「復讐、だと?」
大通りから聞こえてくる賑わいとは裏腹に、薄暗い路地裏は静かだ。青年——カイはクローヴィスの言葉を反芻した。
一体どうしたら、目の前の儚げな少女から「復讐」などという言葉が出るのだろうか。貧しい生活故に傷んでいても、輝きを失わない美しい砂色の髪。細身で、しかし女性的な魅力を失うことはない肢体。およそそのようなことに関わりがないように思える、年頃の少女だ。しかしカイは、クローヴィスを知っている。
彼女の家庭について、おそらくは当事者を除いて自分以上にそれを知る者はいないだろうと自負している。父親の早すぎる死や、母親の不誠実な行動の数々。そしてクローヴィスの身に刻まれたキズ。
何があろうとマッチを売ることをやめなかったクローヴィスの姿は、カイの目には痛々しく、けれどとても美しかった。そして今、目の前にいる少女はさらに、なによりも美しかった。
決意を固めた瞳はまっすぐ透き通っており、カイの心を掻き立てた。それを押し殺すように口元を歪めて見せれば、クローヴィスは不機嫌顔でカイを睨みつけた。
「まさか、やめておけだなんて言わないわよね」
「それこそまさかだ。止めるだなんてそんな、だってお前は今が一番……綺麗だよ」
煙草の煙をくゆらせながら、カイはクローヴィスの頬を撫でる。
「ん……とんだ口説き文句ね」
クローヴィスは抵抗することなく、それを受け入れた。何かを噛みしめるように、刻むようにそっと目を閉じて。
やがて立ち上がったクローヴィスは、先ほどのように決意に溢れた表情に戻っていた。
「それで、どうするつもりだ?」
カイは短くなった煙草をゆっくりと吸いながら、クローヴィスに問いかける。復讐をするとは言っても、たった一人ではか弱い少女だ。請われればもちろん、カイは手助けを惜しまない。
問われたクローヴィスは、しばし考え込む仕草の後、ゆっくりと頷いた。
「アテがあるわ。このことに関して力になってくれる人達の、ね。いつもなら今日のこの時間に、ここに来てくれるわ」
「……ああ」
その者達の正体を、カイは知っている。彼らは自分と同じだ。いや、彼などと丁寧にいう必要はないし、自分よりも数段頭のネジが飛んでいる者だ。
その人物はゆっくりとやってきた。灰色のフロックコートと白いマフを身に着け、ステッキを手にした長身の男性だ。見るからに高価だとわかる身なり、傲慢さと冷淡さに満ち溢れた顔つきから、クローヴィスは初めて会った時から、この男性が身分の高い人でああることは分かっていた。
「どうだ、マッチは売れるかな?」
無関心な様子で男性は訊ねるが、カイにしてみれば、男性が片時もクローヴィスから視線を外さないでいることはお見通しだった。その瞳の奥に揺らめく、黒い感情でさえも。
「こんにちはサド侯爵。いつも通りよ」
名を呼ばれた男性――サド侯爵は口の端を釣り上げた。
「
サド侯爵は目を大きく開いて、クローヴィスを頭のてっぺんから爪先まで見た。短くなった煙草をもみ消しながら、カイは聞こえないように小さく舌打ちした。
――やはり、鋭い。
自分よりも遥かに人を見てきているサド侯爵が、クローヴィスの変化を見逃すはずはないと、カイには分っていた。分かっていても、歯噛みしてしまう。
彼は自身の抱く気持ちが、男の身勝手なソレだと理解している。それでも捨てきることはできず、炎が勢いを増すかのように、思いは強くなる。けれど、カイは決してソレを見せまいと心のうちに押し込める。クローヴィスの事を、自分だけが知っていればいいと思ってしまう、醜い自分の心を奥底に封じ込めた。
一方、クローヴィスの差異に気が付いていたサド侯爵は、釣り上げていた口の端をさらに歪めていた。
「君のその目は、私もよく知っているよ。いや、いや……もっとよく見せておくれ」
サド侯爵はクローヴィスの顎に手を添え、自分を見上げさせるように力を加える。クローヴィスは抵抗しない。ただ、無感動な瞳で公爵を見つめる。グレーの目は冷たく暗いが、その奥はさらに暗かった。深海を除くような、思わず引き込まれてしまいそうになる目を、いつまでも見ていたいと公爵は思った。同時に、この目を、少女を、さらに美しくしてやりたいと考えていた。
「あなたにお願いがあるの」
物怖じしない澄んだ声を掛ければ、サド侯爵は驚いた様子だった。黒く、それでいて清冽な光を湛えた瞳は見る者を魅了する。公爵としてもそれは例外ではない。そして公爵は、その先を見たいと思っていた。
クローヴィスは語った。己が何を経験してきたのか。そして昨晩、決定的な気付きを得た。
――悔しい。
――ならば復讐を。
「わたしは、わたしを苦しめたすべてに復讐する。後悔はしない、後戻りも、許すなんてもってのほかよ。わたしは覚悟を決めた、覆すことはないわ。昨日までの自分を否定することだから。……だから、そう。あなたたちには力を貸してほしいの。身勝手で、あなたたちには利益が無いし、わたしから支払えるものは何もない」
クローヴィスは一旦言葉を止めて、持っていたマッチの一つを擦り、火を灯す。ゆらゆらと燃える火から、カイとサド侯爵は片時も目が離せなかった。
「わたし一人では、きっと失敗する。だからお願い、力を貸してちょうだい。わたしは……止まりたくはないから」
なんという身勝手だろう。この女は、自分の目的のために、無関係だった者に手を貸せと言う。何も報酬として渡せないと理解しているのに、それでも自分のエゴのために他人に助けを求める。
けれど、男たちはそれを許容する。若い男は愛のために、老いた男は生の輝きを求めて。自分の求めるものが、少女の行く先にあると確信を持つ。高潔な信念、理想、秩序。そのようなものとは無縁で、最も遠いところに立とうとしている少女こそが、最も美しかった。
「はは、はははは! 素晴らしい、嗚呼最高だ。その瞳に君は何を映す? 永遠か? それとも果てしない虚無か?」
道行く人々が思わず目を向けるような、大きな笑い声だった。
「良いとも、フロイライン。私の持てる全てでもって、君の全てを堕としてあげよう。きっとその時君は、この世の何よりも美しいから。報酬はそれだ、私にはそれだけでいい。復讐し終えた君の、行き着いた姿を見せておくれ」
クツクツと公爵は笑う。目を輝かせて、まるでクリスマス前に子供がプレゼントを貰うのが待ちきれないといったようだ。
カイは、穏やかだった。覚悟を問いかけるでもなく、思を伝えることもない。彼は、クローヴィスから助力を乞われたことが、何より嬉しかった。クリーヴィス・キャナスティの力になれる、ただそれだけで十分な報酬だった。それだけで、彼が己の全てを賭けるのに、それで十分だった。
斯くして、ここに悪意は募った。けれど気付いた者がいるはずも無く、全ての人間は、事が起こってから事件を認識することになる。
母親はどう思うだろうか。クローヴィスは覚悟を決めた傍らで、ぼんやりと思考した。あの母親なら、自分を怒鳴りつけて、逆に襲い掛かってくるだろうか――クローヴィスはそう想定していた。実際に彼女の母親が事件の真相に気が付いた時には、事はクローヴィスの意に反する方向へと傾いていた。