それからおよそ半年。自室。寝巻き姿のうらら。
窓際に置いたテーブルに座って、ぼんやりと夜空を眺めながらこれまでを回想する。
軽度の男性恐怖症になっていたケイ。るいを受け入れられるかどうか心配だったが、それはいつの間にか解決していた。どうやらふたりの間でなにかあったらしい。ずっと近くにいたうららからすればその程度の変化はお見通しだ。そのためかちょっとるいと距離が近すぎるような気もするが、将来のことを考えればそれくらいでちょうどいいのだと自分を納得させてる。
再会したルキ。どこかよそよそしさがあって距離感が掴めなくなっていたものの、るいのおかげでまた絆を深め直すことができた。また幼いころのように屈託なく笑いあえる日々がもどってきたのだから、るいにはただただ感謝するばかりだ。うららを取り巻く人間関係はおよそ順風満帆。そして肝心要である自分とるいの関係についていえば。
(じゅんちょうに積み重ねている……、とおもいますわ……)
我ながら歯切れが悪い。
しかしそれは決してるいのせいではなく、なにもかも自分のせいだとわかっている。るいに触れられれば触れられるほどに、うららは自分という人間がわからなくなるのだ。衝動は熱情に飲み込まれ、熱情は冷めることのない微熱となり、いまはもう、ただただ切ない。
(恋の"病"とはよくいったものですわね……)
はう、と熱いため息をつくうらら。
そろそろ寝ようかとおもったところで、トントンとドアをノックする音。ルキが「いっしょに寝よう!」とやってきたのかとおもったが、その声は意外な人物だった。
「うらら、まだ起きていますか?」
「お母さま……。はい、起きておりますわ」
うららが応じると同時に開かれる扉。鋭い瞳に、華咲の女を象徴する赤いロングヘア。ネグリジェにガウンを羽織った母が部屋に入ってきた。
「寝る前にすこし話をしにきました。かまいませんか?」
「はい、だいじょうぶですわ」
問いかけの形式ではあるが、断るという選択肢がなかったことはいうまでもない。華咲家において当主は絶対の存在。実の母として以上にうららは敬っていたし、そうするように厳しく躾けられてもいた。そんな母が夜になって改まった雰囲気で部屋にやって来たのだ。
いったいどんな話をされるというのか。
「今日はただの母娘の語らいです、楽になさい」
「はい……」
テーブルの向かい側に座った母からそういわれて居住まいを崩すが、依然として緊張している。
「それで――、彼とはうまくやれていますか?」
「え?」
「あなたの良い人のことですよ。どうなんです?」
「え……ええ! それはもちろん!」
さっきまで抱いていた緊張はどこへやら。るいのことを饒舌に語るうらら。超然としているようで実はおもいやりのある態度に胸キュンだったり。ケイやルキにもすっかり受け入れられていて一安心なこと。荒れた食生活で心配だからお弁当のお世話をしてあげたい等々。そういった話をひとしきり聞いた母は、表情こそ変わらないがどこか物足りなさそうな様子だった。
「なるほど、彼があなたから見て魅力的な人物であることはよくわかりました」
「ええ! それはもう!」
「それで――、それだけですか?」
キョトンとするうらら。質問の意味がわからなかった。
「それだけ……とは?」
「あなたが彼にぞっこんであることはよくわかりました。それで具体的に彼からなにかされたことは?」
具体的。或いは直接的。つまりはもっと物理的な接触が伴うような話を聞きたいらしい。
「ええっと……」
目を泳がせながら記憶を遡っていく。軽く思い返すだけで体温が上がるのを感じた。
「耳元でささやかれたり……、あ、あと首筋の臭いをかがれたり……、手もつなぎましたわ!」
「ほうほうほう……なかなかいい感じじゃないの。それでそれで?」
食い気味の母。口調もいつもの敬語ではなくなってるが、うららも気にしない。
「あとは……」
「あとは?」
「つい先日、るいさまに背中から抱きしめられましたわ!」
あの時のるいは様子がおかしかった。
初めて畑野家にお泊りした際、父親の話を打ち明けられたときと同じ雰囲気をまとっていたのだ。置いていかないでと追いすがる幼子のような、そんな健気な雰囲気。超然とした佇まいの内に、傷つきやすい繊細さを持ち合わせた少年であることを知っていた。だから今度は身を委ねることで「わたくしはここにいますわ」と示してみたものの、それでるいの心をすこしでも癒やすことは出来たのだろうか。華奢で女の子みたいだとばかりおもっていたが、実際ああして腕の中に抱かれてみると意外と筋肉質でたくましくて、やはり男の子なのだなと感じたものだ。
