よろしくお願いします。
【こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう】
東京の夜はいつだって明るい。まるで闇の存在を許さないかのように灯りは煌々と輝き、人は輝きに集って営みを形成する。暖かな闇は人々を安心させるから、どれだけ時代が移ろうと変わることの無い概念だの一つだ
だが明るい闇夜を切り裂くように一台のパトカーが駆けていく。赤いランプを鳴らし大急ぎで走るその背後には、黒く厳めしい護送車が付き従うように存在感を放っていた。どちらの車体にも公安の文字とシビュラを表す独自のマークが刻まれていて、彼らが公安局の者であるとこれ以上なく雄弁に語っている。
そのパトカーの運転席には一人の女性が座っていた。年の頃はまだ若いだろう。赤みがかった黒髪を二つにまとめ、黒い瞳を隠すように黒縁の眼鏡をかけている。レディーススーツの上には青いジャケットを羽織っていて、それは彼女が『監視官』であることを如実に示していた。
彼女はパトカーの方をAIに任せた自動運転に切り替えると、手慣れた様子で無線を繋いだ。連絡先は背後を走る黒い護送車、そこに彼女の部下である『執行官』が乗っている。
一つ呼吸をして言葉を紡ぐ。温和そうな顔つきに反した力強い声だった。
「各員、状況は知っているでしょうが改めて説明を。対象の名は
現代社会はシビュラシステムにより、人間の精神状態は”犯罪係数”という値と”色相”という心の色で視覚化されており、今回の事件でいえば後者の”色相”に対象は引っかかった。これは色が濁っているほど精神が不安定とされ、潜在犯の可能性が高まるとされている。街中には大量の色相チェッカーが存在し、色が極端に濁っていれば最悪任意同行を求められることもあるのだ。
此度の色相はダークレッド、澄んでいる方が好ましい色相においてあまりにも濁った色合いだ。よほど自らの犯罪に対する想いが強かったのだろう。いや、そもそも犯罪が未然に防がれるこの社会なのだから、それだけ切羽詰まっていたと考えるのが自然か。
しかしどのような事情があれ、シビュラと公安が見逃す理由にはなり得ない。
「現在古倉はここから三区画ほど離れた開発中止区画へ侵入、逃走中です。既に該当ブロックはドローンによって封鎖されていますが、中にはまだ幾人かの人間が残っていると推測されています。我々公安三係の目的は速やかに犯人の無力化、または排除を行い民間人への被害を食い止めることです」
『放っておくとサイコハザードや、もっとひどい事にもなりかねないからってことですよね?』
「その通りです。今もエリアストレス警報はジワジワと上昇しています。放置すれば近隣住民のサイコパスにも重大な影響を与えかねません、繰り返しますが早期の解決が求められます」
『了解しました』
途中で口を挟んできた剽軽な態度の女と、最後に話を締めた気真面目そうな男の声に頷いて彼女は通信を切った。状況の伝達及び共有に問題はない。これならば不足の事態で取り逃がすことはまずないだろう。
隣の助手席に置いてあった古びた本を取る。ペラペラとページを捲り、目的のページを見つけて彼女はクスリと吐息を漏らした。その顔にはなんの表情も浮かんではいないのに。
「【健康な者には医者はいらない。必要としているのは病人である。わたしは義人を招くためではなく、罪人を招くためにここに来たのである】……まったくその通り。シビュラの罪人よ、我々が神に代わりあなたの不明を嘆きましょう」
問題の区画に到着したとき、周囲一帯は既に公安マスコットのホロを被ったドローン*1により完全に封鎖されていた。遠巻きに事件現場を見つめる人たちを横目にパトカーと護送車がテープの先へと入っていく。これからが公安としての本領だ。
パトカーから降りた彼女が現場を一望するより先に、自走式の黒いドローンがやって来た。運搬ドローンと呼ばれるそれは厳重にかけられたロックを自動で外していき、中からこれまた黒い異形の銃がせり上がる。今日のドローンは随分とせっかちみたいだから、彼女もすぐに銃把を握った。
《携帯型心理診断・鎮圧執行システム・ドミネーター、起動しました。ユーザー認証、
