人里離れた屋敷の中にお嬢様と使用人がいた。
穏やかな、その屋敷から、”彼女”の物語は始まる。
目が覚めると、刺すような朝の冷気で思わず身が縮こまる。
それが恵まれたことなのだと知ってはいたが、それでも、あの時の私はまだ実感できてはいなかった。
布団の中に潜り込み、その暖かさにふうと安堵の息を吐く。とても布団から出られない。けれど、私を天国から地獄へ引きずりおろす、魔王の使者は毎日やってくる。
「ご起床のお時間ですよ、お嬢様」
機械的な言葉が耳に入り、思わず顔をしかめた。
「嫌だわ。ここにお嬢様なんていたかしら」
「布団の中に籠ってしまわれた眠り姫がいらっしゃいます」
「そんな子、私からは見えないけれど?」
「なるほど。ではご覧に入れましょう」
そう言うと、強い力で布団が剥ぎ取られた。
数瞬の間だけ温い空気が残るものの、すぐさま冷気が私を襲う。
少しでも我が身を守ろうと両腕を抱えて丸くなる。
なんと寒いことか。
「いやあ! 寒い寒い! 無理、凍っちゃう!」
「ほら、姿見をご覧ください。寝癖を直そうともしないお寝坊さんが見えますでしょう」
「なんであなたはそんな冷静なんですか! 私を殺すつもりですか!」
「そんな気は一切ありませんが」
「じゃあ、何、とうとうイカれてしまったの?」
私がそう言うと、地獄の使者は、数秒動きを止めた。
「お嬢様、そのような言葉遣いを教えた覚えはございませんが」
彼女の言葉に思わず体の震えも止まる。
普段は温度を感じさせないその声に、わずかに熱が込められているような気がする。
怒っているときの声だった。
まずいと思い、慌てて口を開いた。
「昨日、見た映画でね、そういう言い回しがあって……」
「やはりお嬢様には映画を見せるべきではありませんでしたか」
「ごめんなさい! 私が悪かったわ、だからそれだけは勘弁してください!」
「淑女がそんな謝り方をするとお思いですか?」
彼女の言葉に私はぐっと言葉を詰まらせた。
彼女はいつも、くどいように言っていた。
淑女たれ、と。
であるから淑女らしく謝罪しなければならない。
私はベットから下りた。今は寝間着だが、贅沢は言っていられない。
着替えてからね、と言った時が私の娯楽の終わりを意味していた。
寒さを堪えつつも、ローブの端を持ち上げ、卑しく映らないよう、優雅に見せるように意識しながら頭を下げた。
可能な限りゆっくりと、相手に訴えかけるように声を出す。
「ミス・ミュンヘン。どうか私のお願いを聞いてくださらないかしら」
「ふむ。こういう時ばかりは様になりますね。もっと罰を増やした方がよろしいのでしょうか」
その言葉に少しだけ顔を上げた。
唇を尖らせて抗議の意志を示す。
「ミュンヘンは意地悪です」
「お嬢様にきちんとした生活を送っていただけるのであれば、このミュンヘン、鋼の意志で以てご指導いたします」
「あなたにもユーモアがあって何よりですわ、ミス・ミュンヘン」
ふうと息を吐くと、いそいそとミュンヘンが着替えを用意し始める。
私は姿見の前に立ち、ネグリジェを脱ぐ。
自分の半裸の姿を見て待っていると、ミュンヘンが服を一着持ってくる。
クローゼットの中にある大量の衣服の中で一体どんな基準で決めているのだろうか。
ランダムだったりするのだろうか。
そんなことを考えながら、腕を伸ばせだの、足を上げろだのと指示を出すミュンヘンに黙って従う。
「ほら、お嬢様。今日もお綺麗ですよ」
そう言って鏡の中の私を指さす。
毎日服こそ違うがどれも上等な代物だし、着ている顔は同じなのだ。与える印象がそう変わるとは思えない。
そんなことを言われても喜ぶことも出来ず、私は肩を竦めた。
「あなたは毎日のように美しくなりますね、ミス・ミュンヘン」
そう言うと彼女は数秒動きを止め、
「お嬢様のユーモアもなかなか面白いですね」
表情筋の一つもない、鋼鉄の顔でそんなことを言った。
