他の連載を十五万くらい進めたのでまた少しの間はこっち書くことにします。
ヤーナムの街はおぞましさに満ちている。
今や聖職者さえ狂ったものか。
アルフレートが誇らしげに見せていた聖布を身に着けた者さえ狂気に堕ちた。
そしてそうした敵に襲われつつも聖堂街を進んでいた。
時に人外とさえ思われるような大男もいたが、アイリーンがいるせい……いやおかげであまり脅威には感じられなかった。
狩人を狩り続けた彼女はきっと、古狩人の中でも特に狩りに優れているのだろう。
「気になるのかい? 無理についてこなくたっていいんだよ」
と、そんなことを考えていた時。
大聖堂前の階段を登っていた✕✕✕✕はそんなことを言われる。
視線が無意識に聖堂へと引き寄せられていたらしい。
実際のところ目的を目の前にして横道に逸れるのになにも思わないでもなかった。
だが彼女には恩があるし、聞きたいことだって多くあるのだ。
道を共にするのも今はいいだろう。
「……いや、気にしなくていい。行こう」
「いいんだね」
あと一つ、たった一つ階段を進めば聖堂に踏み入ることはできる。
しかし頷いてみせるとアイリーンは無言で歩き始めた。
それは聖堂を前として左の道、奥まった洞窟へと続く脇道だった。
階段を下りヘムウィックへと向かい始める。
「このあたりには銃を持った獣も多い……まぁ、今のあんたならそう心配はいらないだろうね」
「ああ」
「その装備を見るに旧市街に行ってたんだろう。少し見ない間に随分見違えたもんさね」
「…………」
デュラのことを思い出しながら彼女の話を聞き流す。
あの男にも何事もなければいいと思った。
だがそんな考えに少しだけ違和感を覚える。
なにせ✕✕✕✕は思い出したのだ。
自分が獣のように人を殺していたことを。
なのにこんな心配を巡らせて。
善人かなにかのような振る舞いをしていると、殺めてきた顔すら思い出せない死体に責められるような気がした。
「考え事かい? でも獣が見えた。気をつけな」
洞窟を抜けた。
目の前にはまばらな木々が立つ広場がある。
焚火がたかれて、獣の気配もあるようだ。
犬の唸り声も聞こえる。
しかし。
「待て。死体がある。誰かすでにこの場所を通ったようだ」
「……ああ」
広場にはどうやら死体がある。
徘徊している獣はほんの少数だ。
そして死体は一筋の線上に点々と転がっていて、それが一つの道を浮かび上がらせた。
「ヘムウィックに行ったらしいね。となると、恐らくはあたしの獲物だ」
多分そうだろうと思ったのでなにも言い返さなかった。
すると羽が舞うような軽やかさでアイリーンが飛び出す。
「行くよ。なるべく早く追わなきゃならない」
返事をする間もなく遠ざかっていく。
そしてまたたく間に左の木の影にいた銃の獣を殺し、スローイングナイフで牙を立てようとした犬の脳を刺し貫く。
それを見て✕✕✕✕も飛び出した。
単に背を追うわけではない。
アイリーンの陽動に引き寄せられ、阿呆のように銃に顔を寄せて狙いをつける獣の喉を裂くのだ。
「…………」
あくまでアイリーンの影として。
一つ一つ着実に射線を潰しながら彼女が切り開く道の安全を確保する。
そうしていると先に大きな門が見えて、ヘムウィックへの道が✕✕✕✕にも分かってきた。
「死ね」
また一匹、アイリーンの背を狙う獣の首をのこぎりでこそぎ落とす。
さらに犬が駆けていこうとしていたので銃で撃ち抜く。
道の方に目をやると彼女もすでに敵を片付けていた。
「……終わったか」
もう脅威はなさそうなので墓地街に入れるだろう。
そう判断して✕✕✕✕はアイリーンのもとへと坂を下り歩いていく。
重そうな門をこじ開けているので手伝ってもいいかもしれない。
しかしそんなことを考えていた時、唐突に背後でおぞましい気配を感じて反射的に振り向く。
「!」
…………。
「…………?」
背後には何もいなかった。
ただ不吉な風が吹き抜けて、広場の草を弱くそよがせた。
どうやら勘違いだったと結論づけて、✕✕✕✕はまた歩き始める。
──―
墓地街には死屍累々の光景が広がっていた。
アイリーンと✕✕✕✕が辿り着いたときにはすでにおびただしい数の獣たちが死体を晒していた。
数にして十五はいるだろうか。
「……これは」
あのアイリーンが声を失っている。
こうして殺しの痕跡を目の前にすれば、✕✕✕✕にも標的の危険性が伝わる。
正直なところ驚いている。
これほどの群れを正面から抜ける人間がいるなどとは思わなかった。
「すまない、灯火をつける」
「ああ」
それはともかく灯火があったので触れておく。
いつものように火がついて、見慣れてきた使者たちが顔を出す。
見た目はともかく不気味な笑い声は今でも聞き慣れない。
「行こう」
「分かった」
歩き出したアイリーンの背中は警戒して気を張っているように見える。
そんな彼女を尻目に、✕✕✕✕は墓地街の風景に視線を巡らせた。
「…………」
ここは旧市街と同じようにまだ日が見える。
とはいえ他の場所と変わりなく暗く淀んだ気配が満ちた場所なのだが。
まず墓地街と言うだけあって林立する墓の群れが目を引く。
街の外側を覆うように墓がそそり立っている。
そして岩がむき出しになった足元の悪い道と雑草の塊。
脇にはギロチンが放置され、右に目をやると死体が吊るされているようにも見える。
さらにところ狭しと獣の死体が転がされていて、沈みかけの夕日が血まみれの普段着を黄色に照らし出していた。
「見な、銃で一撃だ。……死ににくい獣がだよ」
死体の一つのそばにしゃがみアイリーンがそう言った。
その獣は素朴な……とはいえ汚れきったエプロンドレスを着た中年の女性に見えた。
焼けた槍を手にしたまま、頭を抉りぬかれて死んでいる。
……これは、弾丸によるものなのか。
にしては少し不自然だった。
なにせ抉られた形は微妙に円形からずれているように思えたから。
疑念をかぎとったように言葉が続けられる。
「弾丸は二発だ」
「一撃と言わなかったか?」
「ああ。
それで一撃の弾丸がくり抜いたにしてはいびつな傷がついていたようだ。
「なるほど」
アイリーンは死体から様々なことをかぎとったらしい。
流石に人の殺しの手法には詳しいようだ。
……かいつまんで言うならば今分かったことは三つ。
まず敵の弾丸の威力は常軌を逸していること。
流し撃ち……すなわち素早く照準を動かしながら標的が射線に入った一瞬で撃ち抜いてみせる技量もあること。
教会の武器を使っていること。
この三つだ。
「また教会の気狂いか?」
「……いや、そうとも言い切れない」
「どういうことだ?」
✕✕✕✕が問いかけてもすぐには答えなかった。
他の死体にも少し視線を巡らせ、立ち上がって歩き始める。
その横に並んで同じように歩いていると彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「あまりに銃の威力が強すぎる。不自然だ。……あれじゃ下手な狩人でも即死さ」
「…………」
知識がない✕✕✕✕にはその言葉が何を意味するのかが分からない。
同じ視点に立って考えることができない。
それに気がついたのか、アイリーンは小さくため息を吐く。
「いいかい。普通の弾丸じゃ獣は殺せない。だからあたしたちは水銀に血を混ぜて固めた弾丸を使う」
✕✕✕✕も使っている水銀弾だ。
ここまでは分かる。
「あれは血と触媒の水銀で、弾丸に仕込まれた秘儀を発動させてる。だから普通の弾丸とは比にならない威力の銃撃になる」
分からない言葉もあるが、
要点を聞けばいいのだ。
今は追跡のさなかで、時間はあまりないのだから。
「……それ自体は獣狩りの市民が持っているように広く流通してるものだ。でも血の質に優れた狩人は自分の血を弾丸に混ぜる。そうすることで威力を高められる」
「弾丸の威力から見て、聖職者よりは狩人に近いということか?」
✕✕✕✕の質問には答えが返ってこなかった。
ペストマスクの横顔を見る。
単に無視しているというよりは迷っているように見えた。
まだ断定できない要素が多くあるのだろう。
そんなことを思いつつ前に視線を戻した。
階段をのぼって少し開けた場所に出る。
すると先ほど感じた不吉な気配が、より強く、より確かにまた押し寄せてきた。
「…………」
「……なにかあったかい?」
不意に足を止めた✕✕✕✕に訝しげな目が向けられる。
しかしそれすら忘れて前方の一点を凝視していた。
「アイリーン、あれはなんだ?」
今度は気のせいではなかった。
赤い光が見えた。
本能的な不快感を引き起こす赤が。
「
「見えないのか? すぐそこにあるだろう」
思わず少しだけ声を荒立ててしまった。
アイリーンはひたすら戸惑ったようにこちらを見ている。
輝きはどんどん強さを増している。
頭の中で騒がしい音が響き始める。
あの光を見ていると思考が乱れて仕方がない。
手が震え始めた。
「あんた……一体どうしたんだ?」
そうしていると赤い光の中から細長い手が生え伸びてきた。
真っ黒に塗りつぶされた人影が少しずつ這い出てくる。
土が絡まった木の根のような質感の乱れ髪。
光を吸い寄せるような闇色の体。
老いさばらえた老婆のように乾ききった口元。
けれどそれだけは異様な輝きを帯びた大きな目。
左手に持つ歪曲した刃物。
やせ細った手足。
腰に巻かれた汚らわしい布。
全貌が現れた時✕✕✕✕は動けなくなった。
赤い光の中に立つその異形を見ていると正気が削られていくような頭痛がした。
「……っ!」
前のめりになって空をかきむしるような。
狂乱の動作でまたたく間に距離を詰められる。
飛びかかってきた異形に首を絞められ、遅れながらも反応した✕✕✕✕はナタを振った。
すると刃物を振り上げていた左腕に当たる。
肉を削いだ感触はこの世のものとは思えないほどに気色の悪いものだった。
続けて一撃を放つ。
今度は首を捉えた。
しかし同時に恐ろしい力で首元を掴まれたままねじ伏せられる。
地面に押し倒され、頭を強打した✕✕✕✕は意識が遠のくのを感じた。
「────!!」
アイリーンがなにかを言っているのが聞こえる。
やられはしなかったが相打ちになった。
助けに来たというのに迷惑をかけてしまった。
ぼやついて揺れる視界の中、覆いかぶさった形の異形が目を覗き込んできた。
もうすでに体が崩れ始めているようなのでとどめはもらわずに済むだろう。
しかしその砂嵐のような白を見つめていると、✕✕✕✕の頭の中に狂気が満ち始める。
「…………」
過去の罪を糾弾する声が聞こえては遠ざかり、不快な視線を押しのけようと伸ばした手は血に染まっていた。
思わず身をすくませると異形はすぐに消え去った。
だが幻覚と幻聴は消えることはなく、✕✕✕✕は幻に苛まれながら意識を手放した。