もう何度聞いたかも覚えていない起動音声が脳内に響く。青白く発行するドミネーターは所持者だけに指向性の音声を直接届けてくるから、本人以外には全く聞こえない。監視官の彼女──天宮緋瑞も最初はこの感覚に慣れなかった。随分と小うるさいんだなと
それはさておいて、今度こそ現場を見渡す。どうやら開発中止となったのは居住区画用のマンションやアパートらしく、完成する前から朽ち果てボロボロになった姿が痛ましい。きっと特定の住居を持たない者やシビュラシステムの目を避けようとする者がここへやって来るのだろう。
「天宮監視官」
「緋瑞ちゃん、お疲れさまでーす」
と、護送車の方から二人、緋瑞の下へとやってきた。片やスーツを着真面目に着こなした神経質そうな黒髪の男性であり、片やスーツを軽く着崩しアクセサリーで飾った軽薄そうな金髪の女性だ。どちらも緋瑞の部下である執行官で、犯罪係数でいえばこれから追いかける対象と同じ潜在犯に含まれる。
毒を以って毒を制し、潜在犯を相手には同じ潜在犯をぶつける。きっとこの社会の中枢、今の日本の全てを支えるシビュラシステムはそう判断したのだろう。緋瑞としてもこの理屈には賛成だった。
──悪人の心は、悪人こそが最も理解できる。
「黒山執行官、白谷執行官、まだ全員の避難が終わったという報告が無い以上は迅速な行動が不可欠です。なので二手に分かれて行動します、よろしいですね?」
「分かりました」
「りょーかーい! 組み分けはどうするの?」
「私は単独で、そちらは二人という形にしましょう。少々公安のセオリーからは外れますが、いつ背中から撃たれるか心配よりはそちらの方が気が楽でしょう?」
執行官も潜在犯であるから常にドミネーターによる執行対象だ。監視官である緋瑞は名の通り執行官が職務を逸脱しないか監視し、場合によっては無力化、殺害することも許されている。それを恐れる執行官も時には存在した。
故にシニカルに口を歪めた緋瑞へ二人は肩を竦め苦笑してしまう。温和そうな外見の癖に声音も性格もチグハグだが、既に慣れっこだから気にしない。
「ご冗談を。むしろあなたに執行されるなら本望ですよ」
「うわっ、キモッ……ま、まあそんな事しないから大丈夫だって! ただでさえ一係や二係より人手足りてないのに、あたしたちまで居なくなったら緋瑞ちゃん困るでしょ?」
「すっごい困りますね。なので仕事は忠実に。良いですね?」
力強く頷いた二人へ「よろしい、では後ほど」と声をかけて緋瑞へ問題の区画へと足を踏み込んだ。それとは別の方向へ執行官二人も向かっていく。
天宮緋瑞が監視官を務める公安三係は現在、監視官含めたった四人しかいない。監視官も執行官も常に人手不足であり、かつ三係は現状四人で回せているので中々メンバーが増えないのが実情だった。むしろ一人くらいは非番に出来る程度は効率的に回っている。
とはいえ何処も似たような状況であり、例えば一係も監視官は一人しかいない。そちらは今度新人の女性監視官を迎えると
「羨ましい、とは別に感じませんけれど」
薄暗く小汚い路地裏を歩きながら呟く。先ほどまでの皮肉っぽい真面目な監視官の顔は既になく、やはり能面のような無表情がそこに張り付いていた。暗がりや潜在犯への恐怖や敵意、他の係への羨望や嫉妬という感情は少しも感じられない。あくまでも自然体でドミネーターを両手で構え、慎重に歩を進めていく。その姿はまるで牙を研ぎ澄ます猟犬の如く。
そのまましばらくは何も起きず、執行官二人と連絡を取り合いながら犯人を捜すだけだった。中々に奥の方まで逃げ込んだのだろう、先行しているドローンたちからも対象発見の連絡はない。緋瑞の経験上、こういう時はたいてい長丁場になる。運良くすぐに見つかるのを祈るばかりだ。
ゆっくりと、静かに、下手に対象を刺激しないように気配を殺して、一歩一歩に意図を込めて足を前へと運ぶ。地道で意味があるかも分からないが、些細なことを面倒臭がっている者ほど簡単に死んでいく。だから緋瑞は手を抜かない。別に面倒とも感じてはいなかった。
ジジ……ジ……と耳障りな音が頭上から聞こえてくる。どうやら建設途中のマンションの手前まで来ていたらしい。ホログラムどころか塗装すら剥げ、近寄り難い雰囲気を放っている。照明の白く淡い光が不気味に揺らぎ、点いては消えてを繰り返していた。
常人なら近くにいるだけでも躊躇うような気配である。見ているだけでも恐怖心や不安を喚起し、おそらくサイコパスにも悪影響を及ぼすことだろう。余程の事情が無ければ視界に入れることすら嫌うはずだ。
