目覚めたのは、灯りのそばではなかった。
暖かな暖炉の前、柔らかい絨毯の上に××××は寝かせられていた。
「…………?」
ぼんやりと目の前の光景を確かめる。
あかあかと燃える暖炉が照らす薄暗い部屋の中。
それから四人がけの木の食卓に、座り心地の良さそうなこじんまりとしたソファー。
壁際の小さな棚の中にはまばらに本が置かれていて、さらにその上には家族と思しき三人の肖像画が額に入って飾られている。
先程までいたはずの血なまぐさい市街とは打って変わって、そこは柔らかな気配を纏う平凡な家族の住居に思えた。
「目が覚めたの? 狩人さん」
嬉しそうな声でそう口にしたのは、どうもすぐそばにいる小さな女の子らしかった。
白のリボンを結んだ少し長めの金髪に、柔らかそうな色の白い頬。
こちらを見つめるその姿は細く小さく、身を起こした××××のそばにかがむと目線は少し下になるほど。
それからぱっちりとして優しそうな青い瞳が、笑みの形に歪められた。
「…………」
「うちの前に倒れていたから運んであげたのよ。怪我もしてたから血もあげたの」
ころころと朗らかに語る少女の、その小さな手は××××のものかそれとも輸血液によるものか赤く汚れている。
「狩人を家に入れてもいいのか?」
「平気よ。わたしのお父さんだって狩人だもの」
「…………」
そういう問題ではない。
幼い故に、獣の病の感染のリスクを理解していないのか。
「お父さんの古い服があるから着替えて。そしたらご飯にするわ。お腹が減ったでしょう?」
まるで✕✕✕✕がここにいるのが決まったかのように、少女は弾んだ声でそう言う。
「…………」
しかし✕✕✕✕がそれに首を横に振ると、少女は眉を下げた。
「どうして?」
どうしてと言うが、十歳いくらかどうかというような幼い子供を獣にしてまで隠れていたいとは思わない。
……それは善意や下らない正義感などではない、ような気がするが。
ともかくもう手遅れかもしれなくても、それでも✕✕✕✕はさっさとここを出てゆくべきなのだ。
「獣の病というものがあるんだろう? お前にそれが伝染するかもしれない」
「…………」
その言葉に、少女が何を考えたのかは分からなかった。
けれど顔を俯かせ何も答えない彼女に、もうそれ以上言葉をかけることもなく××××は腰を上げ歩き出す。
「ま、待って……」
しかし震える声が背にかけられて、××××は振り返った。
「ひ、一人にしないで」
その声は、もう振り向かないと決めた××××の決意を揺らがせてしまうほどにか細く弱々しかった。
「…………」
何も言わずに振り返ると、少女はしきりに目元を擦って嗚咽を堪えているようだった。
「獣狩りの夜だから、お父さんを探すんだって……それからずっとママが帰ってこないの。だから私ずっと……でも寂しくって……」
「………」
そう言うと、少女は堰を切ったように泣き始めた。
手を目元に当てて後から後から流れる涙を拭い、幼い声を涙に濡らして泣き声を漏らした。
―――
「ねぇ、狩人さん。食べないの?」
血に濡れた服を、獣が着ているのにも似た、けれど清潔なフード付きの黒ローブに着替え、××××はスープとロールパンの皿が置かれたテーブルを少女と共に囲っていた。
暗い室内を照らすランタンの光が優しくて、××××は酷く場違いな場所に迷い込んだような気がしていた。
「お母さんのスープだもの。きっと美味しいわ」
「…………」
結局居座ってしまったことへの葛藤から、××××は言葉を詰まらせる。
しかし目の前に用意された食事は少女の言葉通り実に美味しそうで、××××は結局手を伸ばしてしまう。
「美味しい?」
「…………ああ」
実際、それはとても美味かった。
パンは柔らかく、バターの匂いが優しく鼻を撫で、また塩気と甘みが心地よく同居している。
それにスープの方も、良かった。
腸詰めと芋、それから人参などが入っているそれはコンソメと言うやつだろう。
適度に利いた胡椒が食欲を誘う、実にいい味付けだった。
「お代わりもあるわ。でも、お父さんとお母さんの分は残しておいてね」
楽しげにそう言って、少女は机の下で足をぶらつかせる。
そこに泣いていた少女の弱々しい面影は最早ない。
「…………」
よく笑い、よく話す少女。
その言葉に受け答えをしながら、××××は自分の呑気さに苦笑する。
さっきまで自分は人殺しまがいのことをしていたと言うのに、我ながら全くお気楽なものだ。
そんなことも忘れて無関係な少女を感染のリスクに晒しつつスープなど飲んでいる。
度し難い馬鹿だと思った。
「……どうしたの?」
そんな自嘲に気がついたのか、少女は心配そうに問いかけてくる。
それに食事の手を止めて、××××は答えた。
「あんたは信じるかな。……俺は、自分のことを何も覚えていないんだ。何も覚えてないのに気がついたらここにいて、獣を殺してた」
「…………」
××××の言葉に、少女は何も答えない。
何も答えずに、ただ心配そうにこちらを見つめていた。
「変な話だ。悪い夢だ。何度も死ぬんだ、俺は。何度も死んで、死んで……燃やされて食い破られてでも死ねないんだ。いつも同じ場所で目覚めるんだ。俺は……」
気がつけば迫り上がる衝動に任せて言葉を吐き散らしていた。
