PSYCHO-PASS 機械仕掛けの託宣   作:生野の猫梅酒

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#02 精神(こころ)の在り方

【神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか】

 

《マルコによる福音書 十五章》

 


 

 厚生省公安局刑事課に存在する三つの係は、基本的には仕事に大きな差はない。

 公安一係、公安二係、公安三係。どれも人員は同じで監視官二人と執行官四人がスタンダードとなる。執行官はあくまで潜在犯に変わりはないため、公安局と特定の区域以外は外出すら許されない。唯一監視官の目があるときのみ、外へ出ることが許されているのだ。

 だがそれだけに執行官の力は侮れず、それを取りまとめる監視官もまた優秀だ。少数精鋭となる彼らに与えられる仕事は主に二つとなる。

 

 一つ、エリアストレス値の上昇原因を無力化すること。ある区画内に犯罪係数の高い潜在犯がいると、エリアストレスと呼ばれる値も比例して上昇し、他の関係ない者まで潜在犯化する危険性がある。これを一般にサイコハザードと称すのだが、一度こうなれば収集がつかなくなってしまう。故に公安には迅速な対応が求められる。

 二つ、実際に行われた犯罪の調査及び犯人へ適切な対処を施すこと。今の社会は常にシビュラシステムが目を光らせている監視社会であり、よって犯罪も大部分は未然に防がれる。だが時としてシビュラの目を掻い潜って犯罪に走るか、あるいは衝動的に犯罪を犯してしまう者も時にはいる。そのような対象の起こした事件を追跡、分析したうえで無力化ないし排除するのが公安に求められる仕事だ。

 

 シビュラによって管理、監視されているこの日本は紛れもなく平和といえよう。一世紀前よりも確実に犯罪は淘汰され、海を隔てた海外よりも目に見えて安全で落ち着いている。どれもシビュラという巨大かつ有益な演算装置が無ければ成り立たないことだった。

 よって一般市民のほとんどは現状の社会に満足して適応している。特にシビュラが本格導入された三〇年前より以降に生まれた世代に至っては、『シビュラ世代』などと呼ばれ防犯意識すら希薄である。監視されていることに疑問を持たず、また自宅に鍵はかけず往来での危機意識は薄い。それだけ今の世に齎す影響は大きく、その有用性が実証されているのだ。

 

 かつての日本なら、たった十八人の刑事だけで犯罪を取り締まるなど絶対に不可能だった。それが今では犯罪自体の総数が減っていて、また手間のかかる現場調査も全部ドローンが代行してくれる。シビュラのデータベースを用いれば映像や写真から犯人を割り込むことだって容易だ。良くも悪くも人間の刑事は時代と共に減ったのだ。

 

 取り分け公安の中でも引っ張りだこなのは刑事課一係の面々である。監視官、執行官ともに非常に優秀な人物が揃っているから事件の際はまず彼らが招集された。推察と直感を駆使して犯罪に立ち向かう彼らは正しく刑事の鑑といえるだろう。まさしく公安の花形と呼んで相違ない。

 二係、三係も職務は基本的に一係と同じだが、一係に比べると派手な活躍は多くない。どちらかといえばサイコハザードを未然に防ぐため潜在犯を確保することが主だし、大きく動くのは一係の手が空いていない時くらいのものだろう。これもまた今の世では大切な仕事であり使命だ。何もドミネーターで対象を排除するだけが公安ではない。

 

 監視官の天宮緋瑞は、そんな刑事課三係の所属である。

 

 


 

 昨夜の潜在犯追跡から一夜明けた朝、既に緋瑞は三係の職場でモニターと向き合っていた。自らの手で古倉隆へドミネーターを向けた以上、報告書も自分で書き上げる必要がある。どちらかと言えば監視官は執行官の書いた報告書に目を通すのが仕事なのだが、三係では割と頻繁に緋瑞が自ら手掛ける。それだけ執行官の前に出ているという証左だ。

 

