鼻をついたのは優しい土の香り。
自分はうつぶせに倒れているらしく、ひんやりとした感覚が腹に伝わる。
××××が目を覚ましたそこは、どこかの庭園のようだった。
石畳で舗装されたこじんまりとした、好ましい雰囲気を漂わせる道。
石壁に囲まれた花畑と、遠くに見える水盆。
それから道から続く階段の上の、これまた小さな趣味のいい住居。
それと最後に。
ひっそりと置かれた美しい人形と、そこかしこに突き立てられた墓標。
「…………?」
どこか優しげに白んだ空を見上げ、××××は思い返す。
診療所で、自分は……そうだ。
「…………」
立ち上がり、衣服を見る。
爪で裂かれたはずのそれは、元通りに、と言うよりも最初から獣になど裂かれていないかのようにきれいなままでそこに在った。
あれが夢だったと言うのならば。
悪夢を見て目覚めて、それからまた悪夢を見たとでも言うのか?
ならばいつ悪夢から覚めるのか?
というより、これは悪夢なのか?
××××にはどうもそのようには思えなかった。
ここは好ましく、これまで訪れたどの場所よりも満ち足りた場所に思えた。
……とは言っても、ろくに記憶などないのだが。
とにもかくにもまずは状況の把握からだと、××××は足を動かす。
石畳の道に沿って歩いて、人がいるのならなにか聞けるだろうと、そう考えて屋敷へと足を向ける。
「?」
だがその途中で、××××は不思議なものを見た。
「…………」
夢の中で見た異形だ。
痩せさらばえた赤子、干からびた水子のような異形。
しかし夢の中で見た時のように恐ろしいとは感じなかった。
ここにあるものはその全てが、××××にとって好ましい。
そして地から生えるようにして足元に群れるそれは、××××へと捧げるようにして何かを渡そうとしている。
渡そうとしているものは二つで、その片方は××××にもなんなのかは理解できた。
そう、それは銃だ。
がっしりとした銃身のそれは、恐らくは散弾銃だろう。
だが、問題はもう一つのものだ。
湾曲した持ち手と、それから歪んだ長方形の鉄板が平行に並ぶように折り畳まれ取り付けてある。
その鉄板はよく見ると柄に向かう内側は薄く研がれた刃であるようで、また外側は鋭い刃を並べたのこぎりになっているようだった。
使い込まれた汚れを滲ませるそれは、××××には禍々しい気配を放つ武器に見えた。
それはこの庭園にあってさえ好ましさに染まらない、消えない血の香りを纏った刃だった。
「…………?」
くれるのか、と。
そんな意味を込めた視線を送る。
すると、異形たちは不吉な声を並べて笑う。
不思議とそれは、嫌な気持ちがしなかった。
「ありがとう」
そう言って、××××は武器と銃を異形から受け取る。
ずっしりとした重みのそれは、悪夢から逃げ出してきた××××にとっては心強かった。
それから階段の残りを登り、家の中へと足を踏み入れる。
そこは、庭園に輪をかけてまた穏やかな場所だった。
小さな机の上には丁寧な作りの銀のティーセットが置かれていて、その側にはうず高く本が積まれている。
少しずれて敷かれた絨毯とあかあかと燃える暖炉はいかにも居心地が良さそうで、それから少し離れた場所にある武器が吊られた壁と工具が置かれた机。
その前に、右足のない老人。
ごく普通のヤーナムの服を纏った誰かが、暖炉を眺めながら杖をついて車椅子に腰を落ち着かせている。
「…………」
車椅子、だが。
あの輸血の男とは違うようだった。
一歩を踏み出すと、そこで初めて××××に気がついたかのようにして老人は視線を向けてくる。
「やあ、君が新しい狩人かね。ようこそ、狩人の夢に。ただ一時とて、ここが君の『家』になる」
耳を打ったそれは予想していたよりずっと優しい声だった。
まるでこの庭園そのもののような優しさを含んだそれに、××××は気を緩めて歩みを進める。
「…………」
それから、老人の前に立つと。
彼はしわに覆われた顔にある、どこか夢を見ているような茫洋とした瞳を××××に向けてきた。
「私は……ゲールマン。君たち狩人の、助言者だ」
『君たち狩人』
その言葉に疑問を持つが、その思いを見透かしているようにして老人……ゲールマンは言葉を重ねる。
「今は何も分からないだろうが、難しく考えることはない。君は、ただ、獣を狩ればよい。それが、結局は君の目的にかなう。狩人とはそういうものだよ。じきに慣れる」
「獣、とは?」
問いつつも、頭によぎるのは××××のはらわたを喰い荒らした怪物のことだ。
そして、それさえもやはり見透かしているようにしてゲールマンは語る。
「すでに君も見たはずだ。あるいは、何であれ君に牙を向けるものは全て獣だと、そう思ってもかまわない」
穏やかに、そんなことを告げたゲールマン。
なんとなく××××は問いを重ねることができず、するとゲールマンはまた口を開く。
「この場所は、元々狩人の隠れ家だった。血によって、狩人の武器と、肉体を変質させる。狩人の業の工房だよ。もっとも、今は幾つかの器具は失われているがね」
家の中を見回しながら、ゲールマンはそう口にする。
だがそれは、××××に理解させる気があるのかないのかよく分からない言葉だった。
そして追いつくはずもない理解が追いつく前に、ゲールマンは続ける。
「だが残っているものは、すべて自由に使うとよい。……君さえよければ、あの人形もね」
あの、人形?
捨て置かれた美しい人形のことか。
だが、あんなものが何に使えるというのか。
それが妙に疑問で、だから眉をひそめるとゲールマンは変わらず穏やかな声で語りかけてくる。
「まぁ、今は何も分からなくてかまわないよ。君は獣を狩る、ただそれだけをすればよいのだから」
その言葉を最後に、ゲールマンは××××への興味を全く失ったかのように暖炉へと視線を戻す。
「…………」
××××はしばらくゲールマンの前に立ち尽くしていたが、しかしずっとそうしているのも無為だろうと踵を返す。
それから数歩歩いて振り向くと、ゲールマンの姿はその存在それ自体が幻であったかのようにかき消えていた。
「…………?」
家を出て、登ってきた階段を降りてゆく。
この庭園がどこなのかは全く分からないが、ずっとここに居てもいいような気さえしていた。
階段を下りながら、××××は道に沿うようにして置かれた墓標を見る。
そしてその一番奥、階段の終わりのちょうど先にある一つに指を触れた瞬間。
再び××××の意識は暗転した。