しかし生憎と監視官の天宮緋瑞は”余程の事情”を持っている。躊躇うことなくそのマンションへと近づき辺りを観察すれば、開け放たれた玄関口近くに人が倒れているのを発見した。
身なりはあまり良くなかった。そこそこ年を喰った男性らしく、無精ひげと伸びた髪が印象的だ。壁に寄りかかるように倒れているが、その壁にベッタリと赤い血が付いている。間違いなくただ事ではない。
このまま駆け寄って助けるのが人としては正しいだろう。けれど監視官としては、まず第一に警戒が必要だった。
《犯罪係数、アンダー八〇。執行対象ではありません、トリガーをロックします》
「……ま、そうでしょうね」
念のためドミネーターを向けてみたがやはり執行対象では無い。多少犯罪係数が高いのはこのような所を根城にしているからか。第一印象通り今回の執行対象、古倉隆に襲われたただの被害者と考えて間違いないだろう。
浮浪者らしき男を横に寝かせ、意識があるかを確認した。呼吸はしている。すぐにうめき声と共に意識を取り戻し、焦点の合わない瞳で緋瑞を見た。
その時にはもう、緋瑞の顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。人を安心させるような暖かなものだ。
「アンタは……?」
「公安局監視官の天宮緋瑞です。この区画に逃げ込んだ潜在犯を追いかけている途中で倒れているあなたを発見しました。無理をしないで結構ですので、何があったか簡潔に教えてくれませんか?」
「あ、ああ……急に変な男に襲われて、金を出せとか言われたんだ。俺は見ての通りだから金なんざ持ってる訳ないのにさ……」
まだ戸惑いが抜けないまま男はポツポツと語り出す。どうやら切羽詰まった対象がせめて当初の目的を果たそうとしたのだろう。僅かばかりでも金を得て安心し、ついでに目撃者の口封じを考えた。潜在犯の中でもさらに性質の悪いものがやるような手口である。文句なしに執行対象だろう。
「ここには俺以外にも何人かいるんだ。あんまし良い奴ばっかでもないけど、だからって襲われる程でもないんだ。だから頼む、どうか助けてやってくれないか」
「──お任せを。我ら公安三係の名に誓って責務を果たしましょう」
「シビュラの選んだエリートだもんな、信じていいんだよな?」
不安がる男へ緋瑞は今度こそ慈愛の笑みを浮かべてみせた。
「【良い木は良い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ】ものです。あなたの善き心を託されたシビュラは必ずや悪しき木を駆逐し、良い実を結ぶことでしょう」
そこで緊張の糸が切れたのか、男は緩やかに意識を失った。すぐに執行官たちに現在位置と医療ドローンを手配するように伝えてから、緋瑞は眼前のマンションへと向き直る。そこそこの大きさだ。ここからマトモに対象を捜し出すのは骨が折れるだろうが、今回はそう難しくないだろう。
「対象は極度の興奮状態で、手当たり次第に人を襲っている状況。となればすぐにでも──」
続きを言うより先に悲鳴が聞こえた。上の方だ。すぐに途切れて代わりに何かが倒れるような重たい音が聞こえてくる。男の言っていた”何人か”の一人に相違ないだろう。また一人犠牲者が出てしまったという訳だ。
しかしこれで対象の居場所は大まかに把握できた。あと何回かこういう事が起きるだろうから、その度に接近していけばいい。被害者は同時に目印にもなってくれると緋瑞は知っていた。
「今回は、運が良かったかな?」
対象がもっと大人しくて攻撃性も低ければこうはならない。だから確かに運が良いと言えばその通りなのだろう。
しかしそれは先ほどの言葉とはまるで矛盾していて──彼女はやはり善意も悪意も感じられない瞳のままに、単独でマンションへと突入した。
内部はやはり薄暗く、廊下の各所が罅割れシミで汚れている。ぴちゃん、ぴちゃんと水の滴る音が遠くから聞こえた。各部屋のドアはちゃんと付いているものがほとんどなく、部屋の中まで簡単に見通せる有様だ。お世辞にも衛生面が良いとは思えない。
だが生活臭もそこかしこに感じられるから、此処を根城にしていた者も少なくないのだろう。住めば都、雨風を凌げれば人間大抵の場所には適応できる。丸まった毛布や食べかけの保存食に目をやりながら緋瑞は足音を立てずに上階へと昇っていく。
