ブラッドボーンー永遠の狩人ー   作:ローリングデブ

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 旧市街から帰還して、✕✕✕✕とアルフレートはオドン教会に戻ってきた。

 

「…………」

 

 そして入り口のすぐ左、椅子に腰かけて座り込んだあの……たった一人避難させることができた老婆へと視線をやる。

 すると彼女は目を血走らせてこちらに向けて怒鳴り声を上げた。

 

「なんだい……近寄らないでおくれよ! あたしゃあ知ってるんだからね!」

 

 なにを知っていると言うのか。

 とにかく相変わらずの様子だったのですぐに目をそらしてしまう。

 関わらないのが一番だろう。

 

「あなた、これからどうなさるんですか?」

 

 肩をすくめ、教会の右手にある扉の前に立ちアルフレートが言う。

 えらく凝った装飾が施された扉だが、恐らくは旧市街で手に入れた鍵で開くのだろう。

 

「とりあえずは聖堂街に行くつもりだが……あんたは?」

 

 あんたは、と。

 そう問い返すと彼は深く頷いた。

 そして顎をさすりつつぽつりぽつりとこの先の予定を語り始める。

 

「私も聖堂街に向かうつもりです。……しかし私の使命は血族狩りで、獣の狩人の手を煩わせるわけにはいきませんからね。ここで別れることにいたしましょう」

「そうか」

 

 そう言って、✕✕✕✕は鍵を取り出してアルフレートに渡す。

 

「ならあの扉を開けておいてくれ。俺は一度夢に帰る」

 

 弾丸やら血やらが欠乏しているし、それは必要なことだったのでそう言う。

 すると鍵を受け取り、アルフレートは妙に堅苦しい礼をした。

 

「ありがとうございます。あなたには本当に助けられました」

「いや、俺も……」

 

 真摯に感謝を言葉にする彼に、少々たじろぎながらも✕✕✕✕は答えようとした。

 しかしアルフレートが懐から何かを取り出して、それで言葉が止まってしまう。

 

「それは?」

「発火ヤスリです。どうぞ、お近づきの印に」

 

 朗らかに言ってアルフレートが渡したのは、小さな火の粉が燻る紙ヤスリだった。

 

「これで武器を擦ればその刃に炎を纏わせるでしょう。獣を相手にするならば有効な狩り道具です」

「なるほど、助かる。ありがとう」

 

 先に渡してくれれば血に渇いた獣の相手がどれだけ楽だったか……。

 

 そんなことを思うが、もう済んだことである。

 だから口には出さず礼を言うと、アルフレートは表情を緩ませた。

 そして踵を返し扉へと手をかける。

 

「それでは、また。素晴らしい協力でした。あなたに血の加護がありますように」

「ああ。ありがとう」

 

 ✕✕✕✕は短く答えて引き返し、教会の中央の灯火に触れる。

 それから背後で重々しく扉が開く音を聞きながら、まどろむようにして夢へと沈んで行った。

 

 

 ―――

 

 空の白んだ優しい庭園。

 目を開くと、✕✕✕✕は狩人の夢に立っていた。

 

 破れていた装束も疲れた体も何もかもが欠けていたものを取り戻し、満ち足りた空気に心が安らいでいく。

 何度来ても不思議な場所だと眺めていると、そこで一つ気がつく。

 

 人形の姿が見えないのだ。

 

「…………?」

 

 いつも……とは言っても大した回数ではないが、それでも彼女はいつも墓石のすぐそばで✕✕✕✕を待っていてくれたものだが。

 

 別に待っていなかったことを咎める気などなかったが、少し気になって周囲を探す。

 すると遠く、緩やかな坂の上の一つの墓石の前に人形が跪いているのが見えた。

 

「…………」

 

 なんとなく足音を忍ばせて近寄ると、彼女はどうも小さな声で祈っているらしかった。

 

「夢の月のフローラ。小さな彼ら、そして古い意志の漂い。どうか狩人様を守り、癒してください。あの人を囚えるこの夢が、優しい目覚めの先ぶれとなりますように……」

 

 言葉の意味はよく掴めなかったけれど、✕✕✕✕の無事を祈ってくれているのだろうか。

 そう思うと何故だか声をかけることが躊躇われて、なにも言えないまま跪く人形の後ろに立っていた。

 

 するとやがてこちらに気がついたのか、慌てて腰を上げて人形が振り向く。

 そして少し申し訳なさそうに眉を下げて一礼した。

 

