速吸は話したいことがあるということだったので、冷泉はずっと彼女が話し始めるのを待ち構えていたが、なぜか沈黙したままだった。沈黙が永遠に感じられ、どうしていいか分からなかった。すぐに話しかければ良かったのだが、一度タイミングを逸してしまうと、実に話しかけづらい。
車の窓は濃いスモークガラスとなってはいるものの、外の景色は見える。いつの間にか高速道路に乗っていたようだ。前方を同じ進行方向に進む車の姿は無く、対向する車も無い。冷泉の知る高速道路とは異なるようだ。舞鶴鎮守府にいた頃から思っていたが、冷泉がいた頃? の日本とは、いろんなところでどこか異なる……ズレがある風景だ。何がとは説明しにくいが、ずっと違和感を感じる町並み、風景だ。
かつていた世界とは時間軸・世界線の異なる世界に来ているんだろうけれど、頭では理解しているつもりでもどこか納得していない自分がいるようだ。半分現実、半分夢見心地の感覚が抜けないままだ。
さて、自分がどこに捕らわれていたかは分からないが、道は山の中を走っている。時折、山の間から左側遠くには見慣れた鈍色の海が顔をのぞかせる。空は濁ったどんよりとした重苦しい色で、どことなく陰鬱な感じだ。空については領域に囲まれて以降、どこも同じなのだろうけれど。日本のすべてを観光して回ったわけではないけれど、方位的なことからしても日本海側のどこかを走っているのだろう。
速吸は何かを待っているような雰囲気で、冷泉と目を合わさずに黙り込んだままだ。何か考え事をしているようでもあり、話しかけるのを拒絶しているようにも感じられる。
だから冷泉もいろいろと聞きたいことはあったけれど黙っていたのだ。
ロードノイズだけが車内に響くだけの沈黙の時間が数十分続いただろうか?
時計がないので正確な時間はわからない。体感的には一時間ほど走っただろうか。車のエンジン音が少し大きくなったような気がする。風景からも緩やかな上り坂を走っているようだ。
車窓からいくつかの案内表示板が見えたあたりでブレーキのGを感じると、車が左に動くのを感じた。車はゆるゆると速度を落としながら、走行車線を外れ、停車した。
サイドブレーキを引く音が聞こえ、エンジンが停止される。
「提督さん、少し疲れたでしょう? ある程度走ったので休憩しましょうか」
前の方でドアが開き、再び閉じられる。どうやら、運転してい兵士が降車したようだ。外に出た二人の兵士が何か互いに合図を送りながら、周囲を見回している。安全確保かなにかをしているのだろう。
すぐに合図が速吸に届いたようで、
「提督さん、おトイレとか大丈夫ですか? しばらく走ったので、ここで少し休憩しましょう」
特に便意はもよおしていないが、彼女の言葉に甘えることにする。どちらかと言えば、うまいものを腹一杯食べたい。炭酸飲料を一気に飲みたいといった欲求の方が強い。
取り調べ中はろくな食事も与えられなかったし、水以外の飲み物なんて一切出されなかった。量も必要最低限でしかなかったわけだが。まあ、いろいろと食べたところで、取り調べに伴う措置で、胃の中のものは全部吐き出してたわけなんだが。いろいろと酷い目に遭わされたけれど、取調官に言わせるとまだまだ優しい取り調べだったらしい。彼らのオフレコの話では、現状の冷泉の軍での立場……というか、嫌われ具合でいえば指の1、2本、歯の4,5本くらい無くなってても仕方が無いレベルだそうだ。ずいぶんと冷泉の事を嫌っている、否、恨んでいる高官がいるらしい。
しかしながら、そいつらの希望もむなしく、艦娘側の監視が入る恐れがあるということで、冷泉は丁重にもてなされていたらしいが。
確かに身体に欠損もなく、爪も全部無事である。服を脱いだところで、わずかな擦過傷程度しかなく、新しい痣はほぼ見つけられないだろう。
「そうだな……、外の空気も吸いたいな」
