外からセミの鳴き声が聞こえる。
社務所兼自宅の居間。ちゃぶ台を挟んだ先で目をまんまるさせていたしずくは、ふいにそっと目を伏せた。
「……畑野さまは、お変わりになられましたね」
「え?」
「はじめてあった時は、なんでもかんでも自分の思うがままに物事をすすめようとする、わがままで強引な人だとおもいました」
「ひどい」
評価がボロボロにもほどがある。しかし出会いを振り返ればまあ残当というほかない。
実際問題あのときの自分のテンションはいささかおかしかった。
「ふふ。でもそれはほんとうに最初だけですよ? すぐにほんとうはやさしい人だとわかりました。こうやって言葉を重ねていくうち、歯に衣は着せないようで、とても言葉を選んでいることも。そして……人との距離を、臆病なほど気にしていらっしゃったことにも」
ためらいがちにそういうしずく。臆病。否定する余地はなかった。
人に無関心を装っていたのも、結局は自分のトラウマに触れられることを恐れていただけだと、いまは自覚している。
「……なんてわかったようなことを口にしてますが、妾は気がつかなかったんです。気がついたのは、畑野さまがお変わりになられてからでした」
「……そんなに変わった?」
「ええ、とても……とてもやさしい眼差しをするようになりました。さびしげな目をしている、とは以前からおもっていたんです。でも、ふりかえってみれば、ああ、この方はずっとおなじ目をしていたんだな、と気がついて」
変わったとしたら、きっとうららと過ごしたあの夜がきっかけだろう。天真爛漫でときどきわがまま。けれどだれかのために何かができる女性なのだとあのときるいは知った。
(僕は……うららにふさわしい男といえるんだろうか?)
自分のことしか考えられない男が、あの少女の隣に立てるのか。そう自問自答することがあれから増えたのだ。それが自分の振る舞いの変化につながったのかもしれない。
しかしそう何度も「やさしい」といわれれば、さすがにいささか気恥ずかしくなってきた。反応に困っていれば、「ところで――」としずくは続ける。
「どなたが畑野さまを変えたのでしょうね? すこしばかり、嫉妬してしまいます」
ふいにゾクッと背中に冷たいものが走った。風邪のひき始めだろうか。
そんなことを考えている間に、しずくはるいの隣に移動すると膝を揃えて座った。なんだろうか。るいもまた釣られるようにしずくと向かい合うように座り直す。
空気がしんと引き締まるのを感じた。それはきっと名家のお嬢様としての顔だったのだろう。
「畑野さまは、いつまでも煮え切らない妾に手をさしのべてくださいました。礼には礼を尽くすのが礼儀。こちらこそ――、どうか妾の巫女舞をみてくださいませ」
しずしずと、指を突いて頭を下げるしずく。あまりにもかしこまった態度におもわず困惑してしまったが、それも一瞬。これは彼女なりの誠意であり、決意の証なのだろう。
ならば――、るいもまた誠実に受け入れるだけだった。
「うん、よろこんで」
***
多祇神社の例祭は9月末日にある。
近年は9月でもまだまだ夏真っ盛りといった風情だが、この年は秋を感じさせる過ごしやすい気候だった。夜7時過ぎ。例祭が行われている分社ではなく、本社の石段をるいは登っていた。
当然ながらひと気はなく、時おり木々のこすれる音と虫の鳴き声に混じって、かすかに花火の音が響いてくる。例祭では花火も打ち上げるそうだ。
(分社からはかなり離れてるのに、ここまで聞こえてくるものなんだ)
しずくは毎年、このかすかな打ち上げ音を聞きながらここで過ごしていたのだろうか。両親も分社へ行ってしまった中、たったひとり、このひと家のない本社で。どれだけこの本社を大事におもっていても、いずれは分社を彩るあの喧騒の一部に自分も組み込まれてしまう。それにどれだけの寂しさや虚しさ、やりきれなさを感じていたのだろうか。
境内にたどり着いた。闇夜に染まる中、神楽殿だけは煌々と灯りがついている。拝殿までの通り道にあるからいつも横目にはしていた。しかし妻入り屋根がやたら立派な小屋程度にしか認識していなかったのが本音。それが正面の扉を開け放たれ。天井や屋根の周囲に設置された淡い橙色の照明が点灯されただけで、かくも幻想的に見えるのだから不思議といえよう。
正面に移動するが、設置された階段を二段上がった先にある舞台にはまだ誰もいない。腕時計を見れば約束の時間より20分も余裕があるのだから当然のことか。
(奥のほうには、縦長の白い布がいくつも張り下げられているんだな)
これらの準備はしずくひとりでこなしたのだろう。改めて並々ならぬ熱を感じる。