 時刻は朝の八時、まだほとんどの刑事たちは出勤してこないだろう。だから緋瑞は淡々と、人目を憚ることなく機械のように文書を作成していく。夜中から続けていたこともあり、既に半分くらいは報告書も完成していた。

 

「お疲れ様です、天宮監視官。今日も泊りで作成ですか?」

「おはようございます、黒山さん。今日は随分と早いですね」

 

 黒のスーツをピシリと着こなし出勤したのは、三係所属の執行官こと黒山(あきら)だった。成人男性の平均を優に超える巨躯を持つ彼は自分の椅子へと窮屈そうに腰かける。メキメキと悲鳴をあげた椅子はいつもの事だから誰も気にしない。

 黒山が入ってきた途端に緋瑞は口元に微笑を浮かべいた。いったん書き途中の報告書から目を上げると、なじるような視線と共に揶揄ってみせる。

 

「また椅子を壊したりしないでくださいよ。もういくつ経費で買い直したことやら」

「あなたが監視官になってから今日までの三年間で、五つの椅子が壊れましたね。ただこれを自分のせいにはしないでいただきたい。生まれつきの身体と、なにより耐えられない椅子が悪いんです」

 

 理屈っぽい言い訳は神経質な彼らしい。威圧感すら与える巨体は刑事としてかなり有効だが、こうして日常生活で揶揄われるのには辟易していた。もちろん、だからといって緋瑞を含め他の者が冗談を止めることはないのだが。

 ともあれ険悪な雰囲気になることもなく両者は和気藹々としていた。どちらも早い内から三係にやって来るだけあり、このやり取りも半ば恒例行事である。

 

「でももし次に壊れたら、今度こそ大きい椅子を買ってはもらえませんかね? やはり窮屈なのはいけない、仕事にも支障が出ます」

「あなたの働き次第で考えておきますよ。そうですね、私よりも多くの潜在犯を捕まえたらとか」

「これは手厳しい。誰よりも前に出たがる天宮監視官を超えるのは難題だ」

 

 本来なら潜在犯を追う執行官を後ろから監視するのが監視官たる緋瑞の役目だ。それが三係では監視官が積極的に潜在犯を追い詰め、執行官がその補佐をしてばかり。無論職務を怠慢していることもなく、単に彼女が行動的すぎるだけである。

 他の誰よりも潜在犯捕獲に燃え、監視官としての仕事に熱を入れている──黒山はそう考えているから彼女に敬意を払っている。他の執行官もおおよそ同じで、皆が緋瑞の刑事としての仕事ぶりには感心していた。時にはセオリーから外れる行為も平気でするが、全ては刑事としての熱意と正義感あってこその信頼だ。

 

「ええ、なので頑張ってくださいね。【正しい者は七たび倒れても、また起き上がる】ように、あなたが成果を出してくれると()()()()()ですから」

「……そう、ですか。是非とも励ませていただきます」

 

 黒山は天宮緋瑞という監視官を疑うつもりはない。故に、稀に彼女に覚える違和感について訊ねたことは一度もなかった。どこか実感の伴わない言葉があるとしても気のせいだと断じて憚らない。

 だってそんなことをせずともシビュラによってサイコパスも、人間性も、全て保証されているから。『それは()()()()()()()()()()()ですか?』などと酔狂な質問は必要性がないのだ。問うたところで無意味でしかない。

 

「まだ人も揃わない内ですが、今日も一日元気を出していきましょう。私たち公安の使命とは、無辜の市民をストレスから守りサイコパスを健全に保てるようにすることですからね」

「仰る通りで。微力ながら全力を尽くしましょう」

 

 力強く応えた黒山に緋瑞は微笑を零す。違和感など微塵も覚えさせないそれは先の疑問を軽く一蹴してあまりある説得力だ。執行官へと向ける穏和で柔らかな態度も監視官としては異例だが、ギスギスしてしまうよりずっと良い。上司が話の分かる職場は居心地が良いものだ。

 

