マンションのエントランスに人が行き倒れていた。
パーカーにホットパンツ。背中にはリュック。うつぶせでばったり。キレイな金の長髪がふわりと床に広がっている。暇を持て余した土曜の午後。ちょっと散歩に出かけようとしたら、いささか厄介な出来事に遭遇してしまった。
(……これはパトカー? 救急車? それとも両方呼べばいいの?)
にわかに逡巡していると、くぐもった音が聞こえてきた。音の発生源は行き倒れている人から。ぐぅ~と、まるでお腹が鳴るような音。次いでどうにか、といった様子で顔だけ持ち上げる。青い目をした、おそらくは同い年くらいの少女だった。
「うぅ……お腹……へった……よ……なにか食べさせて……」
そして正しく、少女はお腹が減っていたらしい。あまりにも哀れみを誘う声であった。
ここで老婆心が出たのか、はたまた好奇心が芽生えたのかはわからない。結論としてるいは少女をひっくり返すと、両脇に手をかけ、ずるずると引きずって自宅まで運んだ。
「いただきまーす!」
居間のソファーに座らせると、冷蔵庫に向かう。例によって母が山ほど作り置きしていったスパゲッティを皿に盛って出したところ、あっという間に平らげた。なかなか図太いことにおかわりまで要求してきたので、求められるがままに出せば見事完食である。
「うーん! ごちそうさま! とってもおいしかったよ!」
「それはよかった」
その食欲に半ば呆れつつ、うららも毎回これくらいの量のサンドイッチを食べていたことを思い出す。ひょっとして中学生ならこれくらい食べるのがふつうなのか? いやまさか。さておき、るいは食器を台所の流し場に置くと、代わりに麦茶をグラスに注いでリビングまで持っていく。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
ソファーに座ったまま差し出されたグラスを受け取る少女。るいは自分の分のグラスをソファー前のテーブルに置くと、少女の隣に座る。
ごくごくと美味しそうに麦茶を飲む少女。白い喉が上下していく。金髪碧眼。と書けば外人を想像するが、彼女の顔の造形はどちらかといえば日本人寄りだった。いずれにせよ非常に整った容姿で、天使のような、という形容詞がふさわしい可憐な美少女だ。
どうも中学に進学してからというもの、彼女のような尋常ではない美少女とばかり遭遇しているような気がする。自分自身はたいした容姿でもないくせに女性を見る目ばかり肥えてしまって、我が事ながらこれから先の人生がおもいやられた。
少女は麦茶を飲み終えてテーブルにグラスを置くと、そんなるいの視線に気づいたらしい。
「ん? もしかしてルキの目と髪が気になるのかな?」
「うん。染めたりカラコン入れてたりするわけじゃないんだよね?」
るいの言葉に一瞬きょとんとしたが、すぐに楽しそうに笑いだした。それはそれは楽しそうに。
「あははは! あなたはすごくしょうじきものなんだね! そのとおり! これは日本人のパパとアメリカ人のママからもらった自慢の髪と目だよ!」
「そうなんだ。すごくキレイで、天使みたいだ」
「サンキュー! ほんとうにあなたはしょうじきものなんだね! でもそれをいうなら、あなたもなかなかキュートなフェイスだよ! カワイイ!」
そのままぎゅっと豊かな胸元に抱きしめられた。
谷間に顔が埋まり、頬からつたわるやわらかで弾力ある感触。ハイテンションの少女。
「カワイイ! カワイイ!」
肉感的な両腕による抱擁は思いのほか力強い。るいが「離してくれ」といっても声がくぐもって聞こえないのかなんなのか。離してくれる気配がないのでしばらく好きにさせることにした。
「キュート! カワイイ!」
少女の胸の中は素直に心地よかったものの、顔が"かわいい"という評価はいささか不本意なものというのもウソ偽らざる本音である。
ようやく抱擁から解放されて一息つくと、少女は笑顔で問いかけてきた。
「あなたのお名前はなんていうの?」
「畑野るいだよ」
「るい? ルキの名前もルキっていうんだよ! 竹上ルキ! る仲間だね!」
「そうなんだ」
「そうなんだの!」
テキトーにうなずいたが、なんだ『る仲間』って。これまで出会ってきた友人知人の中にはいなかったタイプだと察する。テンションが高いのはうららもおなじだが、この少女の場合はなんともマイペースというか、天然の臭いがした。
「るいるいはいくつなの?」
「るいるい?」
「ニックネームだよ!」
「そうなんだ。12歳。中学1年生だよ」
「え!?」
「?」
「るいるいって同い年だったの? 年下だとおもってた!」