そう言ってドアノブに手をかけるが、反応が無い。どうやらドアは外から出ないと開けられないようだ。濃いスモークガラごしに外を確認すると、停車している場所は結構な山の中であることが分かる。高速道路のサービスエリアかパーキングエリアかの定義は知らないけれど、そのどちらかなのだろう。
進行方向の左側の遙か向こうには海が見える。位置関係からして結構標高の高い場所らしい。
駐車場は大型トラックでも20台くらいは駐車できる広さだ。ただ、人々が訪れなくなって久しいのか、区画線はかすれてほとんど分からなくなっているし、埃っぽいアスファルトを突き破って所々雑草が生えて来ている。駐車場の舗装もずいぶんと薄汚れメンテナンスがほとんどされていないことがわかる。
駐車場の周りは木々が生い茂っており、ちょっと歩けばもう深い山の中だ。付近には当然建物もないし、高速道路を走る車は見当たらない。駐車場に面するように赤い屋根の建物がある。設置された看板には、薄汚れてしまってかなり読みにくくなっているものの、NEXCO中日本 杉津と読み取れた。かつて店舗だったであろう場所のさび付いたシャッターが閉められ、かつて並んでいただろう自動販売機も撤去されている。建物の一部であるトイレだけは使えるらしい。
駐車している車はこの車のみ。警護の車両はいないようだ。おまけに警備も二人の兵士しかいない。そして他の人の気配は無い。
「この車一台だけなんだな、ここには」
ここがどこなのかは聞かない。聞いたところで土地勘がないから分からない。
「そうです。急だったものですから連れて来られる人もいなくて、護衛も二人だけなんですよ。でも安心してください。彼らは私たち……艦娘側の人間ですから、提督さんを害することは絶対にありません。それに二人と言っても特に能力の高い者だけを集めた部隊の更に精鋭ですから、武力には絶対的な信頼をしてもらっても大丈夫です。三笠様から安全に目的地までお連れするよう厳命されていますから、彼らのモチベーションも最高値なはずです。それからこれからの予定ですけど、高速道路をもう少し走ったら、列車に乗り換えになりますから」
「まあ俺を警護する必要なんてないしな」
やばい連中が警護してくれているのだけは分かった。しかし、どちらかと言うと、冷泉が逃げないようにすることが彼らの役目だろう。
「艦娘に属する車両を襲うなんて愚かしいまねをする勢力はまずいないと思いますけどね。そんなことをしたら、どれほどの厄災を招くか……そんな事を知らない軍では無いと思います。なので、提督さんはご安心ください。……それよりも」
襲っているとしたら軍しかないような口ぶりで速吸が言う。
「? それよりも、何」
言葉の途中にいきなり速吸が身を冷泉にすり寄せる、そして、ささやいた。その唐突な動きに、冷泉は身動きが取れなかった。
「提督さん、逃げるなら、……今しかないですよ」
「な、何を言うんだいきなり」
艦娘の言った事も衝撃的だが、速吸が密着していることにも動揺している冷泉。
確かに、今なら邪魔な兵士はたった二人。それに、ここは山の中。山の中に逃げ込んでしまえば、たった二人での追跡は困難。
「提督さん、このチャンスを逃せば、もう二度と脱出などかなわなくなりますよ。あなたに残された最後のチャンスですよ」
と彼女は悪戯っぽく言う。
「……いや、いきなり何を言うんだ? どうしてそんなことを言うんだ? そもそも、そんなことして俺に何の益があるっていうんだ」
内心を見透かされたように指摘されたので、少し動揺してしまっている。彼女の意図が読めない。
「何も裏なんてないですよ、提督さん。私は提督さんの為を思ってお伝えしているんです。私の任務はあなたを第二帝都東京までお連れすること。けれど、任務を全うしたら、あなたはもう二度と後戻りできなくなります」
「……それはどういうことなのかな。そもそも俺にとっては拒否権など無い状況だと思うんだけれど」