 刑事課三係の朝は、いつもこのようにして始まる。

 


 

 その後は残る二人の執行官も出勤し、普段通りに業務へと励む。とはいえエリアストレス警報が響くこともなく、また前日のように派手な大捕りモノが起きる訳でもなく、いたって平和に刑事課三係の時間は過ぎていた。

 キーボードから手を話時計をチラッと見た緋瑞は大きく伸びをする。気が付けば既に十時を超え、十一時をやや回ったところである。ようやく上への報告書も書き上げ一段落付いたのだが、身体の方がガチガチだった。

 

 猫のように身体を伸ばし、首や肩を回して身体をほぐしていると、金髪を後ろで括った女性がデスク越しに身を乗り出していた。これも良くあることなので「仕事はどうしたのか」とは敢えて聞かない。女性というより少女の方が近い外見の彼女は、緋瑞を一瞥して悪戯っぽく笑った。

 

「あ、緋瑞ちゃん報告書の作成終わったのー?」

「ええ、まあ何とか。白谷執行官、あなたはちゃんと仕事をさぼってませんよね?」

 

 その追及に白谷由井執行官は「うぐっ……」っと情けない声を漏らした。おおかたモニターの前で座っていることに耐えられず、緋瑞の業務が一段落したのをダシに絡みにきたのだろう。スーツを着崩し、ピアスなどを付けて洒落た彼女はデスクワークよりも体を動かす方が得意な人物である。

 彼女は緋瑞よりも二つ年下の二十一歳であり、ここに配属されてから一年少しが経過している。三係では一番の若輩だけにエネルギッシュで感性も若い。緋瑞のことを気軽に『緋瑞ちゃん』と呼ぶように関係も良好だ。

 逆に三十を少し超えてる程度の黒山と、その少し手前にいる灰森執行官はやや苦手意識を持っているらしい。特に後者は非常に寡黙かつ控えめなので自己主張も少なく、すぐ近くに居るというのに影が薄い。むしろ人との関わりを極力避ける彼が意図的に気配を消している有様だった。

 

 はぁ、と緋瑞は溜息をついた。腰に手を当てて叱責するようなポーズを取る。

 こういう場面ではそれが効果的だと、今までの()()()から学んでいた。

 

「まったく、それではいつまで経っても執行官として成長できませんよ。苦手なことにも全力で取り組んでみなさい、失敗を恐れてはいけません。誰だって最初は必ず失敗するのですから」

「はーい……あ、でもまた昨日みたいなことが有ったら任せてね! 今度はちゃんと緋瑞ちゃんの前に立ってみせるからさ!」

「期待してますよ。黒山さんといい三係はやる気があって何よりです。灰森さんも負けてられませんよね?」

「…………ええ、そうですね」

 

 控えめで消え入りそうな返事にうんうんと頷いてから、緋瑞は勢いよく席を立った。低めのヒールを足音高く響かせながらスタスタと出入口へ向かっていく。

 

「あ、ずるーい。一人でもう休憩取るのー?」

「私はあなたと違って早い時間からここに居ますから、軽い息抜きくらいさせてくださいよ。あ、その間にサボったりしたらダメですからね」

「分かってますって! もー、緋瑞ちゃんは心配性なんだから」

 

 そんなやり取りをしてから、三係唯一の監視官はひとまず職場から離れたのである。

 


 

 ガコン、と音を立てて缶コーヒーが落ちてきた。砂糖多めで甘いタイプだ。それを自販機から取り出した緋瑞は、まずは一口飲んで喉を潤す。苦いのが口に合わない彼女にも優しい味だった。

 ほう、と一息ついて休憩用の椅子に腰かける。こういうとき、緋瑞は観葉植物を眺めながら何も考えずにボーっと座ってることが多い。頭を酷使した後は頭を空っぽにするのが一番の休息となるからだ。

 

 ちびちびと缶コーヒーに口をつけることしばらく、不意に後ろから声が掛けられた。自分の世界に籠っていた緋瑞も強制的に現実へと引き戻される。

 