神楽殿を眺めて暇をつぶすが、突っ立っているだけだと肌寒い。両手を口元に当てて「はー」と息をあてる。しゃん。と、ふいに音。視線を舞台にもどす。いつもの巫女服の上にひらひらとした衣装――なんでも千早というらしい――を羽織ったしずくが、奥から静かにあらわれた。
頭には白い花のついた冠をつけ。両手で重ねながら掲げた神楽鈴と榊の枝を押し立て。ゆっくりと舞台の中央に向かって移動してくる。その所作からは静謐な雰囲気が漂っており、身じろぎひとつすることでさえ罪深いことのように感じさせられた。しずくは正面を向くと、しずしずと神楽鈴と榊の枝を掲げたまま会釈する。神楽鈴を持った右手と、榊の枝を持った左手を広げると、鈴を鳴らしながら舞い始める。
しゃん。しゃん。しゃん。
ゆるやかに。よどみなく。流れるように舞う。
派手さは一切ない。知識がないるいからみれば単調とすらいえる動きだった。
しゃん。しゃん。しゃん。
だというのに、一瞬たりとも目を離せないような緊張感がある。
そこに、しずくがどれだけの修練を詰んできたのかが伝わってくるのだ。
しゃん。しゃん。しゃん。
鈴の音が聞こえるたびに、意識からしずく以外が消えていく。
明かりが消え、神楽殿が消え、暗闇のなかにしずくだけが浮かび上がっているような、そんな錯覚。あれはほんとうに――、るいが知っている少女なのか?
しゃん。しゃん。しゃん。
華やかで――、神秘的で――、そしてどこか妖しげな雰囲気にるいは飲まれていた。
ここは夢か現か幻か。もはや自分がどこにいるのかも定かではない。ただ、いつまでもこの舞を眺めていたかった。しかし――、夢はいずれ覚めるものだ。
しゃんっ。
ひときわ大きく鈴の音が響くと同時に、るいはハッとする。
明かりはついており、神楽殿はそこにあり、舞台に立っているのはるいがよく知る少女。正面を向いたしずくは、ふたたび神楽鈴と榊の枝を重ねた状態で掲げると、深く頭を下げた。
***
「本社と分社。これはそのまま本家と分家の関係になります」
単純な上下関係でいえば本家のほうが上。しかし基本はおたがいの力を合わせて社家を守り立てていくものだった。本家が途絶えそうになれば分家から養子をもらうし、逆もまた然り。建前として分家が本家を立てる必要はあったが、内情は極めてゆるい上下関係だったという。本来なら無人で事足りる分社に、立派な建屋を用意して管理を任せたことからも元々の仲の良さが伺える。
「だから本社と分社があらそう理由なんて、じつはどこにもないんです」
神楽殿の照明も落とされ、境内は月明かりにだけ照らされている。
いつもの巫女装束にもどったしずくと、拝殿の石段に隣り合ってるいは座っていた。
「じゃあ、氏子が暴走しただけ?」
「いえ、原因はまちがいなく多祇一族にあります」
しずくはハッキリという。
祖母の祖母。すなわち高祖母の世代。本家と分家の当主同士の仲がひどく悪かった。
「どうして」
「男性問題と聞きましたが、なにぶん70年前の話ですから事実かは……」
さておきその確執が、祖母世代にまで引きずられていったのが問題の根本だったという。
「ただ高祖母は本家を継いでまもなく帰幽なされてしまいました。ここまでなら本家と分家というよりも、高祖母世代のこじんてきな確執でおわりになる、はずだったんです」
「なにがあったの?」
しずくは一瞬だけ視界を泳がせて、意を決したように話す。
「……曾お祖母さまがかけおちをしたんです」
それもしずくの祖母を生んですぐのことだったという。
まるで、跡継ぎは残したのだから最低限の義務は果たしたといわんばかりに。
「当主がそんな形でいなくなったわけですから、これは不祥事です。だからといって、表向きなにかが変わったわけではなかったそうですが」
まず氏子の結束がそれで揺らぐことはなかった。しかし一族内でのパワーバランスは微妙に変化したという。端的にいえば、本家が必要以上に分家の顔色をうかがうようになった。
「どうしてそんなことに? 嫁に逃げられたことで残された曾お祖父さんの肩身がせまかったの?」
「肩身がせまかったのかはわかりませんが、その方はさっさと離籍して実家に帰っていきました。もちろん祖母をのこして。その代わり高祖父はまだ健在でした。高祖母亡きあとに采配を振るっていた実績もありますし。次期当主の祖母が成人するまでは、ふたたび当主代理として采配をふるうことにどなたからも異論はなかったといいます。しかし……」
結果として後継者の育成に失敗してしまったことに、すっかり気力をなくしてしまっていた。
「そうでなくとも元から意志薄弱な方だったと……。もっとも半世紀前の、それも伝聞ですから話半分に聞くべきでしょうか」
