん、あなたが一芝居打つだけで、すべてが終わるんだよ。それだけであなたの命は助かるんだよ、生き残れるんだよ。深海棲艦との戦闘で他の連中は死んじゃうけど、それでもあなただけがなんとか助かった。結果としては、それだけのこと。安心して、まさか島風さんとあたし達がグルだったなんて、誰も想像なんかできやしないわ。それにあなたにとってのメリットだってたくさんあるじゃない。あなたは命を失わずに済み、その上、邪魔だった加賀まで始末できるんだよ。決して悪い交渉じゃないでしょう。あなたはたくさんのものを犠牲にしてきてるんだから、それくらいいいんじゃないの? だって島風さんの本当の気持ち、あたし知ってるんだから」
島風の心を見透かしたように深海棲艦が言う。
「な、なにを馬鹿なことを。自分可愛さで仲間を売るなんてできるはずない」
明確に否定する。けれど心は動揺し、その声は弱弱しくなってしまう。
「あ、そう。ふーん」
少女は興味を失ったような表情を浮かべる。そして、そう言うと、島風の体を床に押し倒しのしかかる。
少女の長く白い髪が逆立ち、まるで生き物のように島風に近づいてくる。髪の毛じゃない何か得体の知れない存在にしかみえない。それは長さを変化させながら、それぞれが別の生き物のように島風の体に絡みつき、肌を這いうごめく。それらは島風のうなじ部分へと向かい、そして皮膚を貫いて体の中へと入り込んでいく。
激痛が駆け巡り、島風は悲鳴を上げてしまう。
深海棲艦の体から伸びた髪が体内へと侵入してくる感覚を感じながらも、島風はなすすが無かった。得体の知れない何かがウネウネと体中を這い回る恐怖。痛みと気持ち悪さ。頭がおかしくなりそうだ。
やがて、自分の体の自由が利かなくなったことを知る。
「どう? どんなキモチ? 」
少女が興味深げに問いかけてくる。その声は、どういうわけか島風の声色だった。何故? 不思議に感じる。声色を真似た? 否、少女の口は動いていない。何故? そしてその声が自分の口から発せられていることに気づいた。
気づいてしまった。
「そう、やっと分かった? 島風さんの体を物理的に乗っ取ったのよ。体中すべてにあたしの神経節が入り込み、あなたからすべてを奪い去ったの。あたしが支配しているのよ。どう? 面白いでしょう。……どうも島風さんは交渉に乗ってくれないみたいだから、直接、島風さんの体を利用して作戦を実行するつもりなの」
そう言うと少女は島風の体から離れる。
何かに呼応するように、ゆっくりと島風も体を起こした。島風は何もしようとしていないのに。
自分が意図してないというのに、体が勝手に動いている。折れた腕はブランと垂れ下がったままだ。けれど感覚は全く無いという違和感。それどころか、全身に感じていた痛みが消え去っている。
自分の体のはずなのに、自分の体ではないような感覚。一部感覚のみ共有しているみたいだけれど、大半は奪われてしまっている。
深海棲艦の少女から伸びた無数の髪の毛が、島風のうなじ部分から体内に入り込んでいることだけは分かる。見ることができないから、自分の体がどうなっているかは分からない。そして、どういう風にそれで体や感覚が乗っ取れるのかは理解不能だけれど、それでも操られているのだ。まるで操り人形。恐怖しかない。
島風はゆっくりと歩き艦橋の席に腰掛けると、手馴れた手つきで通信機を操作しはじめる。もちろん、島風は何もしていない。勝手に体が動いているだけだ。
何をする気だと思っていると、彼女は加賀達に対して状況を伝達する。いつもの島風とまるで変わらない声で。
エンジンがついに停止して、本艦は航行不能となった。手を尽くしているものの動力の復旧は困難。距離はまだまだあるものの、深海棲艦が追尾接近している状況。本艦は、もはやこれまでと想像。よって、加賀たちは反転し鎮守府へ帰投してほしいと。
「ふふふふ。どう? 島風さん。あなたならこう言うつもりなんでしょう? 」
少女は、面白そうに島風に話しかけてくる。
それは当然の事だ。こんな罠を仕組まれている海域に、加賀たちを来させるわけにはいかない。自分の事は放って置いて、とにかくこの海域から離脱するように言うだろう。
―――しかし、何故?
