『高嶺に咲く花』 天涯Ⅴ   作:清夏

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『過去の記憶』

 

 

 

 紅湖が用心棒として雇われて二日目の夜のことだ。

 

 離れにある広間。おそらく食べ残されるであろう皿の数々。どの料理も美味しそうなのはもちろん、美しく盛り付けられていた。

 

 目の前に並べられたそれらを、蘭嶺はちらとも見ない。

 

 紅瑚は、そんな蘭嶺の後ろに控えていた。

 

 

 

 芸妓が花のように舞うのにも、美しい旋律にも、蘭嶺の心が留まることはなかった。

 

 硝子玉のように透明な瞳は、ただ遠くにあるばかりで、この世界とは交わることなどない。

 

 魂の入っていない、キレイな器。息をしているだけの人形。

 

 紅瑚の蘭嶺の印象は、最初から何ら変化していなかった。

 

 

 

 この時までは。

 

 

 

 蘭嶺の白い手が、卓にかけられた白布のひだを摑んだ。

 

 あっと言う間もなく、その手は布を引いた。

 

 あまりにも唐突なことに、紅瑚はそれが幻のように感じた。

 

「峰主さま!」

 

 蘭嶺の侍女が、甲高い声を上げて、紅瑚はようやくそれが現実であることを認識した。

 

 けたたましく床に叩きつけられる皿のことごとくは割れ去り、その上で夢のように魅力的な姿でいたはずの料理たちは、一瞬にして汚物と化す。

 

 音楽は止み、舞手たちは支えを見失い、芥のように崩れ落ちた。

 

 

 

 紅瑚は、ただ見ていたに過ぎない。蘭嶺の行動も、周囲の驚愕も、紅瑚の仕事とは別のところにあった。

 

 蘭嶺を守ることが紅瑚の仕事だ。だが、紅瑚が出来ることなど、どこにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたらいいのか……」

 

 蘭嶺に付き従い、寝室の扉の向こうにいったんは消えた若い方の侍女が、ひとりうなだれながら姿を現した。

 

 独り言のようなものをこぼしたことを、紅瑚は聞き逃さなかった。むしろ、紅瑚に聞かせるために女はこぼしてみせたのだろう。聞いてやらねば、ならないだろう。

 

「医者に診せなくていいのかい?」

 

 紅瑚は、女の目を覗き込んだ。

 

 女は灰色の瞳をしていた。

 

「峰主様は、心が壊れてしまったんです」

 

 抽象的な言い様だが、嶺蘭のことを一言で表すには、最適な言葉といえる。けれど、紅瑚は一言で済ませて欲しくはなかった。

 

「どうしてそんなことになったんだい?」

 

 深入りするなと、誰かに忠告されたこともある。

 

『根っからのおせっかいやき』

 

 自分で言った言葉が、追いかけてやってくる。

 

 それでも、そういう性分だ。

 

 紅湖は溜息ひとつで、そんな忠告を切り捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

「恵彩」

 

 その声が、紅湖と侍女の間に割り入ってきた。

 

 初対面の日に、紅湖に『よろしく』とも、『御願い』とも思わずに、『よろしく御願いしますよ』と言い放った女だ。

 

 おそらく、この女が最も古株で、最も発言力のある侍女なのだろう。そして、最も蘭嶺に近い存在であると自負しているに違いない女だ。

 

「悪いけれど、向こうの片付けを御願いできる?」

 

 おそらくは、『悪い』とも、『御願い』とも思っていない。女は、相手の都合など受け容れない強さをもって、恵彩という侍女を紅湖から遠ざけようとしている。

 

 恵彩は、既におよび腰だ。もはや、何も話しはしないだろう。

 

「はい」

 

 小さく頷いて、恵彩は紅湖の脇をすり抜けていった。

 

 背後に、遠ざかるその足音を聞きながら、紅湖は古株の侍女を見据えていた。

 

「何を話してもらえるんだい?」

 

 

 

「どこまで、あなたがしてくださるかによりますが、話さなければ、あなたは何もしてはくれないでしょうね」

 

 女は、溜息を包み隠さずに落としてみせた。

 

「さあ、どうだろう」

 

 慎重に紅湖は、探りを入れる。

 

「私は、人を見る目があると思って生きてきました。けれど、今はとんだ節穴だったと笑っているところです。何も、誰も信じられない。だから、私は、あなたを信じられません。けれど、あなたには力がある。それだけでいいんです。その力で、峰主さまを守ってください」

 

 女は実際にすがりつくようなことはしなかったが、紅湖は女が迫ってくるのを感じた。

 

「その峰主というのは一体なんのことなんだ」

 

 紅湖はむしろ冷静に、女に問い重ねた。

 

「峯晶宮をご存知ですか?」

 

 感情を抑えるように、女は胸のあたりに手を置いた。

 

「占いの姫の館だとか」

 

 過去をぴたりと当てる。そういう女がいるということを、紅湖もどこかしらで聞いたことがあった。

 

「その館を峯晶宮と、私どもは呼んでいました。そしてそこの主が、峰主さまです」

 

「そして、それが『蘭嶺さま』です。という訳か」

 

 紅湖は、女の口調を真似て、話を継いだ。

 

「その御名を口にするのも畏れ多いということで、私達は峰主さまとお呼びします。けれど、蘭嶺さまというのも実は、仮の名にすぎません」

 

「本当はなんと呼ぶのが正しいのかい?」

 

 そんなにいつくも呼び名があっては、面倒だ。

 

「本当の御名は実は分かりません。誰も、ご本人もご存知ではないはず」

 

 女は惑いつつも、軽く笑みを含んで言った。

 

「どういうことだ?」

 

 紅湖は眉を顰める。

 

「峰主さまには、5年より前の記憶がないのです」

 

「は? それはまた、奇妙な話だね」

 

「そうですね。他人の過去をぴたりと言い当てる占いの姫が、実は自分の過去を知らないでは、説得力がありませんね」

 

 それを言うということは、紅湖を信頼しているということなのか、破れかぶれなのか。

 

 紅湖は、密かに後者ではないかと思っていた。

 

 

 

 

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