誰かの声が聞こえた気がした。
意識が混濁する。
『けれどな、貴公。貴公は狩人だ。狩人が倒れれば、獣は誰かを傷つける』
少し前に聞いた言葉が脳裏に蘇って、××××は弾かれるように覚醒した。
そしてすぐに身を起こそうとして咳き込む。
どうやら気道に血が入り込んでいたようで、息苦しさに倒れ込んだ。
「デュ、ラ」
息を乱しながらも途切れる声で呼びかける。
そして周囲を見回した。
傷は治っていたから、血を入れてくれた人物……デュラは必ずいるはずだ。
石造りの建物。
なにかの祭壇の裏の狭い空間。
視線を巡らせ探していると、彼はすぐに見つかった。
「デュラ、ここはどこだ? どうなった?」
この建物は奇妙に明るい。
黄色い明かりに照らされたここは、天井が抜け、また外壁も崩れかけているものの立派な石造りの教会らしかった。
地面に寝かせられていた××××の左、建物の壁に背をつけてデュラは座り込んでいた。
「……デュラ?」
身を起こして問いかけるも、デュラは答えなかった。
答えずに、ただ腹を抑えて荒い息を吐いていた。
そしてその手にはもう銃はなく……右手の杭打ち機は血に汚れていた。
「殺してはいない。だが……少し傷つけた」
どうもそういうことらしい。
やむをえず最低限の傷を与え、獣の群れを散らしながらここまで来たということか。
そしてその代償として、彼はその身に深い傷を負っていた。
あるいはもう血を入れて塞いだのかもしれなかったが、その狩装束は血に濡れている。
「まぁ、その成果はあった。ほら」
そう言って笑うと、デュラがこちらに何かを投げる。
受け取ったそれは鍵だった。
一瞥し、荷物に入れてから改めて問いかける。
「あんた……怪我をしているのか?」
すると彼は、弱々しく微笑んだようだった。
「なに、血を入れてある。安心してくれ」
「毒をもらったのか?」
「…………」
「何故治さない!」
黙り込むデュラに、ついかっとして××××は怒鳴る。
しかし彼は、思えば××××との戦いでも丸薬を飲まなかった。
力尽き、座り込んだ時ならいざ知らず。
まだ立てる間なら多少の無理をすれば飲むことはできたかもしれないし、なにより彼はそれを試みようともしなかったのだ。
「まさか」
「ああ、もう薬は持っていない」
「……どうして?」
デュラは苦しげに、あるいは自嘲するように笑う。
そして笑みに口を歪めたまま言った。
「血に渇いた獣だけではない。この街の毒を持つ獣は、その全てが灰血病により苦しんでいる。……私はなぁ、少しでも救ってやりたかったのだ、彼らを」
つまりは貯蔵していた丸薬を、全て獣のために使ったと言うのか。
「私では救ってやれなかったけれどね。あの血に渇いた獣も、どうにかして助けてやりたいのだが……しかしどうも分かってもらえない」
「あんた……」
それで、こんなになるまで放置していたというのか。
××××の荷物を漁るなりすればよかっただろうに、どこまでも頑固な男だと思った。
荷物を漁る。
すると丸薬の残りは二つだった。
「…………」
一瞬訳もなく躊躇って、それからデュラへと呼びかける。
「おい、デュラ。俺の丸薬をやる」
その言葉に、苦しげに俯いていたデュラが顔を上げた。
「……いいのか、貴公」
「馬鹿なことを言うな。投げるぞ」
そう言って丸薬を投げる。
するとデュラは確かにそれを受け取った。
そして彼が丸薬を口に運んだその時。
「────────―!!!!!」
つんざく叫びが近く、教会の外から聞こえた。
××××は声の方向に視線を向ける。
「……嗅ぎ付けられたらしいな」
「どうして」
「貴公も私も、血を流しながら逃げるほかなかったからな。仕方のないことだ」
ごく冷静にそう言うと、デュラはまるで普段通りの声で語りかけてくる。
「さぁ。私を置いて行きたまえ、貴公。貴公は貴公の役目を果たすのだ」
「役目?」
「そうだ。上に戻り、人々を救う。それこそ貴公にしかできないことだ」
「…………」
その言葉。
見捨てて逃げろと、そう言っているのだ。
ここにデュラを置いて逃げろと。
確かに血に渇いた獣を振り切って逃げるのは難しいのかもしれないが、それでも××××はそんなのは御免だった。
デュラに近寄ってその肩に手を回す。
そして彼を支え歩き始めた。
「……貴公」
「いいから」
咎めるような声を封殺して××××は歩き始める。
祭壇の裏から出て、教会の中を歩き始めた。
「…………?」
と、そこで。
何か杯(さかずき)のようなものがひび割れた地面に落ちているのに気がつく。
黒い(・・)それに気を取られ、××××は気がつくと盃を拾い上げていた。
