〝ミネルバ事件〟として記憶されている平行宇宙に関わる出来事からおよそ一世紀。その事件が切っ掛けとなりテューリアンと地球の勢力範囲には平行宇宙からの干渉を監視する警戒網と呼べる物が構築されていた。
およそ百年の間に理論的な発展もあった。
事件発生当時、テューリアンと地球の科学者達は多世界解釈的な立場を採っていた。特に平行世界の過去への遡行に関して、定量的な解析で発散(計算で無限大が発生する事)が生じない事からテューリアンの人工知性体〝ヴィザー〟もこの立場を支持した。
事件から三十年程が経った頃、ある地球人物理学者が「ビリヤードよろしく平行宇宙を玉突き状態で渡って行くエネルギー(物質もエネルギーである)は最終的に何処に行き付くのか? 量子的に干渉しあっている平行宇宙間でのエネルギー収支は本当にプラスマイナス・ゼロで可逆的なのか?」という疑問を投げかけたのである。
平行宇宙が存在した。観測での証拠が在るから平行宇宙との干渉は可逆的であろうし現状の理論で破綻が生じていない。何も問題無いじゃないか。目の前の大発見に目が眩んでいた科学者達はそう考えていた。
そこへ投げかけられたこの疑問は双方の科学者達から黙殺されるかに見えた。
しかし、その疑問を掬い上げて計算により検証したのは他ならぬヴィザーであった。ヴィザーが平行宇宙間のエネルギー収支を考慮して検証した結果、至る所で発散が見受けられる事が判明したのである。
この結果にテューリアン科学者達は愕然とする。
テューリアンの理論は、彼等がかつて太陽系内に存在した惑星ミネルバに居住していた二五〇〇万年前から検証と実証がされており、ストレス場による重力制御や、それにより発生させたブラックホールを利用した高次空間へのアクセスによる超光速の情報及びエネルギーの伝送、宇宙船の瞬間移動等の高度な恒星間文明を支える屋台骨である。
いわば彼等が依って立つ科学技術体系の根本である理論に綻びが見つかったのだから驚かない方が無理と言うもの。
逆に地球人科学者達は色めき立った。
人類発祥の遙か以前より検証・実証されていた完璧な理論が破綻した事によって、自分たちにも新たな発見を見いだす事ができるチャンスだと捉えた彼等は考えたアイデアを出し合い様々なアプローチを始めた。
結果だけ言ってしまうと、テューリアン理論と地球の科学者達が捨て去ろうとしていた超ひも理論等の再検討と融合が行われ新しい理論体系へと生まれ変わる。
勿論これにはヴィザーも参加し再構成作業の大きな力となったのは言うまでも無い。
この一連の出来事により平行宇宙に関する理解はミネルバ事件の当時とは全く違う物となる。端的に言えば〝ブレーン(膜)宇宙論〟が進化して復活を果たしたのだ。宇宙は虚数項で表現される高次空間も含め超平面(ブレーンと言われる)状態で表され、複数のそれが〝一三次元の共通余剰空間〟に存在しているとされた。
ブレーン同士は互いに独立であり、共通余剰空間のある次元軸上で交差をしない限りは相互作用をしない。しかも各々のブレーンは共通余剰空間で独自のポテンシャルを持ち、例えばブレーンAとブレーンBが交差して相互作用を行うには互いのポテンシャルが近い値でなければならない。ポテンシャルの違いによる障壁の大きさは指数関数的に増大するので僅かの差でも相互作用を行う確率が極端に低くなる。
また共通余剰空間での揺らぎによるブレーンの生成が複数同時に行われた場合に、これらは最初から相互作用を行う共鳴状態として存在し、ミネルバ事件で確認された平行宇宙はこれに当たるものであると結論付けられた。共鳴状態にあるブレーン同士でなければ滅多な事で相互作用(エネルギー交換)が発生する事は無い。例えば共鳴状態にあるブレーンAからブレーンBへ人為的操作で物質を送ると、それに見合ったエネルギーがブレーンBからブレーンAへ相互作用の結果として送られるのである。
これらの理論的発展と工学的応用によって、より確実に平行世界いや共鳴状態にある他のブレーン宇宙からの、または他のブレーン宇宙への干渉を検出して、対象のブレーン宇宙内の座標軸までを特定する技術が確立し万が一に備えての監視網が整備されて行ったのである。