「ああ、お帰りなさい、狩人様。……お許しください、聞き苦しいものをお耳に入れてしまいました」

「いや……ありがとう」

 

 そう答えると、人形は不思議そうにこちらを見てくる。

 しかしあまりに真っ直ぐに見つめる視線がこそばゆくて、✕✕✕✕は別な話題を持ちかけた。

 

「……ところで、今はなんの神に祈っていたんだ?」

「神、ですか」

 

 呟いて、人形は瞳を伏せた。

 その様子にもしかして神様を知らないのかと思いあたり、✕✕✕✕は問いを重ねる。

 

「神を知らないのか?」

「いいえ、知っています。幾人かの狩人様から、教会の話を聞きましたので。神と、神の愛のお話を……」

 

 顔を上げ無表情でそんなことを口にする彼女に、✕✕✕✕はなんとなくの質問を投げかけてみた。

 

「それで、どう思ったんだ」

 

 ✕✕✕✕は神など信じていない。

 この街で起きている様々な異常も、神というよりは悪魔の所業といったほうが頷けるのだし。

 

 しかし先程も熱心な様子でなにかに祈っていた彼女が神についてどう捉えるのかには興味があった。

 だから答えを待っていると、人形は淡々と口を開く。

 

「神と信仰という概念は理解しています。しかし、私はそれを信じることはできませんでした」

「何故?」

 

 何故と言うと、人形は無表情の裏で少しだけ躊躇った。

 しかし幾度かの呼吸のあとに答えを口にする。

 

「私は……神はきっと、人を愛してなどいないと思うからです」

 

 どこか確信を持って紡がれた言葉。

 神の存在を否定するでもなく、その愛のみを偽りだと断じた発言の意図が理解できないでいると、彼女は更に語る。

 

「造物主はきっと、被造物を愛することなどありません。私は、あなた方、人に作られた人形です。……でも、あなた方は、私を愛しはしないでしょう?」

 

 恨みもなにもなく、至極当然のことのように人形は口にした。

 それから✕✕✕✕がなにか言う前に言葉を続ける。

 

「逆であれば分かります。私は、あなたを愛しています。造物主は、被造物をそう作るものでしょう……」

「…………」

 

 人が人形を愛さないのだから、神も人を愛さないはずだ。

 しかし人形は人を愛していて、だから人も神を愛しているのだ。

 

 どうやらそれこそが信仰の正体なのだと彼女は言いたいらしい。

 

 なにへ向けて祈るのかと、最初に尋ねた言葉すら忘れて✕✕✕✕は黙り込む。

 人ではなく、人形にとってあまりに救われない回答だったから。

 

「俺は、君にはよく世話になっていると思う」

「?」

 

 人形がまた不思議そうに首を傾げる。

 ✕✕✕✕は自分でも思いがけないことを口にしてしまったことで少し焦るが、それでもなんとか言葉を継いだ。

 

「いや……君のおかげで強くなれたし、こうして無事も祈ってもらっている。この場所の案内をしてくれたのもそうだし、きっと他の狩人だって同じように君の世話になっていたんだろう? ……だから神のことは知らないが、人が人形を愛さないとは限らない」

 

 デュラの真摯さに少し影響されたのかもしれない。

 口をついたのは、我ながら恥ずかしいセリフだった。

 一つ咳払いをして、気まずい沈黙を煙に巻いた。

 

「……すまない、妙なことを言った。ゲールマンは家にいるかな?」

 

 ✕✕✕✕は謝罪して、ゲールマンの行方について切り出す。

 人形は礼をするといつも通りの様子で答えた。

 もしや恥じているのを察して今の発言は忘れてくれるつもりなのだろうか。

 

「はい。今はおられると思います」

「そうか、助かる」

「……あの」

 

 簡潔に謝意を示し、足早に立ち去ろうとする。

 しかし不意に人形が呼び止めてきたので家の入り口で足を止め振り返った。

 

「ありがとうございます、狩人様」

「…………」

 

 無表情だった。

 だから何を考えているのかは分からないが、それでも彼女には思うところがあったのかもしれない。

 ✕✕✕✕もなにか答えようとしたのだが、この程度のことではどうも恩着せがましく感じたので小さく頷くだけに留めておく。

 

 そして家の中に入ると、車椅子に腰掛けて暖炉にあたる老人……ゲールマンがいた。

 

「聖杯らしきものを手に入れた」

 

 挨拶もなしに用件を切り出した✕✕✕✕に、車椅子の車輪を回してゲールマンがゆっくりと振り返る。

 そしてその茫洋とした視線をこちらへと彷徨わせた。

 