「相変わらず甘いコーヒーばかり飲んでいるようだね、天宮監視官」

「……ああ、宜野座(ぎのざ)さん。これはどうも」

 

 宜野座と呼ばれたやや長めの黒髪に眼鏡をかけた細身の男は、やはり自販機に金を投入するとコーヒーを購入した。緋瑞と違って無糖のブラックだ。大昔に飲んでみて吐き出した覚えのある彼女からすれば、どうしてそんな苦くて癖のある液体を飲めるのか疑問で仕方ない。

 男は緋瑞の隣に腰かけると一気に缶コーヒーを(あお)った。よほど疲れていたのか、緋瑞よりも長く重たい溜息を吐きだす。背もたれによりかかる様に身体を投げ出して楽にする姿は普段の気真面目さからは想像も出来ない姿である。

 

「随分とお疲れのようで。刑事課一係はかなりの修羅場とお見受けしますが?」

「半分正解だ。しばらく追っていた事件の犯人を捕まえたまでは良かったんだが、そのまますぐにエリアストレスの抑制に駆り出されてな。そのせいで一昨日からほぼ休みなしだった」

 

 刑事課一係所属の監視官、宜野座(ぎのざ)伸元(のぶちか)。それがこの男の肩書と名前だった。緋瑞よりもキャリアも年齢も上ではあるが、互いにその手腕は認め合っている。よって同じ監視官としての共感もあり、それなりに気の置けない仲だった。

 一係は三係と同じく一人しか監視官がおらず、よって執行官を連れ出す時は必ず宜野座の同行が必要となる。しかも一係の執行官は優秀なのでよく仕事が回ってくるとなれば、彼の負担は推して知るべしというところか。

 

「それはまたご愁傷様ですね。こちらも昨日は久々に現場へ出たので疲れてしまいましたよ」

「君は相変わらずだ、少しくらい労ってくれても良いだろうに……いや、同情を求めているようじゃ監視官は務まらないか」

 

 だが、緋瑞にとっては推して知るべき内容でもなかった。

 他の誰も知らないことだが。上辺より先の()()()()()、彼女に求めてはならないから。

 

 自己解決して宜野座はさらにコーヒーを喉へと流し込む。たった二度口を付けただけで中身が空っぽになったらしく、中身のなくなった缶はゴミ箱へと捨てられた。よく見れば目元には色濃い隈が浮き出ている。本当に寝る間も惜しんで働いていたようだ。

 その勤勉さは彼の美徳だが、同時にそれだけ公安の仕事が増えていることに疑念を覚えなくもない。通常ならシビュラの監視を掻い潜って事件を起こすなど不可能である。せいぜいが未遂のところを咎められて逃げ出し、自棄になって犯罪を起こす程度か。犯罪の手段を考えた時点でサイコパスは曇るし、一般人がそう都合よく事件を起こせるはずがない。

 

「最近は何かと物騒な気がしますね。前よりもさらに危険な事件が増えている気がしますよ」

「同感だな。どいつもこいつも実際に事を起こしてからようやくシビュラの目に留まる始末だ。潜在犯の時点で大人しく隔離施設に連行されてくれれば良いものを……特に『銃剣事件』は酷い捜査状況だ」

「あなただって、大概相変わらずですね」

 

 宜野座は苦虫を嚙み潰したような口調で吐き捨て、そんな彼へと緋瑞はシニカルに唇を歪ませた。彼にとってシビュラは絶対の存在だし、またある事情から潜在犯に対しても嫌悪や忌避が先立ちすぎている。それは自分の部下である執行官に対するスタンスにも影響されていた。

 執行官に対して、同じ人間である以上の感慨を持たない緋瑞とは真逆だ。どちらの方がより正しいかはここで論じることでもないだろう。上司が部下に感情移入してしまえば、時に悲劇へと繋がるのだから。一概に括れる話でない。

 