ここだけの話、いまもその感触を思い出すだけで身体が火照る。
「なるほどなるほど……ということはもちろん、そのまま押し倒されたわけですね!」
「え?」
「え?」
「いえ、それだけですけれど……」
「それだけ? それだけとは、耳元でささやかれて、首筋の臭いをかがれて、手をつないで、背中から抱きしめられて、それで終わり?」
信じられないものを見るような表情で何度も問いかけてくる母。
ようやくうららの言葉が本当だと信じたとおもえば、左手でドンとテーブルを叩いた。
「そこまでヤッてなぜ押し倒さない!」
「えー!?」
母のあまりの剣幕におもわず引くうらら。
「あ、あのお母さま? わたくしたちまだ中学生ですよ……?」
「それくらいの年頃ならもう……! いやでも男子のほうは女子よりも成長が遅かったのだったわね……和也さまも中学生のころはまだ……うふふ」
一瞬過去に思いを馳せたのか、うっとりとほほ笑む母だったが、すぐに表情を引き締める。
「それはそれとしてさっさと押し倒しなさい。場所のセッティングが必要ならばいくらでもいいなさい。華咲グループはそのためなら全面支援を惜しみません」
「ええ……」
毅然とした母の態度は、正しく華咲グループの頂点に君臨する女帝の姿であった。
そりゃまあうららだって年頃だ。そういうことに興味はある。しかしそれはそれとして、現状のプラトニックな関係をもうすこし満喫したい気もちもあるのだ。
「だいたいまだ1年もないつきあいですしそんないきなり迫られても困るっていうかそもそもるいさまは草食系のかわいらしい殿方であってそこが魅力的というかー……」
もじもじと言い訳を並べるうららだが、母はそれにわりと理解を示した。
「……まあ、そのあたりのあなたの気もちは母にもわかります。しかし人の心も、身体も、移ろいゆくもの。ほんとうにその人物がほしければ、どこかで強引にふる舞う必要があることだってあります。あなたも華咲の世継ぎであれば、それは心得ているはずです」
「それは……」
リーダーに必要なのは判断力。目的のためなら相手を逃げられない状況に引きずり込む悪辣さも必要だ。幼いころから散々仕込まれてきたからよく分かっている。が、いかんせんるい相手にそれはためらいがあった。もっとゆっくり関係を深めていきたいという気持ちのほうが強い。
そんなうららの内心を見透かしたのだろう。母は前髪からうなじにかけて右手で撫でた。
「うらら」
母の改まった態度に、うららはふたたびとっさに居住まいを正す。
「あなたにお祖母様の過去をお話します」
お祖母様――。それは華咲うららにとってはいくぶんの複雑な意味を持っている。というのも、うらら母にとっては本来なら祖母、うららにとっては本来なら曾祖母にあたる人物だからだ。
うららにとって本来なら祖母にあたる人物、つまり"うらら母の母"は、うらら母を出産すると同時に身罷ってしまった。そのためうらら母は祖母を母親代わりに育ってきたという。
うらら母の祖母は自らのことを「お祖母様」と呼ばせており、それはごく単純な血縁関係から見れば当然のことに過ぎない。しかしうらら母はうららにも「お祖母様」と呼ぶように躾けており、そこにうらら母の複雑な心境が察せられた。
(お母様は「お祖母様」についてかたくなに語ろうとしない)
そして華咲の女帝たる母がそのような姿勢を取れば、他の人々に問いかけても話すことはない。華咲うららは、人が聞かれたくないことを好奇心で掘り返そうとしない分別はある。それでも己の血縁者に対して興味を持つなというのは難しい話で。まして周りが隠そうとすればより好奇心を抱いてしまうのもやむを得ないことだろう。
うららは母がいまこの瞬間に「お祖母様」の話をしようとしていることに深い意味を察しつつ。ようやく何か聞けることに好奇心がうずいていた。
けれど母の言葉に、一瞬にしてその好奇心がしぼむ。
「寝取られたのです。想い人を」
その想い人がどうなったのかは黙して語らなかったという。
知っていて口を閉ざしたのか、それとも華咲の手がとどかないような国に行ってしまったのか。
いずれにしたところで半世紀以上前の出来事であり、それを知る術はもうない。
「傷心のままクラスメイトと形ばかりの籍を入れたものの、なかなか子宝を授かることができなかったそうです。そしてようやく生まれたひとり娘は……」