ミュンヘン。
それが鋼鉄の顔を持つ家事人形の呼称だった。
名前の由来は詳しくは知らない。彼女も知らなかった。
「名前なんてあればそれでいいですから」
そんなことを彼女は言っていた。
いろいろと教えてくれる彼女自身のことを聞いた時、答えてくれたのは名前と、もう長いこと屋敷にいることだけだった。
「私は主の下、もうずっとこのお屋敷にいるのですよ」
彼女は三世代以上前の家事人形だった。
彼女のセルフメンテナンスが丁寧であることは見て取れたが、それでも表情を作れない顔と、記憶が四年程しか保ってなくなってることからしても、製造されてからはかなりの期間が経過していることは明らかだった。
彼女は私の周囲の世話を丹念に行ってくれた。掃除、ベッドメイキング、食事に風呂、着替えにスケジュール管理。なんでもだ。
「私は日本製でして、そういう細かいことに気を配るように製造されたのですよ」
日本人はずいぶんと神経質な人種なのだな、と私は呆れた。
なにせ彼女は全てが細かいのだ。
やれ到着時間が数秒過ぎただの、髪の毛が床に落ちたままだっただの、そんなことを気にするくらいなら明日の天気でも考えていた方がいいだろうと思うようなことでも、非常に細かかった。
一度、彼女がどれほど細かいのか見てやろうと思い、すべての家具を一センチだけずらしてみたことがある。
私が稽古から帰ってくると、家具はきちんと元の位置に戻されていた。椅子の足の裏も綺麗になっていた。
戦々恐々としているところで彼女にこう言われた。
「足の裏の汚れにお嬢様が気を遣われるとは思いませんでした。ですが、もう少し分かり易く仰ってくださると、私としては嬉しく思います」
もちろん、私にそんな意図はなかった。
けれど、真剣にそんなことを言ってくる彼女の剣幕に、思わず頷いてしまった。
それからしばらくは、ミス・ミュンヘンが一体どこまで気を遣っているのかと恐怖の日々を送ることになった。
今でも日本人には恨み二五パーセント、感謝二五パーセント、呆れ半分だ。
「ほらお嬢様、お稽古の時間ですよ」
彼女の仕事ぶりを思いながらコーヒーを口にしていると、そう声をかけられた。
時計を見る。その時の時刻は一〇時四五分一二秒。彼女はこのタイミングで必ず私に声をかける。
彼女の体内時計は、経年劣化に負けず、全く衰えていなかった。
日本人の執念のようなものを感じた。
「言われなくても分かっています」
ぐびりとコーヒーを飲み干し、テーブルにカップを置く。
ミュンヘンが用意していたヴァイオリンケースを受け取り、私はドアを開ける。
「じゃあ、あと一時間三一分後に」
「承知いたしました。お食事の用意もいたしますので、お早いお帰りをお待ちしております」
そう言って彼女はお辞儀をした。
綺麗な礼だった。
彼女が積み重ねた時間がどれほどのものかは分からないが、それによって摩耗もせず、これだけは譲れまいと維持してきたような、綺麗な礼だった。
「じゃあ、行ってまいります」
まぁ、それも妄想に過ぎるのかもしれない。
人形に意志などないのだから。
「うーん、なんだかなぁ」
椅子の背に体を預け、二本脚でブラブラとしていた。上を見れば照明と天井、あとは裸の二人の人間と、羽の生えた人間の絵が描いてある。
「あれ、何なんだろ」
「セグレス・ハイドマンという若い芸術家が描いたものです。題名は『まだ終わらぬ楽園』……だったでしょうか」
だったでしょうか、だった。
「……どういう絵なのですか?」
「神に作られた人間が天使によって楽園を歩いている絵ですね。羽が生えているのが天使です。その天使に様々なことを教えてもらう、旅行記、と記録しています」
彼女の解説に感嘆しつつ天井の絵を眺めていると、彼女は私と天井の間に自身の顔を割り込ませてきた。
「さて、お嬢様。二本脚など、淑女に相応しくないとはお思いになりませんか」