いずれにせよ高祖父が当主代行をしていた時代、本家の力が大きく削がれていったのは事実だった。保守的な氏子は分家のいいなりになる本家の現状に文句をつけたそうだ。が、いかんせん肝心の高祖父がのらりくらりと振る舞うせいで、しまいにはあきらめざるをえなかったという。
ここでひとつ、氏子たちの中に不和の種が植え付けられた。
「ところで高祖母と仲がわるかった分家の当主は」
「ええ、健在でした。まさにそのかたが采配を振るっていましたよ。……とはいえ、客観的に彼女のおこないに悪意があったかといえばありませんでした。本家が機能不全におちいっている以上、分家がかわりに働くのは当然のことですから」
なんにせよ、多祇神社そのものは表向き順調に続いていった。
「けれど、ここでさらに不和の種がまかれてしまったのも事実」
分家の当主と、祖母の折り合いが非常に悪かったのだ。「母(曾祖母)がかけおちして逃げたのはあいつのせいだ」と生前の祖母は憎々しげに語っていたという。
かくして、ここに本家と氏子の、分家に対する敵意がひとつになる土壌は生まれた。
どこか嘆くような、或いはあきらめたようにしずくは続ける。
「そしてとどめを刺すように、というべきなのか迷いますが……。分社のちかくに国鉄の駅ができました」
高度成長期と連動して動き出す都市開発計画。新興住宅地に移り住んでくる新住民たち。彼らはこぞって分社を訪れていった。本社の周囲には古くからこの地に住む氏子しかおらず。新興住宅地の新住民にしてみれば心理的にも距離的にも訪れるには不便な神社だったのだ。
「それからは以前におはなししたとおりです。例祭が分社と合同になり、それもいつしか分社だけでやるようになりました。……本社と分社の争い、畑野さまはどのような結論にいたりましたか?」
「そりゃあ、もちろん……」
ここまでの話。そして寂れた本社。結論としては分社との争いに負けたという答えしか出ない。
しかし、事実はるいの予想を裏切るものだった。
「この争いはとおからず本社の勝ちということになります」
「どういうこと?」
おもわず眉をしかめたるいに、しずくは淡々と説明する。
「分家には後継者がいないんです。現当主は老齢。現在すでに母と父が引き継ぎ……じじつじょうの併合ですね。その準備に入ってます。分家が消滅して本家がのこる。いずれはあそこが本社になるでしょう。これ以上に明確で、わかりやすい勝敗のつきかたはないでしょう?」
たしかにそのとおりだ。だが、ひとつ疑問が残る。
「……分家に後継者がいない。だから、本家が併合することになった。ここまではわかるよ? でも、いずれはあそこが本社になるというのはどうして?」
「だって、本家が分家を併合したところで、いまさら本社に人があつまるわけでもないでしょう?」
そういってさびしげにほほ笑むしずく。悲しいほどシビアな結論だった。
「いずれは正式にここから御神体を遷座することになるでしょう。そうすればあそこが本社。形はかわっても多祇神社はこれからもつづいていく……。そういうことです」
多祇の家に生まれたからには、なによりも重視すべきは多祇神社を維持していくこと。たとえ世の中がどう移り変わっていこうとも、本家と分家の人間関係に問題が生じようとも、そこを違えることだけは決してありえないのだ。
「だから――、これは妾の感傷なんです。おさないころから生まれ育ってきた……。長い歴史をきざんできた本社の神楽殿で……。だれかのまえで舞いを……」
そこまでいいかけて、しずくははたと何かに気がついたような表情を浮かべた。すると口元を押さえてくすくすと笑い始める。
「しずく?」
るいが怪訝な表情をうかべると、しずくは「いきなり笑いだしてごめんなさい」と謝るが、まだ笑いが収まらない様子だ。ようやく落ち着くと、やおら立ち上がる。
「……だれかじゃないんです」
まるで確認するように、噛みしめるように、しずくは言葉をつむいでいく。
「好きなひとのまえで舞いたい。いつしかそうおもうようになっていたんです」
しずくは楽しくてしかたがないという様子で石段をしばらく歩いて、振り返る。
「大好きなこの神社で、大好きな人に、妾の舞を見てもらいたい。そんな願いを、畑野さまは叶えてくださったんです」
遠く背後には鳥居。その上にはまんまるとしたお月さま。だれもいない境内で、月明かりに照らされた巫女服の少女だけが立っている。どこか非現実的な光景で。まっすぐと向けられた黒い瞳に、るいは吸い込まれそうだった。
「大好きです。畑野さま。妾と、結婚を前提にお付き合いしてください」
ほほ笑みとともに求婚したしずくの姿は――、まるでこの世のものとはおもえないほど神秘的でうつくしかった。