「さて……と」
もう少しで悲鳴の聞こえてきた付近だ。おおよそこの辺りに潜んでいるだろうから、いっそう気を抜かずに周囲の警戒を怠らない。階段入口から廊下の方を覗き込んで──再び倒れている人間を発見した。やはり浮浪者らしき装いの男だ。先ほどの悲鳴の主なのは間違いないだろうが、他に誰も居ない。対象は既に移動しているようだ。
念のために脈拍があるかを確認するが、こちらは既に息絶えているようだ。仰向けにした顔は瞳孔が開き、恐怖と苦痛で歪んでいる。死因は頭部を思い切り殴られての撲殺と見て間違いない。
下で出会った浮浪者は運が良かった。当たり所が悪ければこうなるし、人の命なんて存外呆気なく散ってしまうものだから。緋瑞とて何度もこの手の被害者は目の当たりにしているし、抱く感想はいつだって同じだ。
ひとまず被害者遺体の目を閉じ、そのまま寝かせておく。後で公安のドローンが回収して然るべきようにしてくれるだろう。身元がどうだのを考えるのはそれからだ。
その時である。すぐ真上からガタリと物音が聞こえ、ついで何者かが暴れてるような音と、くぐもった声が一緒くたに届いてくる。どうやら対象はすぐそこに潜んでいるらしかった。
ここまで理解すればもう躊躇はない。すぐに階段から上層へと駆けあがった緋瑞の目に飛び込んできたのは、血糊がべっとり付着したバットを持つ男が、これまた浮浪者の男を殴り倒している場面だった。
そして男、執行対象の古倉隆は人質を取るかのように浮浪者の首に手を回すと、緋瑞の方へと向き直ったのである。
「ちっ、もう来たのかよ公安め……! そいつを捨てろよ、コイツがどうなってもいいのか!?」
古倉は人質を取りながらドミネーターを血走った眼で見た。中肉中背のどこにでも居そうな男なのに、言葉には狂気的なまでの迫力がある。もしドミネーターを手放さなければ容易に人質を殺してしまうはずだ。
仕方なく言われた通りに緋瑞はドミネーターを投げ捨てた。汚れた床を滑って古倉のすぐ傍で止まる。彼はそちらを一瞬確認してから、すぐに自らを追って来た者へと向き直る。
「いいぞ……これでお前は無力だ。シビュラの銃なんざなければ公安だってただの人だよなぁ!? まったくふざけやがって、人の心を覗いて「はいあなたは今から犯罪者です」なんざおかしいだろ、なぁなんか言ってみろよ!?」
これ以上なく滅茶苦茶な理屈だ。もし古倉に野心が無ければ色相だって濁るはずは無かったし、シビュラだって彼をマークしなかったはず。こうなった原因はほとんど全て彼にあるのは確かだ。
しかし色相を見られた時点ではまだ未遂だったのも事実であり、一応その言い分も分からなくはない。何より逆上している者に正論を説いたところで無意味だ、正しいことの痛みに耐えられずいっそう悪化するのは経験則で知っている。
「まあ、そうかもしれませんね。世の中はシビュラシステムが全てを管理し、私たち人間は常に人生の最適解を保証されています。でも、最適解から逸れてしまえば待っているのは潜在犯として隔離される未来。窮屈に感じるのも不思議ではないかと」
「な、なんだよ、姉ちゃん話が分かるじゃねぇか……だからさぁ、俺のこと見逃してくれよ? 金に困ってたんだ、これ以外に道なんて無かったんだよ。それにこんな世の中間違ってると思うならさ、シビュラの犬である必要もないだろ?」
「そういう訳にはいきません。例え当初の目的である銀行強盗が未遂で終わったとしても、既にあなたは別の罪を重ねていますから。下であなたが殴った人、死んでいましたよ?」
その言葉に初めて古倉は動揺を見せた。呼吸が早くなり視線が一か所に定まらない。状況から考えて殺意を抱いたうえでの犯行だろうが、やはり実際に殺したと判れば思うところはあるようだ。
壊れたレコーダーのように哄笑をあげて古倉は愉快そうにバットを床に何度も叩きつける。カンカンとやかましい音が響き、血走った眼はいっそう狂気的に開かれた。
「は、ははは、ハハハハハッ……! そっかそっか、俺ついに他人を殺しちまったんだな! あーあ、これでもう後戻り出来ないぜ、なら精々好きなようにやってやるさ」
ひとしきり笑ったあと、彼は開き直ったように笑顔を浮かべた。下卑た視線で緋瑞を見やる。