「これだ」

 

 床で騒ぎ立てる使者たちから預けていた聖杯を受け取る。

 きちんと保存してくれていたのはありがたいが、まぁ値上げの恨みとチャラといったところだろうか。

 

「ありがとう」

 

 しかし一応礼を言うと、また不気味に笑って使者たちは消える。

 

「……それを、どこで?」

 

 ✕✕✕✕の手にする聖杯を見て、ゲールマンは少し驚いているらしかった。

 

「旧市街の祭壇で」

「そうか、そんなはずはないのだけれどね」

 

 穏やかな声で否定めいたことを口にする意図が分からなくて、✕✕✕✕は眉をひそめる。

 

 彼が教えた聖杯のありかから✕✕✕✕が持ち帰った。

 ならばそこに間違いなどあるはずもないのに。

 

「いや、気にせずとも構わない。聖杯とは本来地下遺跡へ繋がる道だが、この聖杯はその道の先が少し違うだけなのだから」

「…………」

 

 この老人は思わせぶりなことばかりを口にするので、もう訳がわからないだのなんだのと言う気にはならなかった。

 だから『説明しろ』と、視線だけで意思を伝えるとゲールマンは笑った。

 

「まぁ、簡単に言えば今の君はこの聖杯を使えないし、使ってもあまり意味がないということだよ。助言が外れてしまって申し訳ないのだが」

「はぁ……」

 

 別に旧市街へ聖杯を取りに行ったつもりはないが、期待していなかったといえば嘘になる。

 だからか急に徒労感に襲われてため息を吐くと、ゲールマンは車輪を回して近づいてきた。

 

「しかしこれも……いや、こちらの方があるいは役に立つものかもしれない。だが今の君には無用の物であるのも確かだ」

 

 そう言ってゲールマンは✕✕✕✕の聖杯へと手を伸ばす。

 

「まぁこれもなにかの縁だ。万が一君がこの聖杯を必要とする時が来たら、私が使えるようにして返そう。どうだね? 悪い話ではないと思うのだが」

「使えないならいらない。好きにしてくれ」

 

 そう言って✕✕✕✕が渡すと、ゲールマンは受け取って頷いた。

 

「ありがとう。では代わりに一つ、先人の遺言を伝えておこう。……『オドン教会を上りたまえ』、だ」

「今度はどんなややこしい話なんだ?」

 

 少し疑いつつ返すと、ゲールマンは愉快そうに笑った。

 

「そう胡散臭い話でもないとも。君、あまり年寄りを邪険にしてはいけないよ」

「それで、どんな話なんだ?」

「ああ、そうだね。……医療教会、今やそう呼ばれる血の医療者たちは狩人の庇護者でもあり独自の工房を持ち、過去には武器を作っていた」

「なるほど」

 

 聞いた通りだろう。

 この街の医療者、あるいは教会の聖職者は武器を作り狩人を助ける使命を帯びていたと。

 

 珍しくすんなり理解できたので先を促すと、すぐに続きは語られた。

 

「……彼らの多くは、もはや狩人を忘れているようだが、それでも、工房の名残りは狩人の役に立つものだ。だから君も、その場所を目指すといい」

「目指すために、オドン教会を登れと?」

「その通りだ。理解が早くてよいね」

「鍛えられている。おかげさまで」

 

 なんにせよ思い違いというものはあるものだ。

 別に積極的に迷惑はかけられていないのだし、旧市街の間違いの件は忘れることにして✕✕✕✕は礼を言った。

 

「俺はもう行く。ありがとう」

「気をつけたまえよ。工房への道はもはや崩れているだろうからね」

「分かった」

 

 そう答えて✕✕✕✕は踵を返す。

 物資を補給したら聖堂街に向かい、この忌まわしい夜を終わらせる手段を探す必要があった。

 

 

 ―――

 

「……開かない」

 

 オドン教会の脇、アルフレートが開けていた扉を通って✕✕✕✕は確かに上へと登った。

 しかし塔の先の道は閉ざされていて、とてもじゃないが先に進めそうにはなかった。

 

「……ボケてるんじゃないだろうな」

 

 なにが登りたまえ、だ。

 内心に毒づいたところでアルフレートの言葉を思い出す。

 

 ここには上層と聖堂街に続く抜け道を開く鍵があるのだと、彼はたしかにそう言っていた。

 ではこの扉は上層への道で、聖堂街につながる道は他にあるのか。

 

