紅湖が用心棒として雇われて二日目の夜のことだ。
離れにある広間。おそらく食べ残されるであろう皿の数々。どの料理も美味しそうなのはもちろん、美しく盛り付けられていた。
目の前に並べられたそれらを、蘭嶺はちらとも見ない。
紅瑚は、そんな蘭嶺の後ろに控えていた。
芸妓が花のように舞うのにも、美しい旋律にも、蘭嶺の心が留まることはなかった。
硝子玉のように透明な瞳は、ただ遠くにあるばかりで、この世界とは交わることなどない。
魂の入っていない、キレイな器。息をしているだけの人形。
紅瑚の蘭嶺の印象は、最初から何ら変化していなかった。
この時までは。
蘭嶺の白い手が、卓にかけられた白布のひだを摑んだ。
あっと言う間もなく、その手は布を引いた。
あまりにも唐突なことに、紅瑚はそれが幻のように感じた。
「峰主さま!」
蘭嶺の侍女が、甲高い声を上げて、紅瑚はようやくそれが現実であることを認識した。
けたたましく床に叩きつけられる皿のことごとくは割れ去り、その上で夢のように魅力的な姿でいたはずの料理たちは、一瞬にして汚物と化す。
音楽は止み、舞手たちは支えを見失い、芥のように崩れ落ちた。
紅瑚は、ただ見ていたに過ぎない。蘭嶺の行動も、周囲の驚愕も、紅瑚の仕事とは別のところにあった。
蘭嶺を守ることが紅瑚の仕事だ。だが、紅瑚が出来ることなど、どこにもなかった。
「どうしたらいいのか……」
蘭嶺に付き従い、寝室の扉の向こうにいったんは消えた若い方の侍女が、ひとりうなだれながら姿を現した。
独り言のようなものをこぼしたことを、紅瑚は聞き逃さなかった。むしろ、紅瑚に聞かせるために女はこぼしてみせたのだろう。聞いてやらねば、ならないだろう。
「医者に診せなくていいのかい?」
紅瑚は、女の目を覗き込んだ。
女は灰色の瞳をしていた。
「峰主様は、心が壊れてしまったんです」
抽象的な言い様だが、嶺蘭のことを一言で表すには、最適な言葉といえる。けれど、紅瑚は一言で済ませて欲しくはなかった。
「どうしてそんなことになったんだい?」
深入りするなと、誰かに忠告されたこともある。
『根っからのおせっかいやき』
自分で言った言葉が、追いかけてやってくる。
それでも、そういう性分だ。
紅湖は溜息ひとつで、そんな忠告を切り捨てた。
「恵彩」
その声が、紅湖と侍女の間に割り入ってきた。
初対面の日に、紅湖に『よろしく』とも、『御願い』とも思わずに、『よろしく御願いしますよ』と言い放った女だ。
おそらく、この女が最も古株で、最も発言力のある侍女なのだろう。そして、最も蘭嶺に近い存在であると自負しているに違いない女だ。
「悪いけれど、向こうの片付けを御願いできる?」
おそらくは、『悪い』とも、『御願い』とも思っていない。女は、相手の都合など受け容れない強さをもって、恵彩という侍女を紅湖から遠ざけようとしている。
恵彩は、既におよび腰だ。もはや、何も話しはしないだろう。
「はい」
小さく頷いて、恵彩は紅湖の脇をすり抜けていった。
背後に、遠ざかるその足音を聞きながら、紅湖は古株の侍女を見据えていた。
「何を話してもらえるんだい?」
「どこまで、あなたがしてくださるかによりますが、話さなければ、あなたは何もしてはくれないでしょうね」
女は、溜息を包み隠さずに落としてみせた。
「さあ、どうだろう」
慎重に紅湖は、探りを入れる。
「私は、人を見る目があると思って生きてきました。けれど、今はとんだ節穴だったと笑っているところです。何も、誰も信じられない。だから、私は、あなたを信じられません。けれど、あなたには力がある。それだけでいいんです。その力で、峰主さまを守ってください」
女は実際にすがりつくようなことはしなかったが、紅湖は女が迫ってくるのを感じた。
「その峰主というのは一体なんのことなんだ」
紅湖はむしろ冷静に、女に問い重ねた。
「峯晶宮をご存知ですか?」
感情を抑えるように、女は胸のあたりに手を置いた。
「占いの姫の館だとか」
過去をぴたりと当てる。そういう女がいるということを、紅湖もどこかしらで聞いたことがあった。
「その館を峯晶宮と、私どもは呼んでいました。そしてそこの主が、峰主さまです」
「そして、それが『蘭嶺さま』です。という訳か」
紅湖は、女の口調を真似て、話を継いだ。
「その御名を口にするのも畏れ多いということで、私達は峰主さまとお呼びします。けれど、蘭嶺さまというのも実は、仮の名にすぎません」
「本当はなんと呼ぶのが正しいのかい?」
そんなにいつくも呼び名があっては、面倒だ。
「本当の御名は実は分かりません。誰も、ご本人もご存知ではないはず」
女は惑いつつも、軽く笑みを含んで言った。
「どういうことだ?」
紅湖は眉を顰める。
「峰主さまには、5年より前の記憶がないのです」
「は? それはまた、奇妙な話だね」
「そうですね。他人の過去をぴたりと言い当てる占いの姫が、実は自分の過去を知らないでは、説得力がありませんね」
それを言うということは、紅湖を信頼しているということなのか、破れかぶれなのか。
紅湖は、密かに後者ではないかと思っていた。