人一人とていない、不気味に静まり返る石畳の道路。
霧のように周囲を満たす薄闇。
馬の死体と馬車が転がり、立ち並ぶ家々はどれもあらゆるものを拒むようにして戸を閉ざしている。
何もかもが死に絶えたような、けれどなにかおぞましいものの息遣いを感じるような。
足を踏み入れたヤーナムの市街は、そんな異界めいた雰囲気に覆われていた。
「はぁ……っ」
××××の殴打された頭から流れ、顔へと垂れる血を袖で拭う。
そして体に血を入れ、傷が治るのを待つ。
三人目……いや、三匹目だった。
人の姿をした獣。
あれは獣だ。
躊躇う暇などなかった。
××××を見た瞬間、先程の獣に比べればかなり遅いがそれでもソレは襲いかかってきた。
足元の死体を見る。
『何であれ君に牙を向けるものは全て獣だと、そう思ってもかまわない』
その通りだと思った。
思うしかなかった。
倒れているのはいかにも安っぽい汗の汚れが浮いたシャツを着た男。
人にはあるまじき毛が顔を覆っているが、だがそれはそれでも余りに人に似ていた。
折り畳んでのこぎりに戻していた鉈を置いて、その死体の持ち物を漁る。
「……あった」
二匹目を殺した時に気がついたことだった。
こいつら、恐らく元は人だった。
そして、ここの住民はよく血を持ち歩いている。
持ち物を漁れば、血が見つかることがある。
狂っている。
そんな思考を殺して、貴重な血を取る。
殺さなければ殺される。
奪わなければ死ぬ。
今はシンプルなことだけを考えなければならない。
そして、さしあたっての目標。
まともな人間を見つけてこの異常な状況の話を聞くために××××はあたりを見回した。
「…………」
ここはヤーナムの街。
そして、診療所からそう離れてはいない場所だ。
診療所から出てすぐに斧を持った獣が一匹。
そして今、更に進んだ場所で農民風の格好をした二匹に襲われたところだった。
だが、しかし。
これ以上進もうにも行き止まりだし、斧の獣の近くには門があったもののこちらからは開きそうになかった。
であればどうしたものかと、そう考えて××××は周囲を注意深く観察する。
すると、一つレバーが目についた。
もしやあの門を開けるようなものかもしれないと、自分がどこに行きたいのかすら分からないままそう考えて××××はレバーを引く。
引いて、それから一秒。
二秒。何も起こらない。
だから引き返して門を見に行くと、やはり開いてはいなかった。
仕方がなくレバーの元に戻ると、見覚えのないはしごがかかっていた。
「…………?」
防災装置? だろうか。
よく分からないが、この状況より訳の分からないものなどない。
だから疑問に思うその行為すら無駄だと切り捨てて、××××ははしごに足をかけた。
―――
はしごを登ると、そこには例の灯りがあった。
火は灯っていないようだったが、異形が蠢く小さな灯りをあちこちに置くなどこの街の人間はどうかしているのではないだろうか。
「…………?」
意味が分からないと思いつつも、もう疑問には思わない。
ただなんとなくその灯りに触れると、診療所のそれと同じようにして青く幻想的な火が灯りの中にぼうっと輝き始めた。
「…………」
それから顔を上げると、すぐ目の前に明かりが漏れている家を見つけた。
だから話を聞けるのではないかと、××××はそう思う。
「…………」
軽く窓を叩いて、住民に自らの存在を知らせる。
すると家の中で誰かが重たそうな動きで身じろぎをするのを感じた。
そして××××が少し待っていると家の窓がほんのわずかに開けられて、そこからやつれ落ち窪んだ瞳が覗く。
「……ああ、血の香りだ。ということは、獣狩りの方ですね。それに……どうやら、外からの方のようだ」
××××の姿を見て、やつれた瞳が細められる。
「私はギルバート。あなたと同じ、よそ者です。色々とご苦労でしょう。この街の住人は、皆……陰気ですから」
「…………」
憂鬱そうな声が、そんな言葉を紡ぐ。
それに××××は耳を傾けた。
「私は床に伏せりもう立つこともままなりませんが、
それでもお役に立てることがあれば言ってください」
そこまで言って、ギルバートは激しく咳き込む。
彼もどうやら、××××と同じような身の上なのかもしれない。
「……この街は呪われています。あなた、事情もおありでしょうが、できるだけはやく離れた方がいい。この街で何を得ようとも、私には、それが人に良いものとは思えません」
「ああ。……良ければこの状況ついて、何か知っていることがあれば教えてほしい」
××××がギルバートにそう尋ねると、彼は質問の意味を飲み込むような間を置いて答える。