「なあ、笑ってくれていいけどよ、俺この年になっても女と付き合ったことないんだよ。どうせこれから先も同じだろうし、ここは一つ良い思いさせてくれよ?」
「今ここで私に脱げと?」
「やっぱ物分かりいいじゃねぇか。そうだよ、分かってるなら早くしろ!」
犯罪係数の上昇は必ずしも絶望ではない。セラピーによるメンタルケアや薬によって下降させることは十分に可能だし、そうして更生できた元潜在犯だって大勢いる。世の中は決して潜在犯に厳しい訳でも、将来を用意してない訳でもない。
だが時として居直ってしまう人間もやはり存在した。大抵は彼のように自棄になった人間であり、その犯罪係数も加速度的に上昇していくのが常だった。
もしドミネーターが手元にあれば即座に排除されていただろうが、生憎とそれは古倉の足元だ。人質もある以上、緋瑞は彼の言葉に従うより他にない。
黒のロングスカートの太もも辺りにあるチャックに手をかける。それを下まで下ろすとちょうどスリットのようになり、黒いタイツに覆われた右足が露わになった。艶めかしい脚線に思わず古倉が生唾を飲む。
「これでどうですか?」
「……そ、それで足りる訳ねぇだろ。上もちゃんとやれ!」
「分かりました」
あくまでも淡々と緋瑞は従う。上着のボタンを外し、黒のネクタイも取り払った。白のシャツ一枚挟んだ下はもう下着しか残っていない。
これはどうですか? と緋瑞は視線で訊ねた。少しの羞恥心も躊躇いも感じさせない。下劣な要求に対してあまりにも平静を保っているものだから、指示を出した古倉の方が逆に戸惑ってしまった。
「お前、恥ずかしくないのかよ? こんなところで男の言いなりになって服を脱いでよ」
「恥ずかしい? それは
「は……?」
「いえ、もちろん知識や観察の上で知ってはいますとも。要は場にそぐわないことをした時に発生する感情であり、特に異性から性的な要求をされた際に顕著な感情だとか。ならこの状況は”恥ずかしい”と感じるべきなのでしょうね」
「なんだ、お前は何を言って……」
まるでプログラムで動くロボットのように不可解な言葉だ。人としてあり得ないことを口走っている。同じ人間から発される応えとは思えない。ついさっきまで従順だった公安の女が、今はこれ以上なく不気味に思えて古倉は口ごもってしまう。
女が一歩、前に踏み出した。動物的な直感に突き動かされて男が一歩後ずさる。両者の距離は埋まらない。
「この状況ならあるいは……なんて考えもしましたが、あまり効果はないみたいです。やっぱり私に残された道は一つしかないようで。ああ、その点はあなたと同類やもしれません」
「やめろ……こっちには人質が居るんだぞ……! 大人しく俺の言う事に従えないってんなら──」
「殺しますか? お好きなようにどうぞ、その瞬間に私はあなたを執行しますので」
公安の刑事とはとても思えない発言だ。しかしそれに愕然とするより前に、古倉はある事実に気が付いてしまった。
目の前の女は最初からここまで、仮面でも被ってるかのように表情が一つも動いていない。羞恥も、義憤も、怒りも同情も何もかもが抜け落ちている。まるで人としてあるべき重要なモノが欠落しているかのようで……とてもとても理解できない。相手は同じ人間なのかすら疑ってしまう。
冷や水をかけられたように古倉の思考が冷静になる。さっきまでの興奮やらは既になく、眼前の得たいのしれない存在から一刻も早く逃げて楽になりたかった。もう欲望なんてこれっぽっちも残ってない。
「う……ぁ」
今度は無意識の内に古倉が一歩後ろへと下がった。完全な及び腰で逃げるための一歩だ。その隙を監視官は見逃さない。
ゆらりと緋瑞の姿がブレる。虚を突くような動きに目と思考が追い付かない。眼前に居るはずなのに見失うという珍事を体験した古倉に待っていたのは、右手首への痛みと衝撃だった。蹴りあげられた手首から離れたバットが宙を舞い、さらに痛みで反射的に人質の浮浪者を突き飛ばして手首を庇ってしまう。
そして、それが命取りとなる。
床へと落ちたバットがカラカラと音を立てて転がった時にはもう、監視官は勢いのまま拾い上げたドミネーターを執行対象へと突きつけていた。目前に迫る死の塊に古倉は言葉も出ない。
《犯罪係数オーバー三〇〇。執行モード、リーサル、エリミネーター。慎重に照準を定め、対象を排除して下さい》
