同じ宿に泊まっている者同士である。寿治のところで出逢った男と、紅瑚は何度かすれ違っていた。ただし、男は紅瑚の顔も見ていないし、見知った相手だとは認識していようもなかった。
紅瑚は、男の姿を見るたびに、どうしてあのように包帯を顔に巻くようなことになったものかと、考えていた。
男のことで、紅瑚が知っていることはほとんどない。
「カイリ」
と、呼ばれていたのが聞こえたので、名は何となく分かった。
それだけだ。
紅瑚もそれほどこの男に興味を持っているわけではなかった。
それよりも、実は気になる男がいた。
それは大男で、目立つ男だった。あまりにも凝視していたのを見かねてか、あれは『風渡りの珊揮』だと伸行が耳打ちをした。
風渡りの珊揮といえば、存在するのかすら疑わしい程の伝説の剣客で、何百年も前からその名を語られている豪傑だ。名を騙る者も、実は多い。いや、世間で動き回っているほとんどが偽者で、本物など存在しないのだと紅瑚は思っていた。
「あの男は、本物なのかい?」
紅瑚は、疑わし気にそう問うた。
「さあ、ホントのところは分かりませんが、珊揮さんは、父親が子供の頃から全然としをとってないという話ですよ」
紅瑚に対して、だいぶくだけた調子を取り戻した伸行は、不注意なくらいに泊まり客のことを話し始めた。
「ここにはもう一月以上いるんですよ。どうも怪我の治療の為みたいですね」
「へえ」
紅瑚は、関心を示してみせた。
「うちなんか一月も仕事をしなかったら干上がってしまうでしょうよ。まあ、そういうお客さんがいるから、うちの商売もなりたっているってもんですがね」
伸行の話は、どんどんと他の客のことに移ろっていった。もう少し珊揮の話を聞きたかったが、紅瑚は軽く相槌を打ちながら、伸行が喋るままにさせていた。
伸行の口は、例のカイリという男にも及んだ。
「それから戒莉さんは、剣客だったらしいですよ」
「そうは見えないね」
紅瑚は、カイリの姿を思い描いた。どう考えても、剣客は無