* * *
平賀才人。二十三歳の理系の大学院生。
彼女居ない歴五年で経験人数は一人だけ。
ちなみに相手は高校生の時に付き合っていた同級生で、大学進学に伴い遠距離恋愛になりいつの間にか疎遠になって自然消滅と言う在りがちなパターン。本人はそれに関して残念がっている様子もない。
小学生の頃の通知票には毎度「負けず嫌いで好奇心が強く何にでも興味を示すのは良いのですが、ちょっとヌケているので注意しましょう」と書かれていた。
母親からは事ある毎に「あんたヌケてんだから勉強くらいは出来るようになりなさい」と言われ続けていた。
父親からは「ヌケていようが勉強嫌いだろうが、まあ元気が一番だ」と半ば諦めとも取れる事を言われていた。
ヌケているので物事を深く考えない、後先考えずに行動に移るなど欠点は多々あったが、一本筋は通っていたし社交的な性格だったので友人は多い方だった。
勉強そっちのけで日が暮れるまで遊んでばかりいたので成績は低空飛行。
そんな小学生時代を送っていた才人が心機一転して勉学に打ち込み大学院まで行く様になったのには理由がある。
平賀家の家族構成は物理学者で国立大教授の父親と専業主婦の母親、そして二人の間に出来た才人の三人家族。蛇足だが母親は父親の元教え子で父母の年齢差は一七歳。未だに夫婦一緒で風呂に入るアツアツぶりである。そんな両親のもとで才人はヌケてはいるが健やかに育っていった。
それが起こったのは才人が小学五年生の冬のある日、珍しく父親が早く帰宅すると言う事で母親が気張って用意した鍋を久しぶりに親子三人で食べている時である。
「才人、あんた肉ばかり食べないで野菜も食べなさい。そんなんじゃいつまで経ってもヌケたままよ」
「はっへ、にふふまひんだもん。ほはんねぇ(だって、ニクうまいんだもん。とまんねぇ)」
「食うか喋るかどっちかにしろ!」
才人は母親に肉ばかり食べている事を注意された時に口に物を頬張ったまま答えた事で父親にゲンコツを食らわせられる。そのショックで
「あち! 痛っ! とうちゃんこそ怒鳴るか殴るかどっちかにしてくれよぉ」
「四の五の言わないで母さんの言うとおり野菜も食え!」
更にゲンコツ追加で才人はテーブルに突っ伏す。そんな賑やかで心温まる(?)団らんの場に、唐突に〝それ〟は現れた。
その様子は、まずテーブルで彼の正面に座っていた母親、そして上座に座っていた父親によって目撃された。
才人が立ち直り再び鍋に箸を伸ばした時、両親からは彼の背後の景色が奇妙に歪んだ様に見えた。
そうして次の瞬間に音も無く“銀色に光る楕円形の何か”が才人の後ろに出現したのだ。
両親が驚きの余り目を丸くし手にした茶碗を取り落とす様を見て、才人は「なんだよ?」と言うような顔をして両親を見つめる。
暫くして両親の視線から自分の背後を見ているんだと理解した才人は後ろに振り向くと同時に、両親と同じように驚きで固まってしまった。
才人の目にも“銀色に光る楕円形の何か”が見えたからだ。
鏡にも似た鈍色に光るそれは時間にして二十秒ほどすると唐突に消え、それが在った場所にはフリル付きの可愛らしいドレスを着た、年齢七歳前後と思われるフランス人形みたいな女の子がタクトの様な物を握りしめ、鳶色の瞳をした目を見開きながら呆然とした表情で立っていたのである。
その子の髪は染めたかの様に鮮やかな桃色がかったブロンドだった。そして後になって気付くのだが才人の後ろにあった観葉植物であるエバーフレッシュの鉢植えが消失していたのだ。
突然の闖入者に対して平賀家で一番最初に反応したのは才人の母親だった。震えながら外国語と思われる言葉を叫びながら座り込んで怯える女の子に近付くと、まるで親鳥が雛を掻き抱く様に優しく抱きしめた。
女の子はその腕の中でじたばたと抵抗する。
そんな女の子に母親が「大丈夫だからね。安心してね」と柔らかな口調で幾度も語りかけていると彼女は急に大人しくなり、才人の母親の胸に縋り付いて「うわぁん」と声を発てと泣き出したのである。