「【こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう】。死を恐れる必要はありません、あなたの死を私は悼み、忘れませんから。どうぞ安心してください」
果たして彼は、それが聖書の一節だと気が付いたのだろうか。いいや、きっと理解できなかっただろう。既に紙の媒体は世の中からほとんど姿を消し、歴史や宗教すら学ぶ機会が失われているのだから。
だがそうでなかったとしても。無感動から一変して涙を流しながら引き金を引いた緋瑞の言葉を理解できる余地など、彼には絶対になかったと断言できた。
ドミネーターの銃口付近は大きく変形し、より強くなった青白い光は対象を殺す用意が整った合図である。緋瑞の手で解き放たれた一撃は過たず対象へと着弾し、数瞬後に身体が大きく膨れ内側から弾け飛んだ。
断末魔すら残らぬ無慈悲な執行。血飛沫や肉片が辺りに撒き散らされ、緋瑞や人質を赤く彩り容赦しない。あまりにも凄惨な排除方法は公安の刑事なら避けては通れない光景だった。
これで心を乱されるようなら公安勤めは務まらない。だから今も涙を流して対象の死を悲しんでいる緋瑞は間違いなく異端であり、また本人もそれを省みて改善しようとする意志は欠片も無いようだった。
「あぁ……とても悲しいです。恐ろしいです。誰かの命をこの手で奪ってやっと生きていける私は、どこまでも罪深い存在でしょう」
誰も聞く者などいないというのに、
「天宮監視官! 無事でしたか!?」
「緋瑞ちゃん、遅れてごめん!」
だが当の第三者がドローンを連れてやって来たとき、彼女は既に自然体を取り戻していた。口元には微笑を浮かべ、ついで今更現場に到着した執行官二人を皮肉るような顔に変わる。今は亡き古倉が怯えた無表情は影も形も見当たらない。
「遅いですよ、二人とも。既に対象は私が片付けてしまいました。犯罪係数は文句なしの三〇〇超え、今はアレです」
言いながら血の海に浮かぶ肉塊を指さした。執行官はどちらも慣れた顔で観察している。
「お見事です、天宮監視官。間に合わなかったのは痛恨の極みですが、あなたならこれくらいはやると信じてました」
「黒山さんホントにキモイよー……でもまあ、緋瑞ちゃんが無事で良かった良かった。それじゃ、退屈なデスクワークのために帰りましょ?」
「ええ、そうですね」
一つ頷いて緋瑞は執行官共々現場を後にした。残りはドローンたちが上手い事やってくれるだろうから、彼女たちの出番はない。あるとすれば上役に提出すべき報告書の執筆程度だ。この程度の事件は日常茶飯事だから対応も慣れたもの。
さっき投げ捨てたネクタイを拾い、ロングスカートのチャックを閉めてしまえばもはや事件前と何も変わらない緋瑞の姿がそこにはあった。泣いていたとはとても思えない平然とした表情を疑う者は誰もいないだろう。
「ああ、そういえば。私の犯罪係数と色相はどうなっていますか? 黒山執行官、後で履歴は消すのでちょっとドミネーターで見てくれませんか?」
「ええ、構いませんよ」
潜在犯を追い詰め、手を下し、その死を悲しんだ緋瑞のサイコパスは多少なりとも乱れてなければおかしい。何も悪いことだけでサイコパスは曇らない。精神の動揺やストレスで容易に値も色も変わってしまうのが人間という生物だから。
なのだが、しかし。ドミネーターは淡々と道理に合わない結果を示す。
《犯罪係数、ゼロ。刑事課、登録監視官。警告、執行官による反逆行為は記録の上──》
「犯罪係数は
「そう、ありがとう」
──事実、彼女の擬態は人間どころかシビュラにだって見抜かれていないのだから。
時は二一一二年の日本。
周辺諸国は限られた富を奪い合って戦争を続ける中で、日本だけは完全自給自足を成し遂げ、人間のより良い在り方を提示できるシビュラシステムの恩恵により法治国家として成り立っている。だがそれは薄氷の上で成り立つ平和であり、一皮剥けば今回のような犯罪は後を絶たない。
故に彼女たち公安は存在する。悪を裁き、世の平和を守るために日夜活躍する刑事たちは紛れもない功労者と呼んで差し支えないだろう。真っ当な正義感と強さを胸に犯罪と戦う姿は紛れもなく羨望に値し、市民たちが安定した精神を保てる大きな一助だ。
けれど、その中には。天宮緋瑞というどうしようもない”