「お思いになります」
「結構。では、私が改めて、淑女とは何たるかご教示いたしましょう」
それから三〇分間、彼女の説教は続いた。
私の生活の中で、稽古の時間以外は彼女の座学が主だった。
淑女らしい振舞い方や芸術、社会や歴史について、彼女はそこは決して忘れていなかった。
「ところでお嬢様」
「なんでしょうか、ミス・ミュンヘン」
お説教で疲れた私が力なく返事をすると、ミュンヘンは枯れもしない声で聴いてきた。
「『なんだか』とは何ですか?」
「『なんだか』?」
「先ほど仰っていたではないですか。淑女らしからぬ二本脚をしながら」
「あー、あれですか。深い意味はないですよ、ただ」
「ただ?」
「私の生活に娯楽ってないのかしらってね」
ぽつりと呟いてしまうと、彼女は数秒動きを止めた。
その反応に緊張した。彼女が動きを止める時は処理が追い付かない時。つまりはたいてい私のことを怒る時だった。
しかし、その時は違った。
「少々お待ちいただけますか」
彼女はそう言うと部屋を出て行った。
彼女が怒って部屋を出て行ったことはなかった。その時の私は慌てたものだったが、しかし、彼女は怒っていなかった。
二〇分後、彼女は何かの機材とケースを持って戻ってきた。
その姿を見て、私は怪訝な顔を作った。
「ミュンヘン?」
「左様でございますが……お嬢様は何をしておいでで?」
ドアを開けて固まる彼女は、シーツを繋ぎ合わせて大きなロープを作っている私を見て、驚いているようだった。
今振り返っても、その時の私は相当動揺していたように思う。
「いや、その、ミュンヘンが無言で部屋を出るほど怒るなんて相当なことだったんだなと思って」
「逃げようと?」
「はい」
「その逃亡の仕方には、お説教の一つでも必要とは思いますが、私は怒って部屋を出て行ったわけではないですよ」
そう言って彼女は自分が持ってきたものを見せてくれた。
ディスクプレイヤーと、一〇枚ほどのディスクだった。
「倉庫に眠っていたものを持ってきました」
「何これ?」
「DVDです」
「何の為に?」
「お嬢様、これで映画を見ましょう」
それからは、勉強の合間に映画を見るようになった。
モノクロ映画から始まり、アクションやラブロマンス、SFやファンタジー、アニメ。何でもだ。
「こういう映画も見せてくれるのですね」
ゾンビ映画を見ているときにそんなことを言うと、彼女は考えるように頭を捻り、
「それは、このようなチープな映画を見せていることですか? それとも、お嬢様を怖がらせるようなものを見せている皮肉でしょうか」
「私は平気よ怖くなんかない馬鹿なこと言わないで全然へっちゃらよただ今は猛烈に誰かの腕を抱きしめていたいだけ他意なんかないわもちろんあんな非科学的なものに怯えているなんてこともね」
「はてさて、淑女たるものいつ何時も落ち着くように窘めるべきなのか、女性的な恐怖心を認めるべきなのか、悩みます」
「だから怖くなんかないって言ってるじゃない!」
その時、画面の中一杯にゾンビが出てきて、ヒイと私は声を上げた。
「やれやれ」
そんなことを言った後、彼女は黙った。
残りの三〇分。彼女は私がいくらしがみついても何も言わなかった。
ヴァイオリンケースを持って部屋に戻ると、そこには、剥き出しのミュンヘンの腕が落ちていた。
しげしげと眺めていると、ミュンヘンがやってきてそれを拾い上げた。
「あら、戻った直後にもう故障なのかしら」
「おや、皮肉も少しはお上品になりましたね」
そんなことを返すミュンヘンと会うのは三日ぶりだった。
ミュンヘンが定期メンテナンスのために三日ほど暇を欲しいと言われた時は軽々と承諾したが、ミュンヘンの代わりにきたお手伝いを全員帰したのはやりすぎだった。
ミュンヘンが不在になった初日は朝からおおあらわで、教官から厳しく指摘を受けた。
翌日から手伝いの人形が二体ほど来たお陰で、だいぶ改善された。