「近い内にやってくる新人監視官に期待したいな。出来るだけ早く使い物になってくれると助かるが」

「あなたの睡眠時間が、ですか?」

「……否定はしないが、単に世間の平穏だよ。潜在犯をのさばらせておけば碌なことにならない、一人でも多く減らしていくのが俺たちの仕事だからな」

「ごもっともで。良い刑事さんですよ、あなたは」

「止せ、君に褒められても座りが悪い」

 

 照れたように苦笑し、宜野座はそのまま緋瑞へと背を向けた。もう休憩は終わりということなのだろう。若干足元のふらつきを隠せていないのに大した根性である。

 緋瑞もちょっと休みすぎたかと自省して残っているコーヒーに口を付けていると、最後に宜野座の方から声をかけてきた。

 

「話には聞いているだろうが、今度の新人監視官は二十歳の女性だ。年齢も近いからたぶん君とも上手くやれるはずだろう、係は違うが先輩としてたまに構ってくれると助かる」

「……それ、先輩としての職務放棄というのでは?」

「俺なりの気遣いだ。君にしても新人にしても、同年代の執行官を相手するよりよほど良いだろう。下手に関われば最悪、犯罪係数を上昇させて執行官になりかねない」

「ご忠告どうも。ですが私、かなり犯罪係数の上がり辛さに自信があるので大丈夫です」

 

 言葉に反して全くありがたい様子はなく、だが怒っている風もない事務的な口調だった。彼女はたまにこういった姿を見せると宜野座は知っているから驚かない。優秀だが不思議な奴といった認識こそしているが、()()()()()()()()()()()()()()以上は嫌ったり本性を疑ったりしない。シビュラはそれだけ絶対的な指針なのだから。

 

 そして二人はそれ以上会話を交わすこともなく、自らの座るべき椅子へと戻っていったのである。

 

 


 

 心理的無痛症──緋瑞は自らの症状をそう呼び表している。実際にそのような症例があるかなど知らないし、そもそも医者に直接診断されたわけでもないのだが、この名称が一番自分の中でしっくりくるのだ。

 

 無痛症とは、簡潔にいえば字の通り痛覚を感じられない病気のことを指す。例えば転んだとしても痛みを感じないし、もし殴られたとしてもやはり頬は痛まない。あらゆる痛覚から遮断される訳だが、これは全く良いことではなかった。

 まず、痛みを感じないということは自分の危険に対して鈍感になることを意味する。もし正面から車が突っ込んで来ようとも、痛みによる未来予測が出来ないと躱そうとすら思えないのだ。あるいは単純に病気になったり怪我をしても発見が遅れてしまい、結果として命に関わるケースにもなりかねない。

 だがこれのより恐ろしいところは、自分だけでなく他人に対する共感性すら失われてしまうところだ。痛みを理解できないから、当然相手の痛みだって理解できない。想像は出来ても実感が伴わず、そのせいで社会に馴染めくなる。もちろん全員がそうとは限らないのだが、”他人にとって当然の感覚”を理解できない人間の心は、当人以外の誰にだって理解も否定もしようがないのだから。

 

 ──天宮緋瑞という女は、生まれつき感情というものが備わっていなかった。

 

 喜怒哀楽を欠片も感じられない。どころか驚きや恐怖、嫉妬という負の感情さえ判然としない。何をしてもされても無感動であり、楽しんだり怒ったりという振れ幅がまるで無いのだ。まるで機械のように淡々と凪いだ心は何物にも干渉されず、また動かすことすら不可能という有様。人としてあまりに致命的な欠陥を備え、彼女はこの世に生を受けてしまったのである。

 幼少時の彼女にとって幸運(ふこう)だったのは、一般常識への理解は正確に持ち得たことだろうか。実感がないから共感こそ出来ないものの、他人に喜怒哀楽があることは弁えていた。人を助けることは正しい行為で、誰かを騙したり傷つけることは悪い行為という真っ当な倫理観すら備えており、努めて善い人間であろうと心掛けもした。決して『他人の心を理解できないから』と好き勝手に行動したりはしなかったのだ。