「…………」

 

 上層に用はない。

 無理をして通ることも……ないだろう。

 

 思い直して、✕✕✕✕は引き返す。

 別の道を探さねばならなかった。

 

 獣の死体が点々と落ちる広間を抜け、下に降りるはしごを目指す。

 そして外に出たその時、✕✕✕✕は来るときには意識しなかった紙片の存在に気がつく。

 

『宇宙は空にある。「聖歌隊」』

 

 宇宙は空にある……なんとも身も蓋もない言葉だが、どこか気味悪さをも感じる物言いだ。

 率直にすぎるそれは狂人の気付きのような、✕✕✕✕には見えないものを覗いた誰かの言葉に思えた。

 

 ……考え過ぎだろうか。

 きっとヤーナムの、不吉な空気に当てられたに違いない。

 

 なんとなく視界の外へと消してしまいたくて、拾い上げたそれを塔の外へ向けてひらりと落とす。

 すると紙切れはすぐにヤーナムの闇の中に溶けていった。

 

 ―――

 

 道が崩れているとは甘い表現であったということを、✕✕✕✕は存分に思い知らされていた。

 見つけた道の先は、歩ける場所など一ミリもない大きな大きな縦穴だった。

 

 縦穴には建造物の残骸のような足場がいくつかあり、幸いすぐ下のそれには松明が据えられている。

 故にかすかな明かりに照らし出された足場に向け、✕✕✕✕は躊躇なく飛び降りる。

 

「…………っ」

 

 しかし内心ではやはり恐ろしい。

 何も頼るもののない空中を闇の中で落下するのだ。

 死に馴染んでいなければとてもじゃないが踏み出せなかっただろう。

 

 妙に長く感じた滞空の後、✕✕✕✕は無事に足場へとたどりつく。

 着地の衝撃でわずかに軋んだ薄い板に肝を冷やして、またそろそろと下を覗く。

 今度はもう少し近くに足場があった。

 わずかに安堵して飛び降りる。

 

「…………?」

 

 ひやりとする着地の後、✕✕✕✕は気がつく。

 ちょうど飛び降りた先になにやら道があるのだ。

 立派な扉もついていて、ここもかつてはなにか重要な場所として人々の出入りを受け入れていたのかもしれない。

 

「工房……そうか」

 

 思い当たり、扉を押し開けて歩き始めた。

 

 質のいい石造りの、これもかつての栄華の名残りを感じさせる階段を下る。

 そうして通路を抜けた先に広がっていた光景に、✕✕✕✕は思わず背筋を冷たくした。

 

「狩人の夢……」

 

 まさしく狩人の夢だった。

 空は暗く、遠くに聖堂街の景色が見える。

 心が安らぐような空気もないし、柔らかな土の庭園であったはずのそこは花が枯れて荒れ果ててしまっていた。

 

 しかしそれでも、一目見てわかるほどに外観が酷似しているのだ。

 石畳の道も、小さな屋敷も。

 すべてがぴたりと合致していた。

 

「…………」

 

 捨てられた工房を歩き、人形が立っていた場所で立ち止まる。

 しかし当然彼女はおらず、ただどこからかすすり泣くような声が聞こえるばかりだ。

 

 階段を上がり屋敷の中に入る。

 絨毯はなくなり、ささくれだった板の床がむき出しの姿を晒していた。

 炎の消えた暖炉は冷え切り、ところどころ剥げて骨組みを露わにした床の上には本が散乱している。

 

「人形……」

 

 思わず声を漏らした。

 荒れ果てた片隅にはあの夢にいた人形に生き写しの、文字通りの『人形』が無造作に転がされていたのだ。

 まるであの夢とこの工房が同じ場所だということを証明するかのように。

 

『……でも、あなた方は、私を愛しはしないでしょう?』

 

 話すことも動くこともない、ただの人形。

 その打ち捨てられた姿を見ていると、訳もなく無性にやるせなかった。

 

 汚れた人形の前に跪き、のこぎりを横に置いて肩に積もった埃を払う。

 そして絡まった髪を指ですいて慎重にほどいてやり、彼女をゆっくりと抱き上げた。

 

「…………」

 

 どこに運ぼうかと思案する。

 理由は分からないが夢に連れて行くことはできないと直感していて、だから✕✕✕✕にできることはそれだけだ。

 

「……ああ」

 

 屋敷の真ん中、暖炉のすぐ近くの出口に足を運ぶ。

 人形を横たえて、そばにあった椅子を引き寄せた

 それからまた人形を抱き上げ椅子に座らせる。

 