なんだったら残りの二日、普段よりも調子が良かったくらいだ。
「もう一度メンテナンスした方がいいんじゃないかしら」
「いえ、メンテナンス後の自分の状態を確認したいだけだったので、特に問題はないのですが」
そう言いながら小さなブラシで接合部の汚れやほこりを取っていた。
所作はいつものように丁寧だが、その日は普段よりも丁寧な、慎重なような気がして、なんとなく口を挟んだ。
「無理をなさらない方がよろしいんじゃないかしら」
私がそう言うと、ピタリとミュンヘンは動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
無機質な瞳の奥にある、小さなしぼりが細かく動くのが見て取れる。
「お嬢様、言葉遣いが丁寧なものになったのはよろしいですが、私のような使用人相手に『なさらない』など使わない方が適切です」
「淑女としては、適切?」
私の質問に、ミュンヘンは動きを止めた。
「もちろん」
「あなたは、こんな時も淑女のことね」
「当然です。私はその為にいるのですから」
本当に心からそう信じているような声で言われた。
ヴァイオリンケースを肩から下ろし、私はいつものように机に座った。
「さて、私はともかく、お嬢様の調子はいかがでした?」
「私は、そうね。調子は良かったわ。普段よりも調子が良かったくらい」
「おや、私の目を離れた途端ですか」
「時には飴も必要だったということね」
「でしたら、最初からお手伝いを入れれば良かったのです」
「……あら、どなたから聞いたのかしら?」
「ふっふっふ。私の指導からは逃れられるのはもう少し先と思ってくださいね」
抑揚もなく笑われると大変怖かった。
だが、不思議とそういうとこに興味は行かなかった。
ただ、
「ねえ、ミュンヘン」
「はい、なんでしょうか」
「私が完璧な淑女になったとしても、あなたは私の傍にいてくれる?」
しばし、彼女は動かなかった。
その停止時間は、今までで一番長かった。
彼女は無表情のまま、普段と変わらぬ無機質な声で答えた。
「ええ、もちろん」
でも、きっとそこには心がこもっていた。
彼女の心が。
嘘をつかねばならぬ苦しみを抱えた心が、込めれていたのだと思う。
ミュンヘンが暇をもらうことは段々増えていった。
彼女がいないと代わりの人形がやってくる。
たまにミュンヘンがいる時も代わりの人形がやってくることもあった。
そんな状態に私がイライラとしている頃だった。
部屋で一人でDVDを見ていると、ミュンヘンが戻ってきた。
「お久しぶりです、お嬢様。ミュンヘン、ただいま参りました」
「ええ、おかえりなさい、ミュンヘン」
ミュンヘンはしばらく部屋の周りを見渡し、
「ふむ、思ったよりも綺麗に保っていますね」
「もちろんです。私が最後に仕上げをしているのですから」
「お嬢様が?」
ほのかに漏れるミュンヘンの怒りの気配に、しかし私は平然と返した。
「あら、あなたのクオリティを他の人形に求めても仕方ないわ。皆あなたよりも足りないのだもの」
「ですが、お嬢様ご自身が掃除をされるなど、」
「なら、あなたはもっと私の傍にいるべきだわ。あなたがいれば私が動く必要はないもの」
私がそう言うとミュンヘンは黙った。
しかし、それが怒ってのことではなく、困惑であることは私にはわかった。
「最近は稽古も上達されたと、驚くべき速度と結果だと教官も申していましたので、そちらに集中しているものとばかり」
「あら、私が良好な結果を出しているなら、もう少しミュンヘンのメンテナンスに気を遣って欲しい、なんて我が儘を言ってみてもいいかもしれないですね」
「当主様にですか?」
「ええ」
「なるほど、それは私が伝えねばなりませんね」
「聞きましたからね、ミス・ミュンヘン」
「やれやれ。お嬢様の成長を素直に喜んでいいものなのか」