 

 しかし、やはりと言うべきか一般から見た彼女はあまりに異質だった。何があっても笑わないし怒りもせずに無表情で、感情表現がないから考えていることがちっとも見えてこない。なまじ表面上は良い子なだけにアンバランスさはいっそう浮き彫りとなる。他人に対して敏感な子供たちはすぐ彼女から距離を取ったし、大人たちもまた可愛げのない不気味な少女に対して辛辣だった。

 

「もっとたくさん笑って、泣いて、怒ったりもしてみよう? いつもそんな顔じゃ可愛い顔が台無しだぞ」

 

 緋瑞の父親は頻繁にそう言っていた。彼女が生まれてすぐに母親は死別していたから、親心として強く娘のことを心配していたのは想像に難くない。多分に彼女のことを想っての発言だったろう。

 なのに緋瑞にはその感情が理解できないのだ。状況や口調から父が困っている()()()とは推測できるのものの、共感は不可能で真の意味での理解など以ての外。そもそも、どうして心配してくれているかすら把握していたかといえば怪しいだろう。親心など察する余地すらないのだから。

 

 ただし先にも述べたように、彼女は一般常識への理解と真っ当な倫理観は持ち得ていた。同年代の子供の中で取り分け利発だったのも幸いしたのだろう。自分が異常者であることは周囲との比較で自覚したし、親を困らせるのが良いことでないと知っていた。

 ある日を境に緋瑞は擬態を始めるようになる。他人の一挙手一投足を観察して、どのタイミングでどう行動すれば良いかを学びだしたのだ。共感は出来ずとも学習は出来る、そんな人間らしくない極めて合理的な結論から導かれた処世術だった。

 笑みを浮かべ、時には怒り、泣いて見せたり、良いことがあれば喜んでみる。穏やかな口調で皮肉っぽい発言をしてみたり、かと思えば子供らしく振舞ってみたり。非人間らしい言動や雰囲気はすっかり鳴りを潜め、数年も経過した頃にはすっかり普通の人間のように装えていた。

 

「お前がちゃんと笑うようになって父さんは嬉しいよ。それでこそ、母さんの娘だ」

 

 父が大きな手で頭を撫でてくれたのは七歳の時だったろうか。その時の記憶を彼女は今でも鮮明に覚えている。父はとても喜んでいるんだなと、他人事のように感じたのが印象的だった。

 それから先は順風満帆といって差し支えない生活を送ることになる。元から容姿端麗で頭脳明晰、身体能力も高いとスペックだけなら非の打ち所がない人物だったから、そこにごく普通の人間らしい上辺を取り繕うだけで簡単に周囲からの態度は反転した。良くできた人間と持て囃され、シビュラすら彼女のサイコパスは一点も曇りが無いと判定した程に。

 

「でも、それはおかしい。だって私は、感情を模倣するために悪意だって学んだのに。どうしてシビュラすら私を善い人間と判断するの?」

 

 故に緋瑞はいっそう孤独だった。

 誰も理解者はいないし、話したところでどうにもならない。唯一社会全体を公平に取り仕切るシビュラすら、何故か彼女の心を透き通った赤色だと判定してしまう。最初は何かの間違いだと思って気にも留めないが、万引き程度の軽犯罪に手を染めてもまだ変わらない時点で疑念を持った。自分は、機械にすら相手にされていないのかと大真面目に考えたりもした。

 

「シビュラよ、シビュラよ、何故あなたまで私を見捨ててしまったのですか?」

 

 重ねて言うが、緋瑞は感情をよく分かっていない。一見すれば普通に他者とコミュニケーションが取れているように見えても、それは推測と経験から導かれた形だけの振る舞いである。心から他人に同意できず、また自分の感情すらどこか俯瞰するように()()してしまう。いわばスピーカーのように録音した感情(おんせい)を再生しているだけなのだ。