俯いてズボンの膝を握り、何度も経験した死を思い返しながら震えを殺していた。
するとその時、なにか温かなものが××××に触れた。
「辛かったのね、狩人さん」
その声は涙に濡れていて、けれど先程のものとは違った。
××××の、到底誰も信じないであろう荒唐無稽な話。
それに心を動かされたような、そんなひたすらに真摯な気配を纏っていた。
「もう大丈夫よ。ずっとここにいていいわ」
少女は××××を柔らかに抱き留めていた。
そして××××の背を優しく撫でて、なんとか励ましそうとしてくれているようだった。
「…………」
××××は何も言えなかった。
でも少しすると震えが止まって、すると少女の手は××××から離された。
「狩人さん、落ち着いた? ならご飯を食べましょう。きっと元気になれるわ」
そう言って少女は自分の椅子に戻って行く。
××××は自分より一回りも歳下の少女に慰められたのだという事実にため息を吐いて、しかしそれはそう嫌な気もしなかった。
……もしかするとかつての自分は酷く孤独な人間だったのかもしれない。
なんとなく、そんなことを思った。
「狩人さん、あなた名前は覚えてるの?」
「いや、覚えていない。何も覚えていないんだ。外から来たということだけは、確かなようだが」
「名前も覚えていないの?」
目を丸くする少女の様子が愉快で、××××は少しだけ笑う。
「そうだ。一文字だって思い出せないな」
「そうなの」
パンを頬張りながら頷いて、少女は何やら思案する。
「なら私も名無しでいいわ」
「?」
その言葉の意味するところが分からなくて、××××は首を傾げる。
すると少女は目を輝かせて続けた。
「お互い名前がないってことにするの。それならなんだか……そう、スパイみたいで格好いいわ」
「……そうかな」
「そうよ。あなたは狩人さん。私は……えーっと……貴女(あなた)なんてどうかしら?」
「君(きみ)でいいだろう」
茶化すようにそう言うと、少女は頬を膨らませる。
「酷いわ狩人さん」
「…………」
それには答えず、ただ含み笑いを返す。
すると少女はすぐに忘れたようで、また別の話を投げかけてくる。
「狩人さん、私のお父さんも外から来たのよ。もしかしてあなたと同じだったりするのかしら」
「どうだろうな。俺は何も覚えてない」
そう言って何気なく視線を彷徨わせると、何故か暖炉の炎に目を引きつけられた。
不意に、脳裏に焦げ付いたような炎。
燃えているのは――――。
「狩人さん?」
「……ああ、なんでもない」
少女の心配そうな声に、××××は我に返る。
それから少女に向き直って食事を続けた。
―――
暖炉の光が照らす、薄暗い部屋の中。
ソファーに寝かされていた××××は身を起こす。
「…………」
疲れているだろうから寝なさいと。
あなたが眠るまでここにいると、そう言った少女は××××よりもずっと前に寝てしまって、ソファーにもたれるようにして眠っている。
きっと父も母もいなくなり、不安に気疲れしていたのだろう。
少女を起こさないようにそろりと足を地につけて、××××はゆっくりと歩き出す。
「……行ってしまうの?」
ソファーに顔をつけたまま、少女がそんな問いを投げてきた。
「……ああ」
それに××××は答える。
嘘をつく気にはなれなかったから。
「そう」
押し殺したような声でそう言って、それから振り返った少女は微笑んだ。
「大丈夫。私、待てるわ。でもきっと帰ってきてね、狩人さん」
「ああ」
「夜が明けたらお父さんとお母さんと一緒にご飯を食べましょう。きっと良くしてくれるわ」
「そうだな」
××××は、どうしても聖堂街にたどり着かなければならなかった。
今や獣の病の魔の手に晒されているのは××××だけではないのだ。
そしてこの少女をその危険に晒してしまった××××には、ここで安穏としている資格などない。
「……あっ」
と、そこで。
何かを思い出したようにして少女が立ち上がる。
「どうかしたのか?」
「狩人さん、外に出るなら少しお願いをしていい?」
「お願い?」
そう尋ね返すと少女は立ち上がって、それから部屋の隅の棚の中に置いてあった何かを持ってきた。
「そう、お母さんを探してほしいの。それで、良かったらこのオルゴールを渡してあげて」
「…………」
手渡されたこじんまりとした箱のようなそれは、確かに作りのいいオルゴールらしかった。
「お父さんの好きな、思い出の曲なんだって。もし、私たちのことを忘れちゃってても、この曲を聞けば思い出すはずだって」
そこまで言って、少女は微笑む。
「……それなのに忘れて行くなんて、おっちょこちょいなお母さんだよね」
よく分からないが、とりあえず彼女の母親にオルゴールを渡せばいいのだろうか。
「分かった。きっと渡すよ」
「本当? ありがとう、狩人さん。お母さん真っ赤なブローチをしているの。大きくて、すっごくきれいなんだから、きっとすぐに分かると思う」
「ああ」
そう答えて、オルゴールを腰のポーチに入れる。
着替える際に割れた注射器を捨てて乾かしたので、衛生的とは言えないが壊れることもないだろう。
「それじゃあ、行ってくる」
そう言って××××は今度こそ歩き出す。
外の世界へ。
悪夢の街へと。