その様子はまるで迷子が母親に会えた事で安心して泣いてしまった時に酷似していた。事実、女の子は迷子だった。
しかしそのスケールは、時空どころか高次空間と共通余剰空間を超えた壮大なものだったのである。
平賀家で小さな闖入者が騒ぎを起こしている頃、ジョルダノ・ブルーノ基地をはじめとした太陽系内に設置されているUNSA(国連宇宙軍)の監視網で大規模な異常が検出された。
その異常は遠く離れたテューリアンが統治する各恒星系でも観測され、h-リンクによってリアルタイムに各地から送られて来るデータをヴィザーが即座に解析し結果を地球へと通知すると各国政府、特に日本政府は騒然となった。
内容は〝大規模なエネルギー或いは纏まった質量のブレーン間移動によるエネルギー交換を検知。場所は地球の地表上で、およその位置は北緯三五度三X分、東経一三九度二X分、海抜九十メートル〟で、そこは人口が密集する東京の住宅地である。
ブレーン間の質量移動ではそれに伴いワームホールが発生するのだが、移動する質量(エネルギー)の規模により発生する重力波の大きさが変化する。今回観測された現象から推定される規模のものだと関東一円に壊滅的な被害をもたらすはずだった。
しかし衛星軌道上からは発光現象や重力異常等を認められず、どこからも異常事態が発生しているとの報告が無い。
それでも何らかの異常が発生した事は観測結果から疑いようが無く、日本政府は速やかに警報を発すると同時に非常事態を宣言、国防陸軍東部方面軍中央即応集団を緊急出動させ報告にある地点へ向かわせた。
更にヴィザーからの詳細な情報が入る。詳細な緯度経度が判明した事で中央即応集団の司令部はそれを各隊に転送し住所を確認する為に住宅地図上に反映させた。すると地図中心のカーソル部分に強調された『平賀』の文字が映し出されたのだった。
日本政府がてんやわんやし始めた頃、平賀家では女の子とのコミュニケーションを試み始めていた。
才人の母は語学にも堪能で、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、ベルギー語、ロシア語、スウェーデン語、フィンランド語、北京語、広東語、朝鮮語、ベトナム語、タガログ語、アラビア語にスワヒリ語と十八ヵ国語が話せたりする。
この時代には自動翻訳・通訳装置が普及した事で外国語を学ぼうとする人口は減少していた。蛇足であるが失われてしまった民族本来の“言葉”を取り戻そうと言う活動が世界各国で活発に行われた事もあった。
そんな時代に何故に才人の母は他国語を学んだのかと言うと、機械音痴と父の無茶振りによるものであった。
才人の母は親しい友人からも「ホントに理系なの?」と疑われる程の機械音痴、いや、機械音痴というレベルを遙かに超えていた。
専門分野の測定器どころか一般に普及している携帯端末に至るまで、彼女が扱うと必ずと言って良いほど〝破壊〟されてしまう。彼女にその意志が無くても〝故障する〟と言うより何故か〝破壊〟に至ってしまうのだ。
過去に研究室にあった小型粒子加速器が有り得ない壊れ方をした事もあったらしい。
しかも不思議な事に家庭用品として在る物ではそんな事が起こらない。
同じ研究室に居たファンタジー好きの友人は、被害に遭った実験機器の有様を見て「グレムリンでも飼っているんじゃなかろうか?」と呟いたらしい。
そんな〝機械音痴〟と言うレベルを遙かに超えていた才人の母は、夫の研究室で助手を務めていた頃に海外との調整やら交渉やらを面倒臭がった夫からそれを丸投げされた。
翻訳・通訳機を〝破壊〟してしまうので、それらを使えない彼女は血の滲むような努力の結果として多国語を話せるようになったのである。
のほほんとした容姿に似合わず努力の人である、と言うより別な助手に頼むべきであったのでは? との疑問の声もある。才人がヌケているのは父親からの遺伝で間違いないだろう。
その母親がようやく落ち着いてきた女の子に様々な言語で話しかけてみるのだが全く通じていない。フランス語とオランダ語には僅かに反応したがやはり意味は通じないようである。
