にぎやかな街の中で、紅瑚の足取りは、他の者よりもゆるやかだった。
どこへ行かなければならないということもなく、急ぐ必要もない。この街における紅瑚の状況は、極めて呑気なものだった。
多くの宿が軒を連ね、呼び込みの声があちらこちらで旅人の袖を引く。
ここは、温泉地だ。質のよい温泉が、湯量豊富に湧いている。それが国内外から人を呼び、それを当て込んだ商売が賑やかに街を飾っていた。
この街を行き交う者の多くは、よそ者だ。見慣れぬ顔を、住民がじろじろと不審そうに見ている暇はない。よそ者の一人である紅瑚も、気楽でいられるという訳だ。
ひと仕事終えると、紅瑚はよくこの街を訪れる。休養をとるには相応しい街だ。
紅瑚の腰には、緋色の鞘に今はおとなしく納まっている一振りの剣がある。こちらの手入れは既に済んでいて、今度は紅瑚の体と心が癒される番だ。
馴染みの宿は、空いているだろうかと、少々心配しながら、紅瑚の足はある門の前で止まった。
ここに来るつもりはなかったが、架かる看板を目にすると、寄らずにはいられない気分になる。
門をくぐり、数歩進んだところに直ぐにその扉がある。
扉を押すと、そこにはうっすらと優しげな花の香りが漂っていた。
「おや、紅瑚さん。お久しぶりですね」
入り口近くで、すぐに声がかかった。
「ああ、久しぶりだね。このところ仕事が重なってね」
本当にこのところ、休む暇なく仕事が続いた。それは、とても結構なことなのだが、たまには休みをとらなければ、この仕事を続けることはできない。
「すみませんね。もう少ししたら、先生の手が空きますんで、少しお待ちいただいてもいいですか?」
「じゃあ、待たせてもらうよ」
紅瑚は外衣を脱ぎ、剣を預けた。とたんに身が軽くなるような、心細いような感覚がした。
「お茶をお持ちしますね」
紅瑚から剣を受け取ると、その女はやわらかく微笑んだ。
「ああ、頼むよ」
紅瑚は勝手知ったるという様子で、壁際に置かれた卓の前の椅子に、どかりと座った。
周囲を見回すと、紅瑚の他には座って待っている者は誰もいなかった。ただ、部屋の奥には幕でいくつかに仕切られたところがあり、中には人の気配がした。
ここは、揉み治療院だ。
ここで先生と呼ばれる男の治療の腕はなかなか評判が良い。少しくらい待っても、施術を受ける価値がある。
運ばれた茶をすすりながら、紅瑚は緩やかに流れる空気を楽しんでいた。
どれほど待っただろうか、奥の方で幕のひとつが上がり、中年の男が出て来た。
この男がここの先生で、字を寿治という。
「では、少し休んでいってください」
中の患者に話しかけているのだろう。どうやら施術が終わったようだ。それに対して微かな声が聞こえてきたが、何を言っているのかは、紅瑚には分からなかった。
寿治は、紅瑚の姿に気付くと、微笑みながら軽く目で礼をした。
「お久しぶりですね。また随分とお疲れのご様子で」
「分かるかい?」
紅瑚は、ニヤリとした。
「ええ」
寿治は、頷いた。
紅瑚の目は、紅い。それが気味悪いという者もある。そして、それが紅瑚にとても似つかわしいと言う者もある。
この瞳で生まれてきた娘に、母親は紅瑚と名づけたのだ。