「…………」

 

 夜が明けていつの日か、何かの奇跡でこの場所にまた花が咲いたなら。

 きっと花を眺めながら人形はここに腰掛けていられるだろう。

 

 らしくもなくそんなことを思い、✕✕✕✕は踵を返す。

 そしてふと思い立ちすぐそばにあった棚の中を覗いてみた。

 

「……これは」

 

 そこにあったのは小さな髪飾りだった。

 美しい細工が施された優しさを纏う品物で、歯が欠けてもいないので少し汚れを払えばすぐにでも使えそうである。

 

 恐らくはそこに打ち捨てられた人形のために作られた物なのだろうが、これは夢にいる人形に渡してやるべきだと思った。

 

 この髪飾りにはどこか作り手が人形に向けた愛が宿っているように感じたから。

 だから人が人形を愛した証として持ち帰ってやるのがいいと思った。

 

 髪飾りを小物入れにしまう。

 それから他にもなにか人形にまつわる物がないか探していると、祭壇の上に干からびた……名状しがたい気配を纏う何かを見つけた。

 

 萎びた老婆の指のような質感の、ぐるぐるとうずまきをかたどる得体の知れない見た目。

 そして黒とも焦げ茶とも灰色ともつかない奇妙なくらい色合いに、生物的な印象を与える黒い球体が無数にはめ込まれている。

 

 手のひらに収まるほどに小さいが、明らかにまともではない。

 だが恐れるほどの物にも見えなくて、好奇に誘われた✕✕✕✕はつとそれに手を伸ばす。

 

 そして指が触れた、瞬間。

 

「うっ……」

 

 突如押し寄せた感覚の洪水に膝から崩れ落ちる。

 痛みでも苦しみでもなく、情報を処理しきれないことによる酩酊だった。

 

 蠢く、蠢く、脳が蠢き続ける。

 

「ぐ……あ、あ……!」

 

 揺れて縮んで広がってを繰り返すような、脳が見えざる手にかき回されているような。

 なんとも気色の悪い感覚は、段々と中枢へと収束しつつある。

 

「はあっ……! はぁっ……!」

 

 訳も分からずなんとか立とうと地面に腕をつき、しかし散乱していた本をさらに散らかすだけに終わる。

 頭を抑え、食いしばった歯の隙間から呻き声を漏らした。

 

「…………!」

 

 しかしそうして耐えていると、唐突に変化は終わりを迎えた。

 まるで幻のように脳の蠢きが消え、思わず脱力する。

 

「……なんだったんだ」

 

 寝返りを一つ打って、仰向けになり荒んだ工房の天井を見上げる。

 

 この工房には武器などなにもなかった。

 あったのはあの奇妙な物だけだ。

 

 もしやこれがゲールマンの言う役に立つモノなのだろうか。

 だとしたら彼は✕✕✕✕に何をさせたいのだろうか。

 

「…………」

 

 分からない。

 分からないが、もしかするとゲールマンは味方ではないのかもしれない。

 

 どこか肉体を変質させられてしまったような、そんな錯覚を引きずりながら立ち上がる。

 そしてのこぎりを拾い、最後にもう一度先程の何かへと視線を向けた。

 

 するとそれは跡形もなく崩れ去ってしまっていて、改めて気味の悪さを感じつつも✕✕✕✕はその場を後にする。

 

 ―――

 

 聖堂街に出た。

 縦穴の下層でやたらと強い獣に遭遇したので少し手間取ったが、あの難関を突破すれば早いものだった。

 道中の敵を始末しつつ昇降機を利用し、降りた先の足場めいた場所から飛び降りるとそこは聖堂街である。

 

 とりあえず毎回あの縦穴を通るのも億劫なので柵を開けながら街を下っていった。

 するとちょうどオドン教会の前まで来たところで、見知った人影を✕✕✕✕は目にした。

 

「ああ、あんたかい」

 

 オドン教会の横、隠れるようにして立っていた彼女……アイリーンはこちらに気がつくと声をかけてきた。

 対して✕✕✕✕は特に答えず歩み寄る。

 

「丁度いい。警告があるのさ」

「警告?」

 

 問い返すと彼女は頷いた。

 そしてまっすぐに見返してきながら✕✕✕✕へと言葉を返す。

 

「ヘンリック……古狩人が殺された」

「…………」

 

 ヘンリックとやらは知らないが、古狩人が殺されるほどの脅威だ。

 盲目的に恐れることはしないが、否応なしに気は引き締まる。

 

 すると✕✕✕✕の緊張を読んだか、喉に引っかかるような笑いを漏らしてアイリーンは続けた。

 

「あんたは賢いね。……ああ、ヘンリックは決して弱くはなかった。むしろかなり強い方さね。なのにほぼ一撃で殺された。あれほどの腕なら首を落とすのも難しくはなかっただろうに、わざわざ腹を引き裂かれてね」

 

 まるで血の中に何かを探したみたいに、死体まで壊されてさ。

 

 独り言のように続けられたその言葉を聞き届けたその時、✕✕✕✕の視線はふと虚空に囚われる。

 

「どうしたんだい?」

「いや……教会の壁になにかいるような気がしたんだが」

「なんだいそれ……大丈夫かい?」

 

 呆れたようにそう言って、それからアイリーンは一つ咳払いをした。

 

「まぁあんな殺し方をできるのは狩人だけだ。となるとあれは、私の獲物さね……。だけどあたしが始末するまでは、せいぜいあんたも気をつけるんだよ」

「獲物とは言うが、手がかりはあるのか?」

「ん? ああ……手がかりはあるし、容疑者もいる」

「容疑者?」

 

 その問いに、アイリーンは不意に噴き出した。

 そしてこらえきれないとばかりに笑い始める。

 

「クク……クククククッ」

「なんだ、どうしたんだ?」

 

 まさか自分がやったなどとは言わないだろうかと、わずかに尻込みしつつも尋ねる。

 それにアイリーンは笑いを止めて、低い声で答えを返した。

 

「それがね……あたしなのさ」

「なっ」

 

 狩人狩りの一環ならそれでいい。

 だが✕✕✕✕の知るアイリーンなら狩りの使命で殺したことをいたずらに他人を驚かせるような会話の種にはしない。

 そんな人の死へ不誠実なことはするはずもないのだ。

 

 身構えて、距離を取ろうとする。

 すると反応しきれない速度で手が伸びて、離れようとする✕✕✕✕の腕を掴んだ。

 

「……まぁ待ちな。やったとは言ってない」

「…………」

 

 その言葉に少し落ち着きを取り戻す。

 やってないというと、冤罪のたぐいだろうか。

 

「さっき狩人に襲われてね。聞けば烏羽の装束の狩人がヘンリックと……他にも数人を殺したんだそうだ。完全に犯人扱いで、殺しはしないが撒くために少し傷つけた。……あたしももう夢は見ない。殺されるわけにもいかないだろう?」

「…………」

 

 烏羽の装束の狩人が殺したと、そしてそれで犯人と決めつけられたと。

 ならば烏羽の装束は彼女の固有の特徴と見てもいいだろう。

 

「それで、手がかりとは?」

 

 しかしアイリーンがそんなことをするとは思えなかったのでさらなる情報を求めると、彼女は少し安堵したような声で答えた。

 

「下手人はヘムウィックの墓地街に向かったらしい。……向かったらしいというより、向かったんじゃないのかと聞かれたんだけどね」

「なるほど」

 

 そう言って、それから少し考えた。

 手練の狩人を容易く屠るような相手を、一人で追跡させていいのだろうかと。

 曲がりなりにもアイリーンには二度……あの橋で救ってもらった恩がある。

 

 夜明けをもたらす方法を調べる必要はあったが、墓地街とやらにも獣がいるのなら決して無駄な寄り道ともならないだろうし。

 

「墓地街に獣はいるか?」

「獣狩りの夜さ。そりゃあ、嫌になるほどいるだろうね」

「それは良かった。なら俺もあんたについていく」

 

 ✕✕✕✕がそう言うも、アイリーンは気が進まないようだった。

 

「……なぁあんた。あんまり、手を汚すんじゃあないよ。あんたは狩人。獣を狩ればいいんだ。狩人狩りなど、あたしに任せておけばいいのさ……」

「あんただって狩人狩りのくせに獣狩りに手を貸してくれただろう」

 

 ✕✕✕✕がそう言うと、彼女は実におかしそうに笑った。

 

「なんだい、上手いこと言うじゃないか。まさかあんたにやり込められるとはね」

「…………」

 

 冗談で言ったつもりはないのだが。

 ひとしきり笑い終えたアイリーンを見つめて、✕✕✕✕はため息を吐いた。

 

「気が済んだなら早く行こう。俺にも使命があるのは、あんたの言う通りなんだ」

 

 




色々とピンときた方も、多いかもしれませんね。
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