「貴公?」
「……すまない」
不思議そうな声で問いかけてくるデュラ。
手に取った杯には干からびて瞳孔がとろけた人の目が埋め込まれていて、不思議と××××はそれに惹きつけられたのだ。
だが、こうしている場合ではない。
さっさと使者に預けてまた歩き始める。
一歩、二歩、よろめくデュラを支えながら歩く。
しかし中々速度が上がらず……どうやらもう、間に合わないようだった。
すぐ近くで獣の叫びが聞こえた。
「…………」
とっさにデュラと共に柱の影に身を隠す。
「……貴公、もう二人では逃げられない」
デュラがそんなことを言う。
まだ毒が抜けきっていないのか、彼の動きは確かに遅い。
故に彼を連れて逃げられそうにはなかったから××××は頷いた。
「そうだな」
「分かったなら早く……」
「……いや、俺が殺す。あの獣を殺す」
そう言うと、デュラは明らかに顔色を変えた。
「よせ、やめてくれ貴公」
「やめろと言うのならあんたの方だ」
そう言うと、デュラが訝しむようにこちらを見る。
その、何にも思い当たらないような表情に××××は内心歯がゆく思う。
「こんなことはもうやめろ。……狩るでもなく命を危険に晒すな。あんたには待っていてくれる人は……大切な人はいないのか?」
投げた言葉にデュラは黙り込み、やがて小さく、呟くように言った。
「……いるとも、この街に」
「…………?」
「今も昔も、私はこの街の人々を守りたいだけだ。ただそれだけなんだ。……だから、どうか分かってくれ……貴公……獣は、彼らは……人間なんだ……」
懇願するように口にされたそれに、××××は言葉を失う。
デュラにとってここは、どれほど形を変えようと守るべき場所だったのか。
だからずっと、ここを守り続けていたのか。
……しかし、それでも。
××××はデュラを獣の餌にしてやるわけにはいかなかった。
何故なら同じだからだ。
守るべき人だと信じていた獣に喰い殺される……それは父親と信じた獣に殺されたあの少女と同じなのだ。
××××は耐えられなかった。
暗闇の中、たった一人で父親が元に戻るよう願い続けていた少女と同じ最期を見過ごすことなどできなかった。
「デュラ、もしあれが人間だというのなら……」
表情を歪めたデュラを見る。
そしてその彼の想いを踏みにじり続ける、奴らが人であるものかと思った。
「俺は、人殺しでいい」
のこぎりを握る。
そして立ち上がった。
長く放置していたとはいえ、丸薬は飲んだのでいずれ毒は治癒する。
もうデュラは大丈夫だろう。
だが手早くやらなければ他の獣が集まるかもしれない。
そこでふと背後に視線をやると、彼は射殺すような視線を向けてくる。
「貴公……。まだ間に合う。私を置いて逃げてくれ。……頼むから」
震える声で彼はそう言う。
しかしその裏には脅しすら込められていて、彼はもし回復すれば本当に××××を殺すかもしれないと他人事のように思った。
だが、それならばなおさら急がなければと思う。
××××が殺されればデュラは無抵抗に獣に喰い殺されるはずだったから。
もう振り返らず、××××は柱の影から足を踏み出す。
そして幾本もの柱に据え付けられた巨大な燭台が放つ光の下に出ると、教会の入り口には異様な姿の獣がいた。
「血に渇いた獣……」
まず、目に入るのは頭部を覆う穢らわしい布だ。
元の色さえ分からぬほどに汚れきったそれは、血とも他の何かとも分からない体液を含んで濡れている。
いや、布だけではない。
黒い獣毛に覆われた、この街の狼の獣と聖職者の獣のちょうど中間程度の大きさのその体は濡れそぼって不気味な光沢を帯びていた。
それから毛の下の体は病的にやせ細っている。
黒い体躯は肋や四肢の骨格をくっきりと浮かび上がらせ、その下の骨が透けるほどに……いや、事実見えてさえいた。
ところどころ体表の組織が削れ落ち、白い骨を覗かせる姿。
布の隙間から時折伺える骸骨を想起させるように落ち窪んだ瞳は、まるで野ざらしの餓死死体のようだった。
そしてその暗い穴の目を覗き込んだ瞬間、××××の脳内で啓蒙が蠢く。
それにより××××は目の前の存在が聖職者の獣にも劣らぬ難敵なのだと悟った。
「────!!!」
先手を取るために隠れる間もなく、血に渇いた獣はこちらに気がついたらしい。
またあのつんざく叫びをあげて歩いてくる。
地を踏みしめる四脚は、手に似た前足と足に似た後ろ足。
それらは人の面影を残しながら、しかし人ならざる獣の爪を備えていた。
「…………」
ある程度歩くと、唐突に血に渇いた獣は立ち上がった。
