カチャ……カチャ……と食器の音が響く。
眼前の皿に盛られた肉料理をナイフで切り分けて口に運ぶ。口内に広がる複雑な風味が、手間と技術を投じられた料理だということだけを物知らぬるいにも理解させる。料理を持ってきた際に給仕さんの説明をちゃんと聞いておくべきだったかなと、静かに後悔。
「どうだねるいくん、うちの料理はお口にあうかな?」
眼前。テーブルの上座からそう問いかけてきたのは、小太りでヒゲを生やした温和そうな男性。
「はい、おいしいです」
「そうか、それはよかった」
るいの言葉に頬を緩める温和そうな男性――うららの父。
先ほどからうららの父に話を振られ、それにるいが答えを返すばかりだった。隣にすわっているうららはまったく喋らない。それどころか緊張感を漂わせて食事と向き合っている。いつもの快活さはどこへ行ってしまったのか――、などという疑問の答えはハッキリしていた。
るいから見て右斜め前。うららの目の前の席にはうららの母がいるからだ。
(この人が華咲グループの支配者……)
華咲グループの頂点である会長職は長女継承。つまりはそういうことだった。
うららと同じく鮮やかな赤髪をストレートにしており、鋭い目つきが海千山千の気配を感じさせる。子持ちの人妻とはおもえない若々しい美女であり、うららも成長したらこうなるのかと思った。そんなうらら母は黙々とナイフとフォークを動かして食事をしている。ただそれだけなのに威圧を感じてしまうのだから、相対しているうららの受けている圧力はいかほどか。
この日、畑野るいは華咲家のディナーにお呼ばれしていた。一体どうしてそうなったのか――、るいはほんの数時間前の出来事に思いを馳せる。
***
今日も今日とて裏庭でシートを広げて昼食を取っていると、うららの様子が変だった。
いつもならあれやこれやとハイテンションに喋りながら食事を取っている少女が、今日は黙々とサンドイッチを摘んでいるのだ。なにかあったのかとケイに視線で問いかけてみたものの、こちらも困惑の表情を浮かべるばかりだった。
「……あの、るいさま」
するとうららがためらいがちに口を開いた。
これまたいつもの自信に溢れた態度から想像も出来ないことだ。
「なにかな?」
「今晩、お暇ですか?」
「授業の復習して寝るだけだけど……それが?」
るいの返答に、うららは先ほどよりも決意に満ちた表情になる。
「それなら――、我が家でディナーはいかがですか? お母様とお父様が、るいさまとぜひ一度お会いになりたいそうなんですの」
そういったうららの瞳は、いつになく真剣でいて――不安に満ち溢れたものだった。
親同伴のディナー。まともに考えれば、るいがうららの伴侶としてふさわしいか否か値踏みする場であろう。不愉快な思いをする可能性は十分にあるし、るいにとって断ることは有効な選択肢のひとつだ。そもそもまだうららの求婚を受け入れたわけではないし、そのような試練に立ち向かわされる義務も筋合いもない。いささかドライに考えればそういうことになる。
「うん、いいよ」
しかし自然とるいの口は動いていた。うららのそんな顔をいつまでも見ていたくなかったのだ。
「ほんとうですの!?」
ぱあっと顔を輝かせるうらら。よほどるいに断られることを恐れていたようだ。
ディナーにるいが参加するか否かが、或いはすでになんらかの試練であったのかもしれない。
小市民の自分が、当たり前のように他人を試せる人らと相対して耐えられるのだろうか。にわかに胃が重くなったが、ここで「やっぱりなしで」というほど小心でもなかった。
「うん。それでうららの家はどこにあるの? 何時に行けばいい?」
「いえ! わざわざご足労いただくまでもありませんわ! 夕方の6時にお迎えにあがりますから、それまで自宅でゆったりどっしり待っててくださいな!」
「服は……」
「制服で結構ですわ!」
いわれたとおり制服を着て自宅マンションでゆったり待っていたところ、ぴったり6時にベルが鳴らされた。扉を開ければ、おめかししたうらら。
フリルをふんだんにあしらった赤色のドレスにハイヒールを履いて、いつもツインテールにしている髪は赤いフリルの付いた髪留めでサイドテールにしている。
こんな庶民向けマンションに似つかわしくない、お姫様のようにかわいらしい姿のうららは、スカートを摘んでペコリと会釈した。
「ごきげんようるいさま。お約束どおりお迎えにあがりましたわ。さあ――、お手をどうぞ」
差し出された手を取ると、うららはほほ笑んでマンションの外に停めてある黒塗りの車までエスコートしていく。革張りのシートに座るとうらら手ずからシートベルトを付けてくれる。細い指先。整えられた爪。ほんのり香るいつもとちがう匂い。間近に顔。唇に紅が引かれている。頬や目元も薄化粧されており、それがいつもよりどこか大人びた雰囲気を醸し出していたのだと知る。
「るいさま、締め付けが苦しくはありませんか?」
「だいじょうぶ」
「もしも苦しくなったらいつでもいってくださいな、ゆるめてさしあげますわ」
うららは隣に座ると自分のシートベルトをつけ、「お出しして」と運転手に声をかけると同時にスーッと車が走り出す。
窓を流れゆく景色を見つめていると、ふいに自分がうららに見惚れていたことに気がついた。
「あれがわたくしの家ですわ。るいさま」
声に反応してフロントガラスに視線を向けた。
門があり、その向こうは木々が鬱蒼と生い茂ったまごうことなき山である。
「……家?」
「ええ、あれがわたくしの――、華咲の本家ですわ」
るいがあっけに取られている間に車は門を抜け、曲がりくねった山道を登っていく。5分ほど走るとようやく建物が見えた。東京に赤坂離宮と呼ばれる迎賓館があることを、いつかテレビで見たことがある。大きな門の向こう側に、それとそっくりな白亜の宮殿が建っているのだ。
「わたくしたち一家はふだんあの建物で暮らしておりますのよ」
門を抜けて正面玄関の前で車が停まった。扉の前には、タキシードやメイド服に身を包んだ男女がずらりと並んで立っている。うららが先に車から降りると、一斉に「おかえりなさいませうららさま」と出迎えの声をあげた。
「ただいまですわ。さ、るいさま。どうぞわたくしの手を取ってくださいな」
るいはふたたびうららに手を取られ、たくさんの男女が頭を下げている中、宮殿の中へとエスコートされていく。入ってすぐのエントランスにはバカでかいシャンデリアがあって、わあここだけで僕の家が4つ入りそうなくらい広いなぁとまで考えたところで、るいは自分の生活と比較することを一切やめることにした。不毛すぎる。
文字通り住む世界がちがう。というかここまで来ると次元がちがう。うららが"特別な人"だと理解していたつもりだが、まだまだ認識不足だったようだ。
「お母様たちはすでに食堂でお待ちになってるはずですわ」
分厚い絨毯を踏みしめて廊下を歩いていく。
天井にはシャンデリア。壺や絵といった"いかにも"なインテリアを視界の端に捉えながら目的地に到着する。ここが食堂だと彫刻の掘られた扉が開かれれば、講堂を思わせる縦長の広い部屋。数十人は軽く詰められるであろう縦に長いテーブルが置かれており。片側に小太りでヒゲをはやした温和そうな男性と、鋭い目をした赤のロングヘアの若々しい女性が並んで座っている。
「ご紹介しますわ。わたくしのお父様とお母様です。お父様お母様、この方が畑野るいさまですわ」
「やあ、キミがるいくんか。どうぞ座ってくれたまえ」
温和そうな男性――うららの父にいわれるがまま向かい側の席に座るるい。隣にはうららが座った。いささか機先を制されてしまったが、るいは改めて自己紹介をする。
「はじめまして畑野るいです。本日はお招きいただき……」
「ああ、そういう堅苦しいあいさつはいいさ。今日はいきなり無理をいってすまなかったね。その分といってはなんだが、おいしい料理をごちそうさせていただくよ」
うららの父が両手をパンッパンと叩くと、食事を乗せたワゴンを押したメイドがやってきた。
かくして華咲家でのディナーが始まる。
***
それからおよそ二時間あまりが経過した。
依然として、うららの父から話を振られてそれにるいが応じる以外の会話がないまま、ディナータイムは進んでいく。
「学校でのうららはどうだい?」
「クラスがちがうので普段の授業態度とかはよくわからないです……。でも、体育の授業ではホームラン打って大活躍してましたよ」
「そうなのか。あの娘は昔から運動神経がよくてねぇ」
共通の話題といえばやはりうららや学校のことである。うららもチラチラと視線をよこして会話に混ざりたがっていたが、それよりも母親が気になってなにもいえないようだった。
「母をごぞんじなんですか?」
「うん。うちのグループ企業に勤めていてね。大きなプロジェクトにいくつも関わっていると前々から聞いてるよ」
中には予想外の情報もあったが、これだけ年も離れて立場も違えば話題などすぐに尽きてしまう。次第にカチャリ……カチャリ……と食器の音だけが食堂に響くようになっていく中、とうとうデザートまで食べ終わった。食後の紅茶――なんでも貴重な茶葉が使われているそうだ――を飲んでいると、うららの父。
「どうだいるいくん、お腹のほうは満足できたかね?」
「はい。ただ……、ちょっと量が多かったですね」
「ははは、わかるよるいくん。僕もこの家に来たばかりの頃は食べるのになかなか苦労したものさ。華咲家の女性は代々健啖家だからねぇ」
そういってうららの父は朗らかに笑う。
「……もしかして毎日こんな豪華なフルコースを?」
るいの言葉を聞いて、なにやら懐かしそうに目を細めるうらら父。
「これが豪華……。僕もはじめて華咲家のディナーに招かれた時はそう思ったものだなぁ……」
どうやら毎日これらしい。この人が小太りなのにはそういう理由があったようだ。
そして取りも直さず華咲家での力関係が改めて察せられた。
「うん、そうだよ。そしてキミがうららのお婿さんになれば、毎日これが食べられるというわけさ」
「! も、もう、お父様! 結婚だなんて話がはやいですわ!」
出会った初日に求婚してきた娘がなにやら殊勝なことをいってるが、言葉とは裏腹にうららの表情は満面の笑みだった。とまれ黙りこくっていた少女が口を開いたことで、場の空気は一気に華やいだ。しかしその直後、室内の空気が一変する。
「うらら」
それは娘と同じく非常によく通る声だった。
唯一ちがうところがあるとすれば、場の空気が一遍に引き締まったことだろうか。
華咲家の支配者にして女帝たるうらら母に呼びかけられたことで、うららは一瞬にして緊張した面持ちにもどる。
「ひとつだけ、母としてあなたにいっておくことがあります」
母に鋭い眼差しを向けられ、うららがごくりと唾を飲み込む音が隣にいるるいの耳にもハッキリ聞こえた。いったい母としてうららに何を告げるというのだろうか。るいもまた固唾をのんで待ち構える。やがて厳かに、うららの母にして世界屈指の大企業グループを従える女帝は、その唇から言葉を紡ぐ。
「子作りをするならしっかり避妊なさい」
ぴしりと、先ほどまでとはちがう意味で空気が引き締まった。凍ったともいう。この空気で真っ先に口を開いたうららは、やはり女帝の血を引き継いでいるのだろう。
「な……なにをおっしゃってますのお母様ー!?」
頬杖をついて早口でぶつぶつと喋り始めるうらら母。
そこには先ほどまでの威厳などまるでなく、さながら酒場で愚痴るOLであった。
「そりゃ私だって最初は母親らしく真剣にその子のことを値踏みするつもりだったわよ。世界に冠たる華咲の家がいつまでも咲き誇るためには、いくら恵まれた土壌があってもそれに適した種がなければどうしようもないもの。でもねぇ……その子と貴女が手をつないでるのを見ておもっちゃったのよ。さすがに16で出産は早すぎたかしらって。あの時ゴムがないからとちゃんと拒んでくださったのを無理やり押し倒さないで素直にペッティングで済ませるべきだったんじゃないかって。そうすれば私も和也さまともうしばらくイチャイチャ……」
「ほ、ほんとうになにをおっしゃってますの……。お、お父様! お母様がこわれてしまいましたわ!」
「ははは……」
おろおろするうららに、何故か遠い目をして乾いた笑いを浮かべるうらら父。
うらら母、なんと16でうららを産んでいた。つまり現在29歳である。若々しいと感じたのは印象だけでなく実際若い。
しかしうららの母もおかしなことをいうなとるいはおもった。
(子作りをするのに避妊してどうするんだ?)
だって子どもを作るんだろう? るいはうらら母の不可思議な言動に首を傾げているのだった。
***
華咲家でのディナーはそのまま騒がしく終わった。
帰りも車で送ってもらったが、自宅マンションの手前で停めてもらって夜道を歩いている。
うららに「すこし歩きませんか?」と誘われるがまま、肩を並べて、点々と街灯に照らされた道をテクテクと。
「わがままを聞いてもらって、ありがとうですわ」
「こんなのはわがままのうちに入らないよ」
「るいさまは心が広いのですわね。またひとついいところを見つけてしまいましたわ!」
他愛のない会話を繰り広げていると、ふいに言葉が途切れる。
うららが何かをずっと聞きたそうにしていることには気がついていた。
いよいよ来るのかと待ち構えていれば、いつもより低い、不安気なトーンで問いかけてくる。
「……あの、るいさま」
「なに?」
「……今日のディナーはどうでしたか?」
結果からいえば、事前に身構えていたのは何だったのかと思うほどに和やかな食卓だった。だから正直に答える。
「楽しかったよ。お父さんはよくしてくれたし、ご飯もおいしかったしね」
「そうですか! たのしかったですか! よかったですわ!」
その場に立ち止まってるいの両手を取ると、笑顔で飛び跳ねるうらら。サイドテールの赤髪が上下に跳ねる。全身を使ってあらわすほどの喜びっぷりにいささか疑問を抱くるいだが、はたと気がつく。これまで自分が品定めされる可能性ばかり考えていたが、逆もまた然りだったということに。視界の端には、るいが暮らしている15階建てのマンションが見える。
ここら一帯でも特に大きなマンションだが、それでも総敷地面積では華咲家の足元にも及ばないだろう。いくらザ・ポジティブガールのうららであっても、このような目に見える格差を見れば色々思うところもあったはずだ。華咲家がるいを認めるかどうかより、るいが華咲家に引いてしまうことこそを実は恐れていたのかもしれない。うららは飛び跳ねるのをやめると、ふたたび不安げな、今度は緊張の滲んだ声で問いかけてくる。
「それと、るいさまから見て――、華咲の家はどうでしたか?」
声のトーンから察するに、どうやらこちらの質問が本命だったらしい。こちらもまたるいは正直に答える。
「すごく幸せそうだった。夫婦仲も良いし、とってもいい家庭だと思ったよ」
母がいて、子がいて、父がいる。
ありふれた家族の幸せに貴賤はないことをるいは実感したのだ。そしてそれは、自分にとってもはや二度と感じることの出来ないものだと、改めて思い知らされもした。
「さま……るいさま!」
「ん?」
にわかに意識が遠くに飛んでいたらしい。
視線をもどせば、うららがこれまで見たことのない不機嫌な表情になっていた。
唇を結んで、キッと眉を吊り上げて、手を掴んだまま身を乗り出す。
「わたくしたちなら――、お母様とお父様にも負けない幸せな家庭を築けますわ!」
いまだかつてない、うららの真剣な表情がすぐ目の前にあった。
なぜだか直視していられなくて、目をそらすと茶化すようなことを口にしてしまう。
「それは……、勘ってやつ?」
「ええ! そのとおりですわ!」
「ふーん……」
「むむむ、もしや信じておりませんわね? あまり華咲の女の勘を舐めないでほしいですわ!」
「いやいや、信じてるよ」
「なら、どうしてわたくしの目をいつもみたいにしっかり見てくれませんの! わたくしはここにおりますのよ!」
そういって顔を近づけるうらら。
近づけられればられるほど、るいは逃げるように顔をそむけてしまう。
「むむむむ……! ならば!」
顔を両手で掴まれたとおもった次の瞬間だった。チュッと音を立てて、唇にやわらかいものが触れたのは。なにをされたのかるいが認識するよりも早く、うららは離れていく。
「ほーほっほっほ! わたくしの勘を信じようとしないるいさまへの罰ですわ!」
ある程度の距離を取ったところで、高笑いをするうらら。
街灯に照らされた顔は真っ赤に染まっていた。
「それではるいさま! またあした! 学校でお会いしましょうね!」
一方的にそういうと、車に向かって駆けていくうらら。
そのちいさな背中が見えなくなったあとも、るいはただただ呆然と立ち尽くしている。
ようやく人差し指で唇をなぞってみれば、指先にうっすらと紅がついていた。