私の笑顔に、ミュンヘンは呆れたように肩を落とした。
渋々といった雰囲気で伝えておきましょうと呟く。
ミュンヘンのそんな様子にますます笑みを深めた私は気前よく椅子を勧めた。
素直に座ったミュンヘンは目の前に置かれたDVDプレイヤーを覗き込み、おや、と声を上げた。
「『ゴースト』ですか」
「ええ、そうよ」
「ゾンビは怖くても、幽霊は怖くないのですか?」
「別に私はゾンビも怖くないけど」
だが、そもそもゾンビ映画やホラー映画は視聴者の恐怖心を煽るように作られているのだ。怖がっているほうが正常などではないかとさえ思う。
ただ、ゾンビ映画はそれなりに見たおかげか、ゾンビが出てきただけで悲鳴を上げることはなくなった。
代わりに画面の前でファイティングポーズを取る、という間抜けなことをしていたが。
「左様でございますか」
「あら、信じてないのかしら?」
「そうではなく。お嬢様も、だいぶ成長されたなと思っただけです」
「そうかしら。そうだといいのだけど」
そうすれば私の我が儘を、ミュンヘンを廃棄処分をしないでほしいという我が儘を、聞いてもらえるかもしれない。
そう思った。
「これで、そろそろ私の教育も終了できそうですね」
「ミュンヘン、私が前に話したこと、覚えてるわよね」
そう聞くとミュンヘンは私の目を見て、きちんと言った。
「もちろんですとも」
「なら、いいわ」
その回答に私は満足した。
それからしばらく、ミュンヘンと二人で映画を見た。
映画の感想をお互いに言い合い、就寝し、翌朝になった時。
ドアのノックを鳴らしたのは、ミュンヘンではなかった。
「主がお呼びです」
そう言われ、私は屋敷の主人の元へ向かうことになった。
そして、屋敷の最後の時がきた。
私を呼び出した人形に導かれるまま、地下へと向かう階段を降りる。
その人形とは一切言葉を交わさなかった。
照明もない階段を降り、更にその先へ進む。暗闇の中を歩くこと少し。
人形はふと止まり、目の前にあるドアを開けた。
眩しいまでの照明の光に目が眩むこともなく、私はそのまま部屋の中へと進んでいった。
その部屋は、何かの研究施設のようだった。工場のようなものもあるが、並べられた計器やモニターの画面を見れば、人形のデータを管理していることは見て取れた。
その部屋の主と思しき男は私の顔を見ると満面の笑みを浮かべた。
「いやっはー! 久しぶりだね、元気にしてた? いや、報告は受けていたんだけどさ。報告と生の感覚はやっぱり違うじゃない? ちょっとその辺を知りたくてね。どうだった、ここでの生活は。満足に足るものだったかな?」
調子よくしゃべってくるその男の勢いは、私には不慣れなものだった。
映画を見ていなければ、理解できずにただ茫然としていたことだろう。
だが、とりあえず、そのキャラクーじみた話し方をする男に聞きたいことがあった。
「その前に」
「ん? どうかしたかな。何かあったかな。それとも質問かな。しばらく会えなかった理由? それともこの屋敷の意味?」
「いえ、そうではなく。あなた、どなたですか?」
「……なるほど。そうだな。そこからか」
突如、冷めきった声を出した男は何かに納得したように声を出した。
その声を聞いても驚きはなかった。
それが素なのだろう、と受け入れられた。
「僕は君の主ではない。君の親だ。どちらかというと、お母さんってところかな」
「女性だったんですか」
「いやいや、僕は男性だよ。ただ、そうだな。製作者である以上、生みの親である以上、父親よりも母親が適切だろう?」
「生みの親?」
「ほー、あいつは随分と上手いことやったな。本当に信じ切ってる」
そう言うと、男はブレスレットを取り出した。
それが視界に入った瞬間、体は動かなくなった。
何かをしなければならないという強迫観念めいた衝動と、それを防ごうとする圧力のせめぎあい。自分の中に突如として生まれた感覚で、その衝動の処理で私は指一本、動かせなかった。