そんな二人の様子を見ながら才人と父親はココアを作っていた。やはり小さな子供を落ち着かせるには冬場はミルクココアであろう。異論は認める。
「とうちゃん、あの子いったい何なんだ?」
才人の問いに父親は考え込みながらココアの入ったミルクパンをゆっくりとかき回している。
「なあ、とうちゃん。聞いてる?」
「あ、ああ。すまんな。聞いてるぞ」
「あの子どこから来たんだろ」
父親は眉根を寄せた厳しい表情で鍋を見つめながら才人の問いに答える。
「俺の予想が正しいなら、もうすぐ政府の緊急放送がある。ひょっとしたらもう軍が出動して、こっちに向かっているかもな」
「ええっ! なんで?」
「母さんには悪いが携帯の通訳機能を使ってあの子の言葉をモニターしてるんだよ」
そう言うと父親は才人から見えない反対側の耳を指さす。そこにはワイヤレスの携帯端末用イヤフォンが収まっている。
「翻訳・通訳機能はネットワークで言語データーベースに繋がっているからテューリアン語から地球上のマイナーな言語まで、既知の物は全てカバーしている。だが、あの子の言葉だけは全て〝翻訳不能〟として返って来る」
暖まったココアをマグカップに注ぎながら父親は更に続ける。
「才人、お前の後ろにあった鉢植えが消えてるだろ?」
その言葉に才人がそこを見ると母親が毎日世話をしている確かにそこに有るはずの観葉植物が跡形もなく消えていた。
「あくまでも俺の推測でしかないが、あの子は地球人じゃない」
父親はココアの入った四つのカップをトレーに乗せると才人にクッキーを持ってくるように言いつけた。
戸棚からクッキーを出して母親と女の子がいるダイニングの一角へと向かいながら才人は父親に聞く。
「じゃあジェヴレン人?」
「ジェヴレニーズなら言葉が翻訳不能なんて有り得ない。それに普通は高次空間による瞬間移動だとしたら、周囲に洒落にならん重力異常が発生する」
父親はカップをテーブルに置きながら言葉を続ける。
「惑星の大気圏内に高次空間移動するなんて自殺行為だしな。例外なく周囲を巻き込んで吹っ飛ぶ。だがあの女の子も俺たちも無事だ。となると通常の高次空間移動とは考えられない」
父親はいつもの自分の椅子に座ると才人と妻の顔を見てから、突然現れた女の子に視線を移した後、自分のマグカップを見つめる。
「この子は奇妙な現象の後に俺たちの目の前に現れて、代わりに家にあったエバーフレッシュが消え去った。似たような事はブレーン宇宙間の共鳴状態での相互作用で起こる可能性はあるんだが……」
父親がそこまで言った時、リビングにあるテレビから政府の緊急放送が流れて来た。
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「そんでココアを飲み終わって何とかお互いの名前が理解できた時に防護服を着込んだ軍人さん達が来たんだよな」
長方形の高カロリー食を囓りながら才人が言う。彼は学院の寮にあるルイズの部屋で遅い夕食を食べていた。太陽は既に落ちて空には二つの月が昇っていた。
それを見た時に才人は「おお! 本当に月が二つだ。しかもでかっ! 潮汐力とか、どうなってんだろ」とロマンの欠片も無い発言をする。予備知識はあるし理系だしで仕方ないとは思うが、もう少し言い方があるのではなかろうか。
一方、ルイズの方は才人から強奪した戦闘糧食二型の牛丼セットに舌鼓を打っていた。好物のクックベリーパイを食べている時以上に蕩けるような顔をしている。
「あの時は、ほんんんっとうにっ! 怖かったわ。小母様のお陰でやっと落ち着いたと思ったら、緑色の変な服を着た人達に囲まれて車に押し込まれて、着いた先ではベッドしか置いてない真っ白な部屋に閉じこめられて」
ルイズは少しだけ眉をしかめ辛そうな顔になり応えるが、器用に箸を使って牛丼を一口頬張るとまた蕩けるような顔に戻った。
ちなみにこの牛丼セットの内容はレトルト・パックの飯と具、副菜(白菜とキュウリのお新香)そしてフリーズドライの味噌汁となっている。