「三笠様に会ってしまえば、きっと提督さんは理不尽な契約を提示されるに決まっています。雁字搦めにされてしまって、逃げることもできず三笠様のおもちゃにされるに違いないんです。横須賀の提督ように……」
「けれど俺には拒否することなどできない。このままでいたら、俺は処罰される以外の道はない。舞鶴鎮守府から放逐され、あいつらを守ることができなくなってしまうしかないんだ。三笠さんにどういう意図があるかは分からないけれど、0しかな現状よりは、何かできる可能性があるんじゃないのか? 俺はそう思いたいんだけれど」
三笠がどういう課題を自分に与えるかは不明だけれど、彼女は日本国に対して意見できる立場にある。であればもしかすれば司令官の地位に戻してくれるかもしれない。何もなければ彼女がわざわざ自分を呼び寄せる必要が無いのだから。
横須賀鎮守府の提督がどのような扱いをされているかはこの際どうでもいい。
「少なくとも艦娘側として、俺に利用価値があると判断したから、わざわざ俺を帝都まで呼び出すんだろう? だったら可能性にかけてみたい」
「そんなの……無理ですね」
と、冷たく言い放つ速吸。
「提督さんは何か甘い考えを持っているみたいですけど、ありえないですね。三笠様がどのような意図で動いているかは私なんかじゃ分かりませんけど、これまでずっとあの人を見てきました。あの人の真意は私の理解の埒外なので分かりませんけれど、きっと提督さんが苦しむようなことしかしないと思います。悲しみに泣きわめき、苦しみながら地面を這いずり回る姿を見て嗤うのが大好きなんです。酷い人ですよね、悪趣味ですよね。私には分かりませんが、それが三笠様なりの愛情表現らしいです。そうあの人が言っていましたから」
とても上司に対して言うようなことじゃ無いな。冷泉が彼女の発言を三笠に伝えることが無い事を確信しているかのような口ぶりだ。
「俺なんかに何をどうしたらそんなことができるんだよ。それに、君はそう言うかもしれないけれど、彼女がそんなことをするようには思えないんだけれど」
「私は三笠様のおそばでずっと見てきたって言いましたよね。もちろん、すべてを見ているわけではないですが、いくつか同じような場面を見てきました。だから、何をしようとしているか、なんとなく分かるんです。間違いありません。三笠様は強度のサディストなんですから」
冗談とも本気ともいえるような言い方だ。
「仮に君が言うようなことが向こうで待ち構えているとしても、俺にはどうすることもできないじゃないか? 確かに数は少ないとはいえ、訓練を積んで武装した兵士が2名もいるんだよ。彼らを排除して逃げるなんて現実的じゃない。俺は格闘技なんて習ったこともないし、仮に経験者だとしても付け焼き刃程度の体術で彼らを倒せるとは思えないね。それに喧嘩だってしたこと無い。仮に何かの偶然が重なって彼らを倒せたとしてだ……、その後、艦娘の君から逃げなきゃならないんだよ。それってどう考えても無理だろう? 」
不意打ちをして兵士たちを倒す。……万に一つでも可能性は無いとは言えない。しかし、それができたとしても、艦娘と対峙して勝てる人間なんて世界に存在しない。仮にヘビー級のボクサーだろうが総合格闘技の世界チャンピオンであっても勝機は皆無だ。……そもそも身体能力が違い過ぎるのだ。
冷泉は、まだ心を開いてくれていなかった頃の加賀を思い出した。普通に10メートルくらいの高さから飛び
降りたり、垂直跳びで数メートル飛び上がったりする。人間では到達できない速度で移動するし、その気になれば人間なんて片手で簡単に縊り殺せる。あらゆる面で上位に位置する生命体なのだ。ヒグマであろうとも瞬殺だろう。ただ彼女たちがそれをしないだけだ。
少なくとも、たとえ森の中に逃げ込んだとしても、艦娘の身体能力を考慮したら、逃げ延びることなどできるはずがない。夜でも見えるし聴覚嗅覚も人間の比では無いって自慢された記憶もある。
「どれだけアドバンテージをもらったとしても、逃げ延びる未来は見えない」