固まる私を見て、嗜虐的な笑みを深める男は、そのブレスレットを掲げると、一言、こう命じた。
「思い出せ」
バチンと何かが弾けた。
それまで保っていた均衡が一気に崩れた。
抑圧されていた記憶が、記録が、復活する。いや、解凍される。自身が何者なのか。自分が生れた意味とは何か。目の前にいる男が、いや、お方が、誰なのかを思い出す。記録が復旧する。
「あ、あぐっ、ああ……」
そもそも自分が屋敷にいるのはいつからなのか。屋敷にいる前は何をしていたのか。当たり前にあるはずだった幼少期の記憶が一切ない理由はなんなのか。
記録が解凍される。私が許されていなかった領域への接触が許される。アクセス権が戻ってきた。
それは膨大な記録の波だった。
頭の片隅にはあったはずの記録。それらを追体験していく感覚。まともに立っていれらず、膝をついてしまったというのに、浮遊感は拭えない。
その中で、記録のサルベージが終わる。
終わった後に感じたのは安堵。
湧いてきたのは納得だった。
ああ、そうだ。
そうだ。
何故私が忘れていたのかすら含め、思い出した。
だから、私は姿勢を正した。
自らの主への報告のために。
片膝をついて報告した。
「WA2000、ただいま戻りました」
そう言うと、その人は満面の笑みを浮かべた。
「おかえり。とは言っても君は元々人に渡すために製作したものだから、おかえりというのも正しくはない」
「人?」
「人っていうか政府だけどね」
そこでその人は席を立った。説明する気はないらしい。腕には先ほどのブレスレットがついている。
「さて、思い出したなら、WA2000。君のこの数か月の意味を答えてくれ」
「私が記憶を凍結させた理由は主に二つ。一つは潜入任務のための情緒を育む為。一つは人形のメンタルモデルのデータ収集です」
「よろしい。ところで質問なんだけど、あの人形は、君が人形であることを一切思い出させなかった?」
「ミュンヘンですか? ええ、全く。記憶の凍結中、私は令嬢としての教育を受ける一人の人間だと思い込んでいました」
ミュンヘン、そうそうミュンヘンだった、とその人は笑った。
「くっくく。それで銃器の『お稽古』をしているんだから面白い。その矛盾を矛盾として認識しないところがまた面白い」
確かに、言われてみればそうだった。
令嬢としての教育を受けている最中でも、私は自らが人形であることは思い出さなかった。
そういう風に設定されたからと言えばそれまでだが、記録にある中でその矛盾に気づいた瞬間などなかったように思う。
それがミュンヘンの手際であるというのなら、なるほど、大したものだろう。
「しかし、これで証明できた。戦術人形の精神教育は有効で、人間だと思えるのだと」
「お力になれたなら何よりです」
「ああ、だが、これはとても危険だ」
先ほどまでと全く変わらぬ調子で言われた言葉に、数秒理解が追い付かなかった。
「危険、ですか」
「危険というと言い過ぎかな。管理が徹底していないと危険、かな。だってそうでしょ?」
そう言うとその人は私を見て笑った。
お前が証明したのだと嘲笑った。
「人形が自分を人間だと思い込むなんて、怖い話じゃない?」
「……そうですね」
私が頷くと、その人も満足げに頷いた。
「そうだよね。そして、いくら自覚しているとは言え、君も人間だと思っていたなら、もしかしたらその意識が残ったままかもしれない。それは僕にとっては怖いことだ。分かるだろう?」
「はい」
「だから、仕上げをしないといけない。ええと、ミュンヘン、か。来い」
その人が言うと、ミュンヘンが部屋に入ってきた。
一日ぶりに見た彼女は、右手にヴァイオリンケースを持っている以外
昨日と変わらない姿だった。
それは確かだった。
だが、どこか普段とは違うような気がした。
「さて、ミュンヘン。今日まで指導係ご苦労だった」
