少女の家を出て、無人の大橋を歩く。
それから例の橋の行き止まり、聖職者の獣の領域の入り口を示す門の前に立つ。
……すると、その時。
「?」
××××は門の脇に赤い光を見つけた。
そしてそこには使者がいて……なにやら鐘を鳴らしているようだった。
「……っ」
唐突に、けれどかすかに。
荷物の中で、何かが震えた。
「……これか?」
誰にともなく独り言を口にして、ポーチの中からあの古びた鐘を取り出した。
そしてそれはまるで、使者が鳴らす鐘に共鳴するようにしてかすかに震えていたのだ。
「…………」
アイリーンの言葉を思い返す。
そして鐘についてなにか口にしていた……そう、確か助けになるなどと言っていたことを思い出し、××××はそれを鳴らしてみる。
すると頭の中にあった記憶や意識、そういったごく当然のもので、けれどそれらとは明確に違う何かが抜き取られたような喪失感が××××の中を駆け巡る。
そしてそれは、今の××××には啓蒙が失われたのだと分かった。
しかしそれも一瞬のこと。
共鳴し、共に音を大きくしていく二つの鐘の音が臨界点を迎え、消失した。
そして。
「思ったより早かったじゃあないか。……それで、狩りだね?」
気がつけばそこにはアイリーンがいた。
まるで魔法のように一瞬で現れた彼女だが、少し以前と違うところがある。
そう、彼女の姿はかすかにほの青いオーラを纏っているのだ。
「なんだ、随分とバカ面じゃあないか。それは古狩人を呼ぶ鐘で、あたしはそれに呼ばれてきただけだよ」
「呼ばれてきた?」
聞き返す××××に、アイリーンは呆れたように息を漏らす。
「その鐘は共鳴した者の精神を召喚して助けにする道具なんだよ」
「……そんなことが」
「ああ、普通はできないね。だから啓蒙を使うんだろうよ」
それは一時真実を歪めるために、真実を見る目を失うということなのか。
これもよく分からないが、彼女が助けになってくれることは確からしい。
「この体のあたしは死んでも死なない。元の場所に戻るだけさね。……まぁ、お互い死なないんだから気軽にやらせてもらうよ」
クククと喉の奥で笑って、アイリーンは門をくぐる。
「さぁ、行こうか」
「……ああ」
その言葉に答えて、××××も門を続く。
すると空気を揺るがすような咆哮が聞こえて、凄まじい重量感をもって大橋に聖職者の獣が降りてきた。
「ったく獣狩りに付き合わされるとはね……」
そう口にして、アイリーンが歪んだ短刀を双剣の形に変える。
それから××××の方を振り向き、問いかけてきた。
「あんた、怖気づいてないだろうね?」
「……ああ、大丈夫なようだ」
目の前に現れた聖職者の獣。
全身を白くくすんだ毛が覆う、巨大な姿。
肋(あばら)が浮き痩せさばらえたその上半身と、不釣り合いなほどに強靭な二本の足。
そしてその足に比べても余りに大きく、まるで炎のように毛が波打つまるで取ってつけたように巨大な左腕。
双腕の先から伸びる爪は鋭く禍々しく、鹿の頭にも似た角が生えた頭部は絶えず威圧を振りまいている。
その全容をこうして目にするのは初めてだったが、それでも今の××××はそう怯えてもいなかった。
それはアイリーンがいるからなのかも知れないが、××××自身の肉体が強化されたこともあるだろう。
「……来るよ」
「ああ」
短く答えて、××××は地を蹴り横に飛ぶ。
するとそこに、獣の左腕、歪なほどに巨大なそれが叩きつけられ、地を揺らした。
「…………っ!」
「なにをぼさっとしてるんだい。あたしがあいつの気を引く。あんたはそのノコギリであれをズタズタにするんだよ。足を潰して少しでも頭を近づけてくれれば……そうさね、後はあたしがやる」
アイリーンのいまいち要領を得ない指示を受けて、××××は動き出す。
敵は大きく獣毛に覆われた体も強靭なのだろうが、やれるだけやってみるつもりだった。
余りに巨大な腕を獣自身扱いかねているのか、左腕を引きずるようにして××××の方へと迫る。
そして、再び左腕による上からの叩きつけ。
大振りなそれを軸をずらして回避すると、今度は地を割ったその腕が薙ぎ払われた。
風を切るそれはノコギリを盾にしてなんとか受けるが、××××の体はなすすべもなく吹き飛ばされる。
そして追撃を放とうとにじり寄る獣の、その前に黒い影が走った。
「まったく、世話を焼かせる」
