男は、思いのほかよどみなく歩いていった。
何も見えていないはずなのに、まるで見えているかのようだとは言わないが、やや躊躇いながらも、細い杖で前を探りながら、男は前へ前へと進んでいく。それは男の努力の賜物とも言えるし、彼の行く手をさりげなく避ける周囲の協力のおかげとも言えた。
自分と同行することを断った男の後を、紅瑚は距離をとりながら追っていた。
彼が一人で帰れる、帰りたいと言っている以上、男に気付かれないように様子を見守っている紅瑚の行為は、余計なお世話以外のなにものでもない。だが、周りが見えていないという人間が、一人で宿までたどり着くのは、やはりかなり困難であろうことが予想された。そのまま放っておくのは、紅瑚としてはどうも気になって仕方がなかったのだ。
ただ、見ているだけ。
そう決めていたが、特に紅瑚が手助けしなくてはならないことは全くなく、男は宿にたどり着いた。
男に少し後れて、紅瑚も宿の門をくぐった。
紅瑚の訪れに、宿の主はことさらに嬉しそうな顔をした。幸い部屋も空いていて、暫く滞在する目処がたった。
「ただ、申し訳ないんですが、貸切風呂は今日は空いていないんですよ」
紅瑚が聞く前に、宿の主人は、すまなそうに言った。
ここは温泉地で、街にも共同浴場がある。そして並以上の宿は、浴場を備えていた。紅瑚が贔屓にしているこの宿では、男女別の大浴場の他に、時間で借り切ることのできる風呂場を小規模ながらも五つ持っていた。大きな風呂に入るのもいいが、貸切風呂は気兼ねなく風呂を楽しむにはいい。紅瑚は、ここに泊まる初日には、必ずそれを頼んでいた。
「ああ、いいよ。突然だったし、明日空いているようなら予約できるかい?」
「はい。まだ予約は埋まっていないので、時間を決めてください」
主人は、帳面を出して、貸切風呂の予約の状況を紅瑚に示した。
部屋は、狭いながらも紅瑚ひとりが泊まるには充分な広さだった。
いつもふらりとここに来るので、空いている部屋を使うことになる。馴染みの宿とはいえ、決まった部屋があるわけではない。
通りに面した窓を開けると、夕暮の涼しさをはらんだ風が飛び込んできた。
と、部屋の戸を叩く者があった。
「失礼します」
宿の主の息子の声だ。
紅瑚は、警戒することなく戸を開けた。
廊下には予想どおりに、伸行というここの息子が立っていた。二十歳そこそこだが、ちょっと前までは、紅瑚を師匠などと呼び、剣客になりたいので、弟子にしてくれとしつこく迫っていたものだった。
「見違えたね。すっかり大人じゃないか」
紅瑚がそう言うと、伸行はきまりの悪そうな顔をちらりと見せた。そうして、気を取り直して、挨拶をのべた。
「ありがとうございます。その節は、大変後迷惑をおかけいたしましたが、ここの仕事を継ぐことに決めました。今後とも、宜しく御願いいたします」
「やけに丁寧で、こっちがくすぐったいね。もうすこし肩の力を抜いてくれ」
伸行の肩を軽く叩き、紅瑚は微笑んだ。
こうして、子供だと思っていた者も大人になっていく。自分も年をとっている。いろいろ考えると、感慨深い。
「恐れ入ります」
伸行は丁寧な調子を崩すことなく、小さく頭を下げた。
紅瑚は、ふっと息をひとつ落とした。
「それで? わざわざ挨拶に来てくれたのかい?」
「あ、いえ。貸切風呂のことで、お知らせが」
「貸切風呂?」
つい先ほど入れた明日の予約のことだろうか。
「今日の予約の方から取り消しがありましたので、いかがかと思いまして」
「へえ、それは幸運だったね。是非、御願いするよ」
全くもって、運が良い。大浴場に行こうかと思っていたが、今日の紅瑚は、一人でのびのび風呂に浸かりたい気分だった。
伸行は、紅瑚の様子に嬉しそうな表情を見せた。宿の者としては、お客の喜ぶ姿はなによりだということだろう。
「知らせてくれてありがとう。それから、その丁寧な言葉使いはちょっと引っ込めてくれるかい?できれば、以前のようにね。その方があたしも気安くいられるからね」
伸行は、はいと応えて、今度は子供っぽい照れ笑いを浮かべた。