無邪気に驚くルキだが、これに驚いたのは表面に出さないだけでるいも同じだった。パーカー越しに見える胸の膨らみや、腰回りやホットパンツから覗く太ももの肉付きを見るかぎり、最低でも自分より上級生だと思っていたのだ。身長だって自分よりずっと高い――、いやこれはべつに珍しくもなんともなかった。同級生女子の9割は自分より背が高い。
どうしてか無性にささくれた気持ちになったが、るいは話を続ける。
「で――、どうしてうちのマンションのエントランスで行き倒れていたの?」
「えっとね? ルキは2日前にアメリカから日本にもどってきたんだ!」
「もどってきたってことは」
「数年前までは日本で暮らしてたんだよ! それでね。幼なじみのお家にステイさせてもらうことになったんだけど、まちがえて3日後の日にちをつたえてたの。だからむかえもなくて、行くところもなくて、フラフラしてたらここで倒れちゃったんだ!」
「……えーっと、むかえが来てないなら呼べばよかったのでは? スマホくらい持ってるでしょ?」
「スマホはアメリカの自宅にわすれたの!」
「幼なじみの電話番号は……」
「おぼえてない!」
「じゃあ、直接その幼なじみの家に向かうのは……」
途中まで口にして、るいもいい加減その質問の無意味さに気がついた。
「……住所を知らなかったのか」
「よくわかったね! お金も必要最低限しかもってこなかったから、1日目にちかくのビジネスホテルに泊まったらなくなっちゃった。初めて自分でマネーを払ってしったけど、ホテルのステイ代ってあんなに高かったんだねー。それで昨日のホテルのモーニングが最後だから……、1日半くらいなにも食べてなかったんだよ!」
しみじみと語るルキ。天然というか行き当たりばったりというか図太いというか。しかしそれで行き倒れていたのだから危なっかしい。
「ん? ってことは、いまのルキは一文無しの宿無しってこと?」
「そうだよ!」
実に力強い返答であった。
「……これからのご予定は?」
「んー、とりあえずまた外をフラフラして、明日のPM6:00時には空港にもどって幼なじみと会うつもり!」
仮にここで「そうなんだ。じゃあね」といえば、少女は笑って、後腐れもなくそのまま家から出ていくだろう。そしてそこら辺で野宿をするのだ。まちがいない。メリット・デメリットで語るならば、そうなることでるいにデメリットはないが、かといってメリットもなかった。ゆえに次のセリフがこうなったのは、るいにとって極めて自然なことだった。
「明日までうちに泊まっていかない?」
「え?」
ルキはきょとんとした表情を浮かべる。
ずっと笑顔でハイテンションだったルキのそんな顔は、やけに新鮮に見えた。
「いいの?」
「いいよ。どうせ母さんは今日も帰ってこないだろうし」
「でも、ルキには返せるものがないよ?」
「それもいいよ。一泊くらいならどうってことないし」
「でも迷惑になるよ?」
「迷惑っていうなら、さんざんパスタを食べておいて今さらでしょ」
「あ……、たしかに!」
どうやら今さら自分が迷惑をかけたことに気がついたらしい。
もっともるいも迷惑だとはおもっていなかったが、「だから気にしないで泊まっていきなよ」とつなげるつもりだった。
が、そう都合よく動かせるほどルキは単純な存在ではなかったことを知る。
「じゃあ両方とも返さなきゃ……うーん……。そうだ!」
ガバっと。ルキに肩を掴まれたと思ったら、そのまま押し倒された。
すぐ目の前にはルキの顔。青色の瞳はさも最適解を見つけたとばかりにキラキラと輝き、頬は興奮からかほんのり赤く染まっている。
「身体でサービス……ご奉仕するよ!」
「身体で?」
「そう、身体で! ルキにやってほしいことならなんでもしてあげる!」
あともうすこし前に突きだされたら、そのまま顔と顔がぶつかりそうなほどに顔が近い。汗と混じって甘い匂いが鼻腔をくすぐった。視線の端、ダボッとしたパーカーの少し開け放たれた首元からは、同級生たちとは比べものにならないほど発育した大きな乳房が覗いて見える。
「じゃあ――」
「うん!」
「――お皿とグラスを洗ってくれる?」
「おやすいごようだよー! 今日一日、立派にハウスキーパーしてあげちゃう!」
「いや、そこまでは求めてないけど……って聞いてないか」
元気に台所へ向かっていったルキの背中を眺めながら、るいは起き上がるのだった。
***
かくしてハウスキーパールキの活躍がはじまった。
「お夕飯は手作りサンドイッチだよー!」
「おいしい」
「お風呂の用意できたよー!」
「ありがとう」
「お背中流すよー!」
「それはいいです」
「えー」
「えー、じゃありません。ほらもどって。脱ぎかけてる服もちゃんと着て」