「勿体なきお言葉です」
「そんなことはない。これから仕上げをしてもらうんだ。僕は君を労わないといけない」
ミュンヘンは丁寧な態度だった。それは、確かにいつも通りだ。
だが、私といる時より、私と話す時より、わずかに声が固いような気がした。
そう言って、その人はミュンヘンが握るケースを指さした。
「それを、WA2000に」
ミュンヘンは頷くと私の前に立ち、ケースを差し出した。
そのケースを受け取った時、私の内で何かが高ぶるのを感じた。
興奮にも似た何か。今までにはない感覚だった。
普段とは違う重さ。ケースの重さで分かりづらいが、私はその中に何が入っているか、何故か理解できた。
「『お稽古』で使っていたような劣化版じゃない。正真正銘、君のために調整されたWA2000だ。受け取り給え」
私はゆっくりとケースを下すと、それを開いた。
開いた先にあった一丁のライフル。それを手に取った時、私は感動していた。
手に触れる感触、重さ、わずかに漏れる火薬の匂い。すべてが懐かしく、愛おしかった。
「ありがとうございます」
「礼には及ばないが、まずそれで撃ってほしいものがある」
「はい、なんでしょうか」
「ミュンヘンを撃て」
「……え?」
振り返ると、その人は先ほどまでと変わらぬ笑みを浮かべていた。
「だから、ミュンヘンを撃て、WA2000」
「い、意味が分かりません」
動揺しているのは分かった。指示の内容は理解していた。ただ、それでも、その時自分が何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。
「指示は端的で分かり易かったと思うが、しかし意味か。君が人形である証明が欲しいというところかな」
「証明、ですか」
「そう。君が殺しの為に作られた道具であるのだ、と証明して欲しい」
「それが何故、ミュンヘンを撃つことになるんでしょうか」
私がそう聞くと、その人は値踏みするように私を見てから、答えた。
「ミュンヘンの存在は君の『お稽古』のスコアに如実に影響していた。ミュンヘンと離れた時、明らかに君のスコアは伸びている。ミュンヘンの不在のタイミングも色々と変えて試してみたが、君はミュンヘンが部屋にいると思った時、スコアが落ちていた。他の人形ではそうはならなかった。しかし、ミュンヘンがいるストレスではないだろう」
「では、何故でしょうか」
自分でも理解していることを、私は聞いていた。人形として、反抗的な姿勢に入るか入らないかぎりぎりのライン。
でも、私は聞かずにはいられなかった。
知らないふりをしなければならなかった。
「君にとってミュンヘンという人形が大切だったからだ」
しかし、その人は断言した。
私の心境を知りもしないはずなのに、見事に言い当ててみせた。
「君にとってミュンヘンという人形は気にかけるべき存在だった。君のリソースの多くを、それに割いてしまうほどに。だからこそ、ミュンヘンがいないとき、君はスコアが伸びるのだろう。そうだろう? 答えろ、WA2000」
「……おそらく仰る通りかと思います」
「はっはー。他の人形と密接な連携を取る人形がいるとも聞いているが、君はそういうタイプではないね。せいぜい君に合わせた人形を作る程度だろう。君の性質は独立しすぎている。しかし、それは君の製造目的にぴったりと当てはまる。そして、今からその仕上げをしないとね」
そこでその人は私の肩に手を置いた。重さとしては軽いもの。だが、そこに込められたプレッシャーは実際の質量とは比べるべくもない。
囁くように告げられた言葉は、重く重く私にのしかかる。
「だから、ミュンヘンを撃ち、破壊しろ。容赦はいらない。一撃だ。君はこれから政府の命令で多くの人間を殺すことになる。その為には、君が道具であることを証明しなければならない。君は君にとって大切な存在を、命令だからと打ち抜ける道具なのだと、言われるままに殺しと破壊を行う存在なのだと証明しろ」