必死になって加賀たちに助けを求める演技をすると思っていたのに、予想と違うことをする深海棲艦に戸惑ってしまう。そうすれば、加賀達は間違いなく救援に向かうはずなのに。これじゃあ加賀達が反転帰投してしまうだろう? それが深海棲艦の意向なのか?
しかし、加賀達の反応も島風の予想に反したものだった。
「馬鹿なことを言わないで。まだ敵との距離は全然あるわ。あなたを救助しても十分に逃げ切れるほどに」
いつも通りの淡々とした、しかしそれでいて強固な意志を感じさせる口調だった。
この女はどうしていつもこうなんだろう? そんなことを場違いなのは分かっているのに考えてしまう。
「馬鹿なことしちゃだめ! 私なんかのために、みんなを危険に遭わせられないよ! 今すぐ、今すぐにここから逃げて」
それに呼応するように島風は応える。
その言葉はとても切迫していて真剣だけど、それをさせている少女は必死に笑いを堪えている。
「馬鹿なのはあなたよ、……島風」
真剣な声で、加賀が怒ったように話す。
「仲間を見捨てて逃げることなんて、できるはずがないわ。あなたを置いてなんていけるはずがない。……あなたは、私なんかを助けるために考えられないほどの代償を払った。そのことを私が知らないとでも思っているの? あなたは、軍艦として戦えなくなるほどの損傷を、私を助ける……たったそれだけのためにしてくれた。提督はなんだか誤魔化そうとしていたけれど、まさか私がそれに気づかないとでも? 私は返しきれないほどの恩を、島風、あなたからは受けている。だから、今度は、私がそれを少しでも返す番」
淡々とした口調。それでもその言葉の一つ一つが島風の心に突き刺さる。ずっと隠していたつもりだったのに、加賀には知られていたのか。
「それは、私が提督の役に立ちたかっただけ。加賀は、気にする必要なんて無いよ。それにそんなことで加賀にもしもの事があったら、……提督が悲しむじゃない。そんなのは、絶対に嫌。だから私なんかに構っていないで、今すぐ逃げて。それが私の本当の願いなんだから」
腹立たしげな様子を演じ、島風を操る少女が叫ぶ。
島風は、この深海棲艦があまりに臨機な対応していることに恐怖を感じてしまう。まるで自分の記憶をすべて把握しているようだ。自分自身が対応するように言葉を繰り出している。
「ふん、……それは私も同じことよ。私は、あなたを助けたいからそうするだけ。私が勝手にやることだから、あなたは気に病むことは無いわ。そして、何も気にすることはない。もちろん、私もあなたの気持ちを慮るつもりなんてさらさら無いわ。だから、お互い対等なのよ。……それに、私だって命を簡単に捨てるつもりなんか無いわ。島風を助けだし、みんな無事で帰るつもりだから。だから、ごちゃごちゃ言ってないで、私達が到着するのを大人しく待っていなさい」
口調は冷たいけれど、その奥底にある優しさが感じとれ、島風は泣きそうになる。
「加賀……。あなた、馬鹿だよ」
本当に見も心も乗っ取られているのだろうか? 自分の心を理解しているように話す深海棲艦に、背筋が寒くなる。
しかし、島風の本来の感情などまるで無視して、勝手に口から言葉が出ていってしまう。
「そうね。……馬鹿かもしれないわ。お馬鹿な冷泉提督の側にいたせいで……好きになってしまったせいで、あの人の馬鹿がうつったのかもしれないわね」
「それは、私も同じかも」
と、高雄も呼応する。
「提督は、馬鹿なんかじゃありません! 」
否定する神通。
「みんな、ありがとう」
島風の気持ちに反して、口から出る声は涙声になってしまう。心は必死で来ちゃ駄目だ。これは罠だよと叫んでいるのに。
「待っていて、島風。きっとあなたを必ず助け出すから」
強い口調で応える加賀。
他の二人も同じような言葉をかけてくれた。
「うん……待ってる」
乗っ取られている体なのに、涙が溢れてこぼれていく。
これは彼女達の気持ちが嬉しくて、泣いているのだろうか?
それとも、自分の意に反して大切な仲間を死に追いやってしまうことに絶望しての涙なのだろうか?
どちらにしても、今の自分ではどうすることもできない。
しかし。