 それでも、この時ばかりはおそらく失望してしまったはずだ。自分が人として異常なのはもう良いが、この社会における”神”の如き存在ならばきっと理解してくれるだろうと。勝手にそう信じて、気が付けば裏切られていた。

 

 シビュラの目を持ってしても彼女の精神(サイコパス)を見抜けないとなれば、もはや誰一人彼女を理解できる人間など存在しない。日々に何の楽しみも見いだせず、かといって後ろ暗いことを考えても備えた倫理観が邪魔をする。人生の八方塞がりであり、周囲のあらゆるものが空虚に見えてしょうがないのだ。

 監視官になった理由も大した意味はなかった。ただシビュラによる職業適性検査で監視官を勧められたから、その道に進んだだけのこと。何かを期待してはいないし、一般的な倫理以上の大義があった訳でもない。他に何もないからやってみようという、どこまでも消極的で受け身な選択に他ならない。

 

 この時点で、天宮緋瑞という女性は瀬戸際ながらも真っ当だった。

 精神的な異常者だが社会に溶け込むことを可能とし、また自らのサイコパスの特異性を知っても悪用するつもりが欠片もない、正真正銘の善人だった。もし何事もなければどうしようもない破綻者として、だが周囲から尊敬も集める監視官として順調なキャリアを積んでいったことだろう。

 

 しかし運命の車輪はそう容易くは止まらない。

 

「──君は、紙の本を読んだことはあるかい?」

 

 果たしてそれはいつ、誰に言われたことだったか。名前を聞いた訳ではないし、何処で出会ったかも定かではない。ほんの数年前の記憶なのにフワフワとした夢のように現実感が無いのだ。

 夕暮れによく映える、白い髪が印象的な細身の男だったと思う。周囲に人影はなく、また緋瑞も一人だった。その時にふと男が話しかけてきたのだ。普通なら不審者を疑うところだが、彼の超然とした態度に緋瑞は引き込まれた。

 

 あるいは、自分と似たような雰囲気を肌で感じたからかもしれない。

 

「あまり、読んだことはありません。電子書籍で十分でしょう」

「いや、電子書籍だと味気ないものでね。紙の本は良い、ページを捲るごとに心が調律されるんだ。実際に文章に触れている実感を得られる、これは中々の快感だよ」

「はぁ……」

 

 珍しい人間だった。科学の発展したこのご時世、紙の本はほとんど存在しない。今やあらゆる書籍はシビュラによって管理されたうえで電子化されており、皆が携帯端末で文章を追うのが常態化している。それに違和感を覚える者は緋瑞の周りにいなかったし、本人もまた気にしたことがない。

 なのにこの白い男は、いきなり初対面の女に紙の本の良さを説いてきたのだ。理由が一切不明だし怪しすぎる。だがすぐ傍にあるサイマスティックスキャンは反応を見せず、ドローンはやって来ない。

 

「何故、私にそのような話を?」

「そういう気分だったから、としか言いようがない。たまたま君と僕がここに居て、顔を合わせた。そしてふと紙の本を読んだことがあるか聞いてみたくなったんだ。我ながらおかしなことを告げてる自覚はあるが、真実それしかないのだよ」

 

 まるで雪のように掴みどころのない男である。たぶん嘘ではないだろう、虚偽をする人間にしては瞳が真っすぐだった。

 彼はふっ、と笑うと懐から一冊の本を取り出した。

 

「困らせてしまってすまなかったね。これはせめてもの詫びだ、受け取ってくれ」

「……聖書、ですか」

 

 かつて、世界で最も普及したとされる本を緋瑞へと手渡す。文庫本程度の大きさであり、厚さもそうはない。だがペラペラと捲ってみると細かい字がビッシリと書かれていた。英語による原文と、日本語に訳したものの二つだ。

 宗教はこの日本において既に過去のものとされ、海外から鎖国されてるのもあってか興味を持つ人間は極僅かだ。それこそ物好きが調べる程度のことであり、故にこの男が紙の聖書を持っていること自体がとんでもなく珍しい。