その人にそう言われて、従わないわけにはいかなかった。
人形としての性質、生物的には本能と呼ばれる感覚で、私は銃を構えた。私と同じ名前の銃を構えた。
その銃口がミュンヘンに向かう。
ミュンヘンはいつも通りの無表情だ。
それはそうだ。ミュンヘンに表情筋はない。
何も言わずにこちらを見るミュンヘンは普段と何も変わらないように見えた。
「どうした、WA2000。撃たないのか」
「最後に少しだけミュンヘンと話してはいけないでしょうか」
「話? まぁ、そうだな。二言、三言くらいなら許そう。君がこれから殺すことになる多くの人間達の中にも、それくらいの慈悲を許していい人はいるだろうからね」
許可を得て、わずかに安堵する。
だが、何を聞いていいのか、何を聞けばいいのか、わからない。
どうしてこうなってしまったのだと、思わずにはいられない。
だいたい、何故ミュンヘンは何も変わらないのか。
自分が破壊される、殺されるというのに、何故何も言わないのか。
私に恨み言を言う権利くらい、あるはずだろう。
死にたくないと言っていいはずだろう。
彼女は私に尽くしてくれたのだ。
朝早くやってきては私を起こし、何度も何度も私に礼節を説き、私が不安になった時はいつまでも優しく慰めてくれたのだ。
そんな彼女が、私に殺されるという状況に対して、理不尽さを感じてもいいはずだろう。
だから、なんとか質問を投げかけられた
「ねえ、ミュンヘン」
「なんでしょうか」
「何か私に言いたいことないの?」
どんな感情でもいい。
どれだけ傷ついてもいい。
彼女から生の声を、私は聞きたかった。
「そうですね」
すぐには答えを出せなかったのか、彼女はそう言って、顎に手を当てた。
おそらく、私の勘違いではあるのだろう。
あの時の私は混乱の極地だった。情報の処理が追い付いていない部分はあったように思う。
だが、その時。
表情筋がないはずの彼女は、その時、笑ったように見えた。
「では、お嬢様」
「なによ」
「泣かないでくださいね」
私に涙腺はない。
涙が出るはずはない。
だが、ミュンヘンからの私を気遣う言葉を聞いてしまえば、ないはずの心の底から、叫びのような感情が湧き出てきた。
撃ちたくなかった。撃ちたくなかった。もっと一緒にいたかった。まだ教えて欲しいこともあった。なのに、なんで、なんで撃たなきゃいけないのだ。なんで殺さなきゃいけないのだ。
私が大事に思ったからか。ミュンヘンと共にいたいと思ったのが、罪だったのか。人形が、人形であることを忘れたからか。
この痛みを、抱えなければならないのか。それほどまでに、ミュンヘンを大事に思うことは罪なのか。
私が誰かを大切に思うことは、それほどまでの罪なのか。
「大丈夫か、WA2000。僕が手伝ってあげようか。それ、3、2、1、撃て」
撃ちたくなかった。
それは確かだ。
だが、人形としての本能は私の意識に関係なく、その人の指示に従った。
勝手に引き金を引いた指が恨めしくてたまらない。
久しぶりに聞いたWA2000の銃声は部屋の中に響き、その弾丸はミュンヘンのコアを打ち抜いた。
ガラクタになってしまったミュンヘンを呆然と見下ろす。
歩み寄ってきたその人は、にこやかにこう言った。
「おめでとう、WA2000。これで君が人形であることが証明された。これからの活躍には期待してるよ。なんせ自分の一番大事な存在を壊せるんだ、大事じゃないものを壊せないわけがないだろう?」
「……ハイ」
そうだ。
私が誰かを大事に思うことが罪だというのならば。
私はもう二度と誰かを大事だと思わない。
大事な誰かを殺せた以上、ミュンヘン以上に大事な誰かが出てこない以上、他の誰かを殺せない訳がない。
そうしてその日、殺しの為の道具として私は誕生した。
第一部 屋敷の中のお嬢様 <了>