ルイズは学院の調理場まで足を運んで鍋にお湯を沸かしてもらうと嬉々として飯と具のレトルト・パックをそこに放り込む。
そんなルイズの行動に怪訝な顔をする調理人・使用人達を
そして運ばれて来たそれを付属の耐水耐熱紙で出来た丼に開けている時の恍惚としたルイズを見て、才人は「この牛丼ジャンキーめ」と呆れながらも相づちを打つ。
「そりゃまあ訳も分からずにいきなり隔離施設に放り込まれたら怖がるのは当たり前だよな。でもさ、お前が致死性の病原体を持っているかも知れなかったし、逆に俺たちにとって何でもない物が、お前には致命的だったりするかも知れなかったんだぜ? それに俺も親父とお袋と一緒に隔離されたし」
「わぁってるわよ。ところでお兄、これで温たまがあると最高なんだけど。ねぇーお兄ぃー今度作ってよぉー」
猫なで声で何を言ってやがりますか。温泉たまごは温度管理がキモなんだぞ。温度計なんか持ってきてねーし。ダメだこいつ。よし、厳しい現実を突きつけてやろうじゃないか、と才人はルイズに語りかける。
「なあルイズ。お前さん毎日牛丼を食うつもりか?」
才人の問い掛けに、きょとんとした顔でルイズは箸をくわえたまま才人を見つめる。
ほっぺたにご飯粒を付けたまま子猫のように良く動いていた瞳をこらしてじっと見ながら、こくりと肯いた。
その様子を見て、可愛いじゃねーかこんにゃろが、と思いながら才人は続ける。
「そうか。さてルイズさん。残りの牛丼セットは十九食な訳だが、お前は〝まだ十九食もある〟と考えている事と思う。だがしかし! 地球製で今のところ今後の補充が望めないそれは〝あと十九食しかない〟のだ! さあルイズ!
びしっ! と人差し指を突きつける才人。ルイズは「あっ!」と言うと、わなわなと震えながら自分の持つあと一口で完食する牛丼を見つめる。
「七日に、いえ十日に一回……。それなら百九十日……。七年間、無くても平気だったし……。ああっ! でもっ、でもっ!」
箸を握りしめて紙製の
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隔離された当初、ルイズは恐怖と不安から泣き叫んでいた。
それはそうだ。彼女にしてみれば恐ろしい格好をした者達に囲まれて変な馬車に押し込められたと思ったら、着いた先では奇妙なマスクを被った全身白ずくめの怪人達に押さえつけられて、杖を取り上げられた上に使用人が着るような薄い生地の上着にズボンを着せられた。そうして真っ白で窓もない部屋に一人ぼっちにされた。
「こわい! たすけて! ちいねえさま……かあさま……」
心細さに泣きながら家族の名を呼ぶルイズ。
「……エレねえさま……ひくっ……とうさま……」
何の事情も知らない子供には恐怖以外の何ものでもなかっただろう。この出来事は暫くルイズにトラウマを残したのだが、それはまた別の話である。
しかしルイズは元々は聡明な子である。一週間もすると恐怖心を乗り越え自分の周囲を冷静に観察しはじめる。
食事は果物の味を薄くしたような得体の知れないゼリー状のものだったが不味いと言う程ではない。
白ずくめの怪人達に力ずくで何かされたのは最初の時だけで、今では彼等は着替えを手伝ってくれたり、ベッドのシーツを交換してくれたり、部屋に備え付けられているお風呂に入れてくれたりと、何かと身の回りの世話を焼いてくれる。
最初は使用人の服だと思っていたものは、どうやら寝間着らしい。肌触りがもの凄く良くさらさらしている。
それにお風呂に入れられた時に使われる髪や体を洗う時に使われる液状の石鹸と思われる液体はほんのりと花の香りがする。体を拭くタオルの柔らかさはまるで羽毛のようだ。
そうして落ち着いてきたルイズは、自分の世話をしている怪人達の声が女性ばかりである事に、ようやく気付いたのである。
その頃、およそ一週間隔離されていた平賀家一同は未知の病原体等への感染が認められなかったとして解放された。