 

「偉大なる先人ダンテの格言にはこうある。【自分の起源をよく考えるのだ。あなたはけだもののように生きるために創られたのではない。美徳と知識に従うためだ】、と。無論その本が全てではないが、今の世を考え直すきっかけにはなるかもしれない。重ね重ね、迷惑をかけたね」

 

 好き勝手に告げて、聖書を緋瑞に手渡して、男は背を向けて去って行った。後に残された彼女はしらばく呆然としてから、本を鞄の中へと仕舞う。見知らぬ人間から渡された本など捨てても良いはずだが、生憎と緋瑞はそのような恐怖とか嫌悪の感情を持ち得ない。だから微かな好奇心に身を任せて、中身を軽く読んでみようと考えたのだ。

 

 結果として、これが緋瑞にとっての第一の転機となる。

 

 聖書は非常に読み辛い。登場人物が多く、また名前も同名が多くて紛らわしい。宗教的な説話ばかりで寓意もあるから意味を取り辛い。そこらの人間に聖書を読めといったところですぐに投げ出してしまうだろう。

 最初は緋瑞もそうだった。ただなんとなく読み進め、そして順当に飽きた。時間の無駄だと考えて放り出そうとしたところで、折よくあるページが目に留まったのである。

 

【神よ、神よ、何故私をお見捨てになるのですか】、か……」

 

 救世主は磔刑に処される直前、そのように呟いたという。まるでいつか緋瑞がシビュラに問うた言葉のようで、改めて興味が湧いたのだ。彼はどのような経緯で、この言葉を放つに至ったのだろうかと。

 そこからはもう早かった。ページを一枚一枚捲り、読んで、難解な文章を咀嚼していく。確かに紙の本はよかった。電子化された文章を追うより、すんなりと文章が頭に入って来る。

 

 読み終えたとき、彼女は初めて心の中に”熱”が灯ったのを感じた。

 

「もし神が本当に居るのなら、どうして私が産まれてきたのか。例え悪人だろうと清らかな心を持てるのならば、どうして私には何一つないのか。その意義を私は知ってみたい」

 

 文字通り神にも縋る思いだった。人工的な全能者(シビュラシステム)はかつて緋瑞の内面を暴けないと証明されている。限界は既に見えていたし、この社会に何らかの思い入れがあるかと言えばそれも無い。端的に、彼女はシビュラに何の興味もなかった。

 翻って聖書の神は中々面白い。全能で、何もかもを可能とし、完璧に崇拝されているのに、嫉妬深くまた細々とした陰湿さも感じられる。その様はシビュラの機械的な全能よりも余程人間に分かりやすく、同時に理解も出来ない上位者としての在り方だ。

 

 古き唯一絶対の神と、機械仕掛けの人工神。

 宗教にのめり込むつもりはないが、どちらを新たに信じてみるかはもはや明白だった。

 

「私は私の存在する意味と価値を証明してみたい。もし神がいるのなら、その存在を信じてみたい」

 

 これまでは空虚で意味のない人生を送ってきた。自分の中に何の情熱も気概も存在しないから、ただ流されるままに生きてきた。希望も絶望もなく、また目標や願いなども存在しなかった。

 だけどこのとき、ついに緋瑞は見つけたのだ。客観的に考えてあまりにおかしい自分にもこの世界で生きる意義があるのか、またそうあれかしと定めた神は実在するのか。もし実在するというなら、きっと異常な我が身にも定められた価値はあるのだと信じられるから。

 

 この日から彼女は聖書を持ち歩くようになった。もしこれを渡してくれた相手とバッタリ再会したら、その時は読みこんだ本を見せて礼を言うために。そしていつか、自分の存在意義を証明するのだ。

 

 ──さらに二一〇九年、緋瑞が監視官になった時、二度目の転機は訪れた。




それは、出会ってはいけない2人。
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