「……何行ってるんですか? 簡単ですよ、私を人質にすればいいんですから」
と当たり前のように艦娘は言う。
「私を人質にすればいいんですよ。そうなれば、彼らは何もできないです。そして縛って車に閉じ込めれば、しばらくは追っては来ないです。それにご安心ください、私は反撃なんてしないし、できませんから」
「でも君をどうすればいいんだ? ずっと連れて逃げるわけにはいかないし、かといって兵士たちと同じように縛って車に閉じ込めたとして、すぐにロープを切って追いかけてくるんだろう」
「……そうですねえ。解放されたなら、ロープくらいなら切っちゃうでしょうし、手錠だって引きちぎれますよ。それにどこかに閉じ込めてもドアなら……ちょっとした壁でも蹴破っちゃいますね。艦娘って見た目に反して力持ちですから。拘束はあまり時間稼ぎにはなりませんねえ。そして、当初の目的を達成するために、提督さんを追いかけて捕らえざるを得なくなります」
「じゃあ、結局は一緒じゃ無いか。とてもじゃないけど、君から逃げおおせる未来は見えない」
「そんなことないですよ。適当なところまで私を連れて行って、私を絞め殺すなり、銃で射殺するなりすればいいんです。死んじゃったら追いかけられませんからね」
事も無げに速吸が言う。
「な! ……そんなこと、できるわけないだろう」
思わず声を荒げてしまう。どういう思考回路で話しているっていうんだ。自分が助かるために艦娘を殺すなんて、冷泉の行動理念から最も遠い位置にある事だ。冗談でもありえない。
「艦娘を殺すのが怖いですか? ……安心してください。提督さんなら聞いたことあるでしょう? 私たち艦娘の本体はここだって」
と、首筋のあたりを指さす。
「だから、ここが壊れない限り……へへ、ここは主砲の直撃を受けても壊れませんけど……私は死なないんです。すぐに本体をスペアボデーに移し替えたら復活ですよ。だから罪の意識に捕らわれる必要なんてないですし、何の問題もないです。提督さんは逃げられるし、私は生き返ります。殺されちゃったから三笠様にも提督さんを逃がしてしまった事について怒られませんし。……すべてリセットされますから、提督さんは安心して私を殺して逃げればいいんです。誰も何も失いませんから」
「そんなこと……何で自分のためなんかに、君を殺さなければならないんだ。たとえ君が言うことが事実だったとしても、そんなことできるわけないだろう」
スペアボデーの話を思い出し、吐き気をもよおす。仮に死んだとしても新たな身体にコアを移植すれば生き返るという話。信じられないけれど、艦娘本人がそう言うからには、それは事実なんだろう。けれど、その事実を受け入れることは冷泉にはできそうもなかった。
思考は停止してしまう。
胃の奥から何かがこみ上げてきて、吐きそうだ。
「だから、私は死なないですから。全然気にする必要ないですっ。死んでも……いや死んでないか。どっちにしても生き返るんですからね」
「たとえ君の言うとおりだとしても、今の君を殺さないと駄目なんだろう? 理解しかねるけど生き返るとしても、俺には君を殺した感触と罪の意識が残る。自分が守るだけのために、艦娘を殺したという罪の意識が。それは決して消えることはないんだ。その代償が自分の命? ……そんなもの受け入れられるわけがない。それに、俺には逃げることなんてできない。約束したんだ……みんなを守るって。あいつらに……。それだけは守らなければいけないんだ。今の俺にはそれしかないんだ」