長い長い、折り畳まれていた足で身を起こすと、教会の柱に据え付けられた明かりにより不気味な影が石の地面に伸びる。
そして汚らしい布を振り乱し、前足……いや、右手を振り上げた。
「!」
疾走した。
骨と皮ばかりだと思っていたその肉体は強靭な筋肉を駆動させ、これまでのどの獣よりも俊敏に××××へと飛びかかってきた。
「クソッ……!」
引き裂く右手が直撃し、吹き飛ばされる。
放置していても死にそうなほどに病に蝕まれたその体からは想像もつかない剛力だった。
地に叩きつけられ倒れつつ、激痛に腹を押さえる。
けれど手早く立ち上がり血を入れると、流血に高ぶったようにして眼前の獣はさらに荒れ狂った。
飛びかかるようにして両の手で爪を薙ぎ距離を詰め、辛くもそれをかわすとさらなる連撃が重ねられる。
「────!!」
立ち上がり、奇妙な声を上げて腕を交互に叩きつけた。
それから右腕を低く振り抜いて××××を捉えようとする。
「…………」
腕に全身が振り回されているような、そんな動きで血に渇いた獣は攻撃を仕掛けてくる。
全身を用いた攻撃の威力は察するに余りあって、事実空振った爪は石畳をバターのように引き裂いてみせた。
しかしだ。
「……聞いていたよりも、ずいぶん弱いようだが」
また繰り出された一撃を××××は前に踏み込んですれ違うようにしてかわす。
しかし血に渇いた獣は標的が逃れたことをも意に介さず、いっそ病的なまでの狂乱で目の前の空間を引き裂いている。
そしてそれを見て、××××は確信した。
この獣は大した相手ではない。
確かに攻撃力こそ恐ろしいもので、古狩人が正面から挑むには少々具合の悪い敵ではあるだろうが。
そんなことを思いつつ××××は血に渇いた獣の背をのこぎりで斬りつけた。
骨が堅く、切断には至らないが肉は削げる。
獣の例に漏れずのこぎりは効くようで、苦痛に悲鳴をあげた血に渇いた獣は振り向きつつ爪を振るう。
しかしそれは本当に見え透いた予備動作を含んでいて、一旦振るわれれば早いとはいえかわすのに苦労するものではない。
退きつつ回避し、次の一撃に重ねるようにして銃撃を放つ。
すると立ち上がり右手を振り上げていた獣は大きく怯み、落ちるような勢いでくずおれる。
××××はそのうなだれた頭部に全力でのこぎりを振るった。
「…………」
返ってきたのは、今まで感じたことがないほどに嫌な手応えだった。
それは思わず追撃をためらうほどに。
細かい刃はずるりと、血に渇いた獣の顔面の肉を真一文字に引きちぎる。
すると布の下のそこからは灰色の血がどくどくと溢れ出し、痛々しい傷を刻んだ顔が咆哮の形に歪んだ。
「────!!!」
血に乾いた獣が悲鳴を上げる。
そして布を振り乱し立ち上がって、またあの突進を仕掛けてきた。
だがそれも大振りで、よく見ていれば事前にかわせてしまうような代物だ。
分かっていても流石に突進を止めることなどできるわけもなく、一足早く進路の外に出て駆け抜ける背を見送る。
そして柱に爪を食い込ませつつ血に渇いた獣が止まったところで、攻撃に転じようと××××は駆け出した。
と、そこで。
「────────!!!!!」
つんざく叫びをあげて、血に渇いた獣が咆哮する。
ぼろぼろの教会を倒壊させてしまうのではないかと危惧するほどの大音量で叫んだ後、かの獣は全身から灰色の血液を噴き出した。
「…………」
しとりしとりと、湿った足音が天井の抜けた教会に響く。
今や全身に水を纏ったように灰色の血に濡れた獣は、まっすぐにこちらへ向けて歩いてくる。
その病んだ血の匂いが鼻をつき、ふと××××はデュラの言葉を思い出した。
『この街の毒を持つ獣は、その全てが灰血病により苦しんでいる』
『あの血に渇いた獣は獣でありながらその末期罹患者(まっきりかんしゃ)なのだ』
そしてそれに、もしやと思い当たった。
この獣の本来の強みは比類なきほどに鋭く振るわれる爪などではないのではないだろうか。
すなわち血に渇いた獣は、あらゆる獣の中で最も危険な毒性を持つ存在なのではないだろうかと。
「……クソ」
冷や汗が流れる。
丸薬はあと一つ。
早々に思い当たれたことは幸運だったが、果たしてあの獣に勝つことができるのか……。
そんなことを考えて、××××は思い直す。
勝つことができるのか、ではない。
勝たなければならないのだ。
そうでなければデュラは殺されてしまう。
改めて決意し、××××はのこぎりを強く握り直す。
そして振り上げた爪から毒の血をしたたらせる獣を見据え、次の刹那に繰り出されるであろう攻撃の行方を追った。
遅くてすみません。
次回決着します。