すりガラスがはめ込まれた風呂場の扉の向こう側から不満気な声。
ご飯を作ってもらったり風呂の用意をしてもらったことは素直にありがたかった。が、さすがにそんな介護じみたことまでやってもらう必要はない。肌色が多めな影をすりガラスに浮かばせながら、ガラッ……とわずかに開けた風呂場の扉から顔を覗かせるルキ。ドキドキした様子だったのに、るいが浴槽に入ってるのを見た瞬間ざんねんそうな顔をしたのは気のせいか。
「でもふたりで入ったほうが節約にもなるよ?」
「節約? んー……、できるならしたほうがいい……、のかな?」
にわかに悩むるいをみて、顔を輝かせるルキ。チャンスとばかりにまくし立てる。
「いっしょに入ったらルキのお胸でるいるいのお背中洗ってあげる! 男の人はそうされるとハッピーになれるんでしょ?」
「どこで得たのその知識? 節約のことなんてふっとんじゃったよ」
なんだその発想は。だいたいちゃんと洗えるのかそれ? るいは疑問だった。
「もう、いいからもどりなさい」
「えー。あ! もちろんそういうことやってあげるのはるいるいだからで……」
「いい湯だなー」
とまあ――、こんな感じであっという間に寝る時間となった。
るいは自室のベッドに横たわって毛布をかぶると、いつものようにだれとなくつぶやく。
「おやすみ……」
「おやすみだよ!」
訂正。今日はルキがいっしょのベッドで寝ているのだから、ルキに向かって口にしたのだ。
当初はるいがリビングのソファーで寝て、ルキを自室のベッドで寝かせるつもりだったのだが、「不用心だよ」と怒られてしまった。ルキがあまりにも気安いからついついこちらも気が緩んでしまったが、そもそも知り合ってまだ1日という関係である。
そのような相手をプライバシーの塊である私室にひとりで放り込むというのは、万が一のことがあったところで「不用心」の謗りを受けても文句はいえまい。
彼女もなかなかどうして常識的なところがあるものだと感心したが、しかしそれがどうしていっしょのベッドで寝ることになってしまったのか。
「……狭くないの?」
「るいるいはスモールだからだいじょうぶだよ!」
「……そうですか」
しかしふつう、年頃の少女というのは異性といっしょのベッドに入るのは嫌がるものではないだろうか。これはやはり男として見られていないと考えるのが自然か。それで困ることもないというか、むしろ変に意識されていた方が困るのだが。よもや知り合った初日に惚れられただなんて考えるだけで自意識過剰であろう。だいたいそんな珍事はうららだけで十分である。
ふいにぎゅっとやわらかな感触に左半身が包まれた。顔だけ左にたおせば、ルキの笑顔。
「るいるいあったかーい! いい匂いがするー!」
肩と左足に両手両足を絡めて、がっしりとホールドされている。
抱きまくら畑野るいの誕生であった。
「ねえ、るいるい」
「なに?」
「るいるいは、もうちょっと身近な人に甘えてみてもいいとおもうの」
それはあまりに脈絡のない言葉。
けれども一瞬、るいは返事に窮してしまった。
「……どうして、そうおもったの?」
「うーん、どうしてだろう? ひょっとしたら、るいるいがルキと似てる気がしたから、かな」
どういう意味か問いかけるよりも早く、ルキは「それだけだよ!」とひときわ眩しい天使のような笑顔を浮かべる。そこに頑なな色が察せられて、るいは今度こそなにもいえなくなった。どうも天然なだけの少女という認識は改める必要があるらしい。
「……それじゃ、改めておやすみ」
「おやすみなさーい!」
目をつむる。心地いいやわらかな感触。すすり泣く声が聞こえてくる。弔問客が途絶え、ふたりきりになると母は自分を手招きして胸元に抱きしめた。母が泣く姿を見たのはあれが初めてのことだった。母の肩越し、視線の向こうには飾り紐のついた青い袋に包まれた桐箱が置かれており、そのさらに向こうには――。ピコン、と音が鳴るのと同時にるいは目を開く。枕元に置いておいたスマホをもぞもぞと右手で取り、画面に表示された文字を寝ぼけまなこで見つめる。
『おはようございますわ! るいさま! お約束どおり、これからあなたのうららがお迎えに上がりますわー!』
朝っぱらからテンションの高いメッセージに一気に目が覚めた。
「約束……、ああ、そういえば今日だったっけ」
なんでも遠くで暮らしていた幼なじみが戻ってくるから、空港まで迎えに行くらしい。それにるいも同伴させるという話だった。金曜日の昼食時を振り返る。
『なんで僕も?』
『それはもちろん、るいさまを自慢したい……ではなく! 彼女とはこれから深く長い付き合いになるでしょうから、一秒でもはやくるいさまに顔合わせしていただこうかと思いまして!』