しかしながら突然現れた女児については極秘事項とされ、非常事態宣言について一般には、警報で東京として判定されたのは地球側監視網のセンサーの幾つかがプログラムのミスで誤作動しており、計算結果に誤りが生じた為である。実際は銀河系の反対側に発生した小規模なエネルギー移送によるもので、今回の件で監視網の問題点が確認された事は幸い、つまり誤報であると発表された。
そんな事もあって彼とその家族は家に帰れない状態である。近所や才人の学校には「父親の仕事の関係で、急に半年ほど家族全員で海外へ行く事になった」と連絡されていた。
「それで宝条、あの子についてどこまで分かった?」
そう言ったのは才人の父親である。
ここは施設の一室。部屋に居るのは彼ともう一人だけである。
「見た目は我々人類と完全に同じだね。内臓やら骨格やら全く一緒。口腔内粘膜から採取した細胞を調べた結果、アミノ酸がL体に糖がD体と地球生命と同じだったのは幸いだったよ。スタッフに食事の準備で苦労させなくて済むからね。さて続きだが、染色体の数や形状、遺伝情報がヌクレオチドに結合したATGCの塩基で表せる事、細胞内の蛋白質の種類に代謝の仕組みやら諸々全て我々と全く同じ。だがゲノム解析で興味深いものが見つかったよ。まずはミトコンドリアのDNA型だが、彼女の持つ型は地球人にもジェヴレン人にも存在しない」
宝条と呼ばれた人物は一気に言うとスクリーンに画像を呼び出す。
「もう一つはここ。遺伝情報で松果体ニューロンのシナプス結合の仕方を決める部分が我々とは根本的に違う。実際の画像で見ると良く分かるよ。画像の左側が彼女の脳、右側が七歳前後の〝人類〟の女児の脳の三次元スキャン画像だ」
所長は端末を操作して画像を回転させたり一部を強調表示に切り替えたりしながら説明を続ける。
「ほらここ、松果体の形状と大きさが明らかに違うだろ? 我々に比べて体積比でおよそ三倍、ヨモギの葉の様な形状で左右に明確に分かれている。内分泌以外にどんな機能を持つのか実に興味深いよ。この二つに着目すると彼女は人類とは近縁だけど別種と仮定できると思う。確実に判断するには脳内活動領域の常時モニターと血液の生化学検査が必要だがね。それで君の方では何か分かったかい?」
「テューリアン側と共同でやっているが、ブレーン宇宙間で共鳴状態が発生した事以外に何も分かっていないよ」
問われた才人の父親は力無く首を横に振り言葉を続ける。
「あれ程の質量が実体を持ったまま移動したのに重力異常が全く観測されないなんて理論上では有り得ない。彼女と同じ質量を持つ物質をブレーン間で物質のまま移動させようとした時、通常空間に現れる曲率を計算すると、関東一円が消滅して全地球的に壊滅的な被害を及ぼす大災害になる。それを防ぐにはストレス・フィールドで移動対象を通常空間から切り離して保護しながら曲率の大きいコンパクトな領域を通過させなきゃなん。しかも計算で求められる許容できる最小の大きさは半径およそ百メートルで我が家なんかすっぽり入ってしまう大きさだ。それにどっちにしても重力異常は発生する。ところがあの子は、理論的に不可能な極小、いや極微と言って差し支えない領域に重力異常も発生させず生身で現れた。まるで魔法だ、お手上げだよ」
この時に言った最後の言葉が事実を言い当てていた事が判るには、まだ情報が不足していたのである。
暫く沈黙した後、才人の父親が所長に確認するように言う。
「あの子は、君たち生物学者にとって貴重なサンプルなんだろうな」
「ああ、確かにそう見る連中は多いかもね」
「だがな、詰まるところ彼女は親からはぐれた迷子なんだ。迷子は親元へ帰すのが筋だろ?」
才人の父親はそこで言葉を区切り宣言する。
「俺たち〝関東工科大学・高次物理学研究所〟はテューリアンの研究者達と協力して、生きたままの彼女を必ず親元へ送り届けてみせる」
「まあ言いたい事は分かるが、日本政府や国連の意向はどうするんだい? それに世界中の科学者連中が黙っていないと思うけどね」
「そん時は〝糞食らえ〟とでも言ってやるさ。こっちには心優しい巨人たちが味方に付いてるんだ」
所長の問いに悪びれる様子もなく、笑いながら彼はそう言い切ったのである。