華咲を"日本の華咲"から"世界の華咲"に大躍進させたのは、お祖母様の手腕である。
お祖母様――、華咲さらら。その名は歴代華咲家当主の中において、始祖に次ぐ偉大な存在として語られていくことになるだろう。
いや、すでに神格化されているといっても過言ではない。しかし私生活は決して恵まれたものではなかったことを、いま初めてうららは知った。
だれもがお祖母様のことを話さなかった理由もいまなら理解できる。
「お祖母様がご苦労されたことはよくわかりましたわ。ですが、ひとつだけ反論させてくださいまし」
「……聞きましょう」
バンッ! とテーブルに手をついてうららは立ち上がると、力強く声を張り上げた。
「るいさまは決してそのような……、ほかの女性と逃げたりなんかしませんわ!」
それはうららにとって初めて母に刃向かった瞬間。
だが惚れた男を間接的に貶されて黙っていたら、華咲の――いやひとりの女として廃る! 震えそうになる膝を押さえ、うつむきそうになる顔を必死で上げながら、うららは母に挑むような視線をぶつける。果たして母は――、何事もなかったように話を続ける。
「……あなたが選んだ殿方について私から意見することはありません」
つまり先の言葉に一切の含みはない、ということだった。椅子に座り直して内心ホッと胸をなでおろすうらら。
「ただし、あなたのやることについては別です。なぜもっと攻めないのです」
「な、なぜといわれましても……」
「そうだ、華咲秘伝の媚薬があるのでそれをお互いの食事に混ぜてみたらどうです? 私もいちど使ってみましたがあれはとてつもなく効きましたよ。……ああ、高校卒業するまで子作りは自重しろといいましたが、それも撤回します。私の娘だからさっさと押し倒すとばかり思っていたから自重を促しましたが、どうもあなたはお祖母様似で奥手のようですからね。こうなれば話は別です。べつに中学生で産むことになってもかまわないんですよ? そこら辺は華咲のほうでいくらでもうまく処理しておきますから――」
「ちょ……ちょちょちょっとおまちになってくださいまし!」
お祖母様の衝撃的な過去からこれである。会話の展開に緩急つきすぎでついて行けない。
「どうして……どうしてお母さまはそこまでお焦りになっているのです? まだるいさまと知り合ってから一年も経っていないのですよ? いえ……、お祖母様のことがあるから不安になっているというのはわかります。わかりますけれども……」
だとしてもいささか大げさではないだろうか。失礼は百も承知だが、祖母がたまたま本当に運が悪く殿方を奪われてしまっただけともいえるからだ。でなければ、母がいうところの「華咲の女は運命の人を本能で見つけられる」という言葉の信憑性も一気に失せてしまう。
眉をしかめるうららに、母はふたたび前髪からうなじにかけて右手で撫でた。先ほどお祖母様の話をする前にしたのと同じ動作、どうやら母が逡巡する時のクセらしいと、うららは察する。
「お祖母様が若いころのお写真を見たことは?」
「……ありません」
「なら見せてあげましょう」
母はそういってテーブルの上に置かれた内線電話に手を伸ばす。
執事たちの控室に繋がっており、用事があればいつでもすぐに呼び出せるという寸法だ。
「もしもし……あら、化野。これはちょうどいいですね。先々代様の……ええ、そうです。いますぐこの部屋まで持ってきてちょうだいな」
化野。母が幼い頃から勤めており、同時に最も信頼を置いている家令の老執事だ。神がかった察しの良さの持ち主であり、今回も母がたいして説明するまでもなく目的を理解したらしい。
十分と経たず部屋までやってきて、その手に持った分厚いアルバムをうやうやしくテーブルの上に置いて去っていった。
「開いてごらんなさい」
母にいわれるがまま、立派な装丁のアルバムをおずおずと開いた。一体、母は自分になにを見せようとしているのか。
最初のページ。うららはおもわず目を見開いた。淡々とした母の声が耳に入る。
「特に目元をごらんなさい。華咲の人間は私のような切れ長ばかりで、あなたやお祖母様のようにパッチリとした眼の持ち主は珍しいんですよ。……どうです?」
六つ切りサイズの白黒写真。洋装で椅子に座ったツインテールのお嬢様が写っていた。
母からいわれた目元のみならず、それは見れば見るほどに――
「――あなたそっくりでしょう?」