獣の左腕を目にも止まらぬ速さで斬り刻み、獣の右腕の一薙ぎを素早くかわす。
そしてその回避の勢いを乗せて獣の足を幾度か斬りつけ離脱した。
「ほら、こいつがかっかしてる内にやるんだよ」
アイリーンは次々と繰り出される獣の攻撃、そのことごとくを空振らせている。
獣は左腕と右腕を連続で叩きつけ、薙ぎ払い、手を組み大振りな一撃を振り下ろす。
そしてようやく体勢を整えた××××は、アイリーンの援護を無駄にしないために走り出す。
「っ! 堅いな……!」
ガラ空きだった獣の背後、折り畳まれた足を思いっきりのこぎりで横薙ぐ。
この刃にはアイリーンのそれのような鋭さはないが、むしろその細かい刃は多くの肉を引き裂き抉るのだ。
溢れ出る鮮血。
それから、悲痛な悲鳴が上がる。
さらに追撃を一撃。
すると振り向きざま獣が右腕を振り払う。
それを身をかがめてかいくぐり、××××はなおも接近して刃を突き立てる。
と、そこで視界の端。
左腕が振りかぶられるのが見えたので、足の間へと転がり後ろへと抜ける。
強く強く振り下ろされたそれは空を叩くが、その隙を逃すアイリーンではない。
かまいたちのように一瞬の肉薄で幾つもの斬撃を浴びせ、撤退する。
そして、それに気を取られた獣の足を××××は斬りつけた。
だが。
不意に獣の足が振り上げられ、一撃。
体重を込めた踏みつけに跳ね飛ばされた××××は、ボロクズになって地に転がる。
「っ! あんた……!」
アイリーンが駆け寄ってくるが、その前に獣が襲いかかってくるのが早そうだった。
「クソっ……!」
だが自分はまだ、死んでいないのだ。
なんとか膝を立て、荷物を探る。
そして火炎瓶と油壺を取り出し、前のめりに迫ってくる獣の顔面に両手で持ったそれらをまとめて叩きつける。
刹那獣の頭部が炎上し、悶絶した獣はその頭を地に伏せる。
「思っていたのとは少し違うけど、やるじゃないか」
そう言ってアイリーンが獣の頭部に飛び乗り、短剣の一撃を叩き込む。
そして武器を引き抜き腰に納めたその瞬間。
――アイリーンの右腕が目の前の獣のそれのように鋭い爪を生やし、醜く変異した。
「っ!」
鋭い気合の息と同時に、烏羽の狩人は深々と獣の頭部に腕を突き刺す。
そして獣の内部にあったと思しき諸々の体内器官を素手で掴み、おびただしい出血と共に引き抜いてみせた。
「…………」
凄惨、というような言葉では到底足りないその攻撃。
鼓膜が破れるような悲鳴を上げて、聖職者の獣は倒れ伏した。
「はっ」
血に染まった腕を軽く払い、アイリーンがこちらに歩み寄ってくる。
それを見ているとなんだか気が抜けて、××××は膝から崩れ落ちる。
「いい判断だった。それに、しぶとさも中々のもんだ。普通はあれで死んでるんだけどね」
そう言ってアイリーンは××××の頭をわしわしと撫でて、自分の荷物から取り出した注射器を××××の肩に打ち込んだ。
「あんたはいい狩人になる。これからも、頑張るんだよ。……それと、人形のお嬢ちゃんにババアがよろしくって伝えといてくれ。じゃあね」
それだけ言うとアイリーンは背を向けて、徐々にその姿を薄れさせていった。
恐らくは最初彼女がそう言ったように、元いた場所に帰ったのだろう。
「…………」
座り込んでいた××××は、なんとかしてもう一度膝を立てる。
けれどアイリーンに血を入れてもらったのにどうしても体が動かず、また仰向けに倒れる。
「……勝てた」
自分の力ではない。
ただひたすらに獣の気を引く援護と、それにトドメを刺した得体の知れないあの一撃。
自分の力である部分など、ほとんど無いと言っても良かった。
だが、それでも、××××は勝ったのだ。
漠然と胸の中を満たす勝利の喜びと、希望を掴んだのだという確かな実感。
もう一度血を入れて、それからガタガタになった体が再び動くようになるまで××××はじっと体を休める。
そうしているとやがて体が動くようになったので、××××は身を起こした。
そしていつの間にか目の前に現れていた灯火に火をつけて、それから大橋の奥へと歩き始める。
最初は足を引きずり、けれどその内しゃんと歩けるようになった。
確かな足取りで歩き、大橋の一番奥の分厚い鋼鉄の扉に手をかける。
するとその扉は――――××××がいくら押そうとも引こうとも、開くことはなかった。