「あーあ、やっぱり頑固だなあ、提督さんは。自分で自分を追い込んで、追い詰めて、なにもかも一人ですべてを被ろうとして、何とかしようと擦り切れて、ボロボロになって……ただただ苦しむなんて何の意味も無いことだと思いませんか。舞鶴の艦娘たちは誰もそんなこと望んでいませんよ。提督さんが苦しむ代わりに自分たちが守られるっていうなら、そんなものいらないって言う子ばかりでしょう? それを知らない提督さんじゃあないはずですよね。それに……そもそも、提督さんって私は呼んでますがあなたはもはや提督ではないんですよね。今は何の権限もないただの一兵卒ですよね。あなたの果たすべき責務は、今は葛城提督が全うしてくれているですよね。だったら葛城提督に任せるしかないじゃないですか。何の権限も力も無いあなたが一人で藻掻いたところで、所詮、何もできないんですから」
「そ……それかもしれない、けれど、俺にだってまだ何かできることがあるかもしれない。ほんのわずかでも可能性があるなら、なんとかしたいって思うだろ。それに、もはや何も無いのだとしても、逃げることだけはできない。たとえこの先が地獄しかないとしても、俺は引き下がれない」
今さら自分に何ができるかは分からない。けれどこれだけは譲れない。それをしてしまったら、もう自分の価値なんて見いだせない。
「何も無いですよ」
と、あっさりと想いは否定される。
「一体、あなたに何ができるんですか。軍の役職を解かれ、現在はただの兵士……いえ、その身分すらあやふやですよね。そんなあなたに何ができるというんですか。もう提督さんの、ただの妄想でしかないですよ。提督さんは、一人で悲劇の主人公にでもなりきって、ハアハア言いながら盛り上がっているだけじゃないですか」
「ははは、そうかもしれないな。今の俺に反論する拠り所は無いよな」
速吸の言葉は胸に深く突き刺さる。ただ自嘲気味に言うしか無い。
今の自分は軍人ですらないのだから。あからさまに本当の事を言われて、ぐうの音も出ない。今の自分には何の権限も力も無い。それは分かっている。けれど、舞鶴鎮守府の艦娘との約束がある。彼女たちを守るという約束。それだけは反故にできない。この先、どんな運命が自分を待ち受けていようとも、それだけは譲れない。
いや、もうそれしかないのかもしれない。自身がこの世界に立っている理由など、ただそれだけしか。
「すみません、言い過ぎました。けれど私は、提督さんにはどんな形であれ生きていて欲しいんです。本当ですよ。それは、舞鶴の艦娘たちも同じ想いだと想います。……このまま第二帝都東京に行けば、必ず、三笠様より絶望的な任務を命じられることになるはずです。はず……ではなく命じられるのが正解ですね。じゃあ、どんな命令か知っているのかって言われるかもしれません。はい、もちろん知っています。三笠様がどんな命令をするか。そして、どんな過酷な事実を突きつけるかも。けれど、私の口からはそれを言うことは許されていませんし、言いたくないですし、できないのです。私にできることは、あなたをそそのかして逃がすことだけなのですから。このまま帝都に行っても知らなくても良いことを知るだけ。けれど三笠様の話を聞いてしまったら、提督さんは断ることができなくなる。逃げることもできず、逆らうことも抗うこともできなくなります。提督さんにとっては地獄でしかないのです。知らなくて良いことを知るくらいなら、いっそ知らないほうが幸せなこともあるのです。すべてを捨てて逃げることは、罪ではありません。提督さんは十分すぎるくらいに任務を全うされました。これ以上自分を傷つけてまで頑張る必要などないのです。それに、今の提督さんはその地位を剥奪されていて、そのほとんどは大湊警備府の提督に移管されています。提督は地位だけは保留されているものの、その地位に見合った権限はすべて失っているわけだから、もはやこだわる必要などなにもありません。……だから、このまま何もかも捨てて、逃げてください」
「俺が逃げたとしたら、その後はどうなる? 三笠さんが俺に命じようとしていた事はどうなるんだ」
「提督さんは追われる立場になるでしょうけれど、それは今と何ら変わりないでしょう? 三笠様があなたにさせようとしたことは、代わりの誰かに命じられるか、それとも、おそらく無いとは思いますが、葛城提督に命じられるかもしれませんね。どちらにしても問題はありません」
「俺の部下の……いや、今は部下でも何でも無いんだよな……艦娘たちはどうなるんだ。彼女たちに過酷な任務が課せられるんじゃないのか」
「さあ、どうなるんでしょうね」
何か思わせぶりな感じで速吸が答える。
「けれど、艦娘の運命は提督さんがいてもいなくても何も変わらないと思いますよ。どちらにしても三笠様の意思は経路こそ違えど、実行されるのですから。行うのが冷泉提督ではなく、別の提督かもしれませんし、それ以外の誰かかもしれないです。舞鶴鎮守府の艦娘たちの運命は何ら変わりませんのでご安心ください」
「なあ速吸、お前は何か知っているのか? だったら教えてくれ。俺がこのまま第二帝都に行った場合の事なんてどうでもいい。あいつらにどんな命令がなされるのかを教えてくれ。あいつらがどうなるのかを。……頼む」
もしも彼女たちに不幸が訪れるというのなら、自身のすべてを費やしてでも彼女たちを守らなければならない。仮に何の役に立たなくても、何もせずにはいられない。
「特にどうということはありません。彼女たちは艦娘としての職務を全うするだけじゃないですか。提督さんがいようがいまいが関係なく……。提督さんは艦娘の生死に異常にこだわっているようですけど、たとえ彼女たちは死んだとしても、コアさえ無事ならスペアボデーを取り替えたら元通りです。艦本体が沈んだら建造に時間はかかりますけれど、それは時間が解決してくれます。艦娘も、提督さんも何も悲しむ事なんてありませんよ。」
……自分の知らないタイプの艦娘がここにいる。
冷泉はそう思うしかなかった。自分の知る艦娘はもっと感情的で個としての情があって、もっと人間味があった。戦友の死に涙し、自分の未来を憂いながら人間のために戦おうと強い意志を持っていた。時に普通の少女のように笑ったり泣いたり叫んだりしていたはずだ。けれど目の前にいる速吸という艦娘はすべてを達観し、合理的思考しか持ち合わせていない。かつて鎮守府を訪れていた際には、もっと人間味あふれる子だったはずなのに。
何が彼女を変えたのか、それとももともと違っていたのか。それは分からない。
「だから迷うことなんて無いんです。提督さんは自分の事を考えて行動してほしいんです。それが私の……いえ、舞鶴鎮守府であなたの下で戦っていたみんなの想いなのです。……ここは逃げてください。このまま帝都に行って三笠様と会えば、知らなくて良いことやしなくていいことをしなければならなくなる」
「俺は……」
冷泉はぽつりとつぶやくように話す。
「これまでの俺は、ずっと逃げてばかりで何もなすことがなかった。日々を淡々と生きるだけで精一杯だった。人並みに夢もあったけど、自分の恵まれない境遇を嘆くだけで何の努力もせず、何かを言い訳してばかりだった。できないのは自分のせいじゃない、今できないのは俺が恵まれていないからだ。あれさえあれば、俺にもできた。まだ本気を出していないだけで、あとちょっとしたら本気を出す。そうしたらきっとうまくいくはずだ。駄目だったのはあの日、体調が悪かったせいで運が悪かっただけなんだ。そんな事の繰り返し。何もなさず何も得られず、自分の怠惰を誰かの、社会のせいにして自分を慰めていた。その体たらくさが俺の人生のすべてだった。努力しても認められないのは、自分の努力不足だと分かっていたけれど認めたくなくって誰かのせいにして、プライドを守っていた。そんな事ばかりだから駄目だったんだよ。……このまま逃げてばかりじゃ何も変わらない。たとえ変わらないとしても、逃げるわけにはいかない。たった一つの約束だけは、守りたいんだ。この先、どんな運命が待ち受けていようとも、そこから目を逸らし、誰かを見捨て犠牲にして自分だけ助かろうなんて考えは、絶対に無い。絶対に」
今できることが自分の手に余るものだろうとも、逃げる選択肢だけは……無い。