「この状況? 獣狩りの夜のことですか? 工房の武器を持たれているように思ったのですが、何もご存知ないのですか……」
「そうだ」
××××が答える。
ギルバートは、親切な
何を言うべきか吟味するように唸った。
「今晩は獣狩りの夜なのです。街には獣が溢れているでしょう? 狩人たちがとめどなく現れるそれを狩り、そしてそれ以外の人々は固く戸を閉ざして朝を待つのです。私も……この街に来てから二度ほど経験しました」
「その獣とは?」
「……獣とは獣の病と呼ばれる病魔に侵された人間が理性を失い成り果ててしまう存在です。それ以外のことは私には分かりません。ただ医療教会……すみません。このヤーナムで信仰されている宗教の組織は、これを根絶すべき敵としています」
一息に語り終え、それからギルバートは苦しげに咳をした。
××××には依然分からないことだらけだが、それでも少しは事情が飲み込めた。
どうやらこれは獣の病、と呼ばれる病気の蔓延による獣の氾濫を根絶する狩人、と呼ばれる者たちが武器を振るう夜であるらしい。
だがどうもよそ者らしい××××にとってはなんの関わりもないことだ。
早々に逃げ出してしまうのが賢い選択だろう。
「この街から出るにはどうすればいい?」
××××はギルバートの息が整うのを待ってそう質問する。
「街から、出る……ですか」
その質問に、ギルバートは困ったように息を漏らす。
「恐らくは、無理だと思います」
「無理?」
「はい、そうです」
××××の問いに、躊躇いながらもギルバートは答える。
「医療教会によって、この街の出口は厳しく封鎖されています。城壁の門を通ってこの街に入られたと思いますが、その門は今晩決して開くことはありません」
「…………」
であれば、××××はこの夜を生き延びなければ外には出られないということか。
脱力する××××の様子に気がついたらしいギルバートは、歯切れ悪く言葉を続ける。
「その、この家に匿うというのも……難しいのです。……あなたはもう、獣の血を浴びてしまっているので。その……」
病は血を通じて伝染ることが多い。
そして、『獣の病』が病である以上伝染るのが恐ろしい、とそういうことなのだろう。
××××にだってその気持ちは分かるし、その医療教会とやらの狩人と違いこれといった防疫措置を取っていない以上病に感染した可能性もある。
「……獣の病とやらはどうすると防げるんだ?」
「防ぐ方法、ですか……。分かりません。ヤーナムの街は、よそ者に何も明かしませんから……」
「そうか」
だが、それでもこのまま狂い死ぬのを待つつもりはなかった。
生き抜くために、××××は足掻いてみせる。
××××が礼を言いその場を立ち去ろうとしたその時、ギルバートが呼び止める。
「ああ、しかし教会ではなにか『特別な血』を狩人に与えている、という噂も聞きます」
「……特別な血?」
その言葉に、思い浮かぶのは。
『青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために』
既視感のある筆跡の、走り書きのメモ。
「…………」
「どうかしましたか?」
黙り込んだ××××を伺うようにしてギルバートが声をかけてくる。
「……『青ざめた血』、というものについて知っているか?」
その問いに、また唸ってギルバートは答える。
「……すみませんが、聞いたことはありません。けれど、それが特別な血であれば、訪ねるべきは医療教会でしょう」
「医療教会?」
「はい、そうです。先程も言いましたがこのヤーナムの地で信仰されている宗教の組織で、彼らは血の医療と、その特別な血の知識を独占していますからね」
なるほど。
思えば青ざめた血であろうがなんであろうが、獣の病のことならば獣狩りを主催しているという組織に尋ねて見るのが一番手っ取り早いだろう。
「場所は?」
「ここ、ヤーナムの市街から谷を挟んだ東側、大橋の先の門の向こうに聖堂街と呼ばれる医療協会の街があります。そして、その聖堂街の最深部には古い大聖堂があり……そこに、医療教会の血の源があるという……噂です」
「分かった、ありがとう」
ならば、目指すべきはその大聖堂だろう。
目的地を定めた××××はギルバートに礼を言う。
「いえ。幸運をお祈りします。私はもはや、なんの力にもなれませんが……」
そう口にして、ギルバートは目礼をしつつ窓を閉めた。
それから窓の向こうから激しく咳き込む音がしたが、特にできることもないのでそれを背にして××××は歩き出す。