『なるほど』
『それでは日曜日の朝に車でお迎えにあがりますわ! るいさまはどうぞ、ででーんとかまえてお待ちになっててくださいな!』
時計を見れば朝の8時である。休日とはいえいつもよりすこし遅く起きてしまった。これから、ということはうららは今から家を出たのだろう。ディナーの時うらら家を訪ねたときは、自宅マンションからおよそ1時間はかかったはずだ。それだけあれば身支度するのは余裕か。そう――、るいだけなら余裕なのである。問題は、るいを抱きしめながらスヤスヤ眠っているルキだった。
「ルキ、朝だよ」
「うう……ん。まだねむいよぉ……」
「もう朝の8時だよ。僕も今日はこれから予定があるから、ほら早く起きて」
「わかったよぉ……」
るいから両手を離してのっそりと上半身だけ起き上がるルキ。あくびをしながら伸びをしている少女を横目に、るいも身体を起こしてベッドから下りる。身支度のため洗面所に向かおうとしたらピンポーンという音が部屋に鳴り響いた。まさか、とおもえば同時に右手に持ったスマホからピコンという音。液晶を見ればうららから『扉の前にいますわー!』の文字。
「……はやくない?」
「迎えにあがる」というメッセージを送ってきた時点でマンションの下にいたようだ。
こうなったら家に上げてしばらく待ってもらうしかなかった。玄関に向かってドアを開ける。
「おはようございますわ!」
朝から元気いっぱいな赤髪ツインテールのお嬢様が立っていた。
赤のフリルやリボンをあしらったドレスに身を包んでおり、頭にはフリルの付いたカチューシャをつけている。
「おはよううらら。それとごめん。さっき起きたばっかりなんだ。これから身支度するから、それまでリビングで待っててくれるかな?」
「わかりましたわ!」
「ごめんね。幼なじみとの待ち合わせ時間はだいじょうぶ?」
「お気になさらずとも結構ですわ! こうなることも想定して予定より10時間はよゆうをもって来ましたから!」
「なるほど」
胸を張って答えるうらら、その隙のない行動にるいは頼もしさを感じた。
そのうららの後ろからひょっこりと見えるは長身のケイ。ぶかっとしたシャツにズボンという出で立ちだ。なぜだか疲れた表情を浮かべてブツブツつぶやいている。
「……ねえ、こういうのってふつうは待ち合わせ時間をさいしょに決めておくものじゃないのかな? それに合わせて行動するもので……そもそも10時間も早く来る必要あった? 空港まで車で2時間くらいなんだし、もっと遅く来ればるい君に身支度する余裕をあげられたんじゃ? ねえ、ボクおかしいこといってるかな……?」
「おはようケイ」
「……うん、おはようるい君」
幼なじみとの再会となれば当然ケイもやって来るだろう。
「さ、ふたりとも上がって」
「おじゃましますわー! ふふ……これがるいさまのご自宅の匂いなのですわね……あの時はたんのうする余裕がありませんでしたが……くんかくんか……」
「なんだか変態っぽいようらら……。っていうか待ち合わせ時間を伝えなかったのって、あわよくばるい君の家に上がるのを狙って……? ……おじゃまします」
喜色満面のうららとなにかをあきらめた表情のケイが玄関に足を踏み入れる。その時だった。背後からねむそうな声。
「るいるいー……どちらさまぁ……?」
「あら? お家の方がいらっしゃったんですの? コホン。お初にお目にかかりますわ、わたくしは華咲……」
お嬢様スマイルを浮かべたまま固まるうらら。視線を追って振り向けば目をこすりながら立っているルキ。母のパジャマを貸していたのだが、彼女は『胸が苦しいから』と上のボタンを締めていなかったことをおもいだす。そのため両肩がずり落ちて肉感的な二の腕と、収まりきっていなかった胸元がむき出しになっている。
ふたたびうららに視線をもどせば、そんなルキの姿を目を見開いて『信じられないものを見た』とばかりに凝視していた。はて――、いつかどこかで、これと似たような光景を見たことがあるような気がするぞ。たしかテレビで再放送していた古いドラマ。あれは不倫をテーマにしていて――、そうだ、あれの妻と愛人がばったり遭遇してしまったシーンそっくりなんだ。
ドラマの通りなら、これから待ち受けているのは修羅場――
「る……ルキじゃありませんの! 空港にいるはずのあなたが、どうしてるいさまのお家にいらっしゃるんですの!?」
――には、なりそうになかった。
どうやらこの三人が幼なじみだったらしい。世間というのは、ひょっとしたらるいが想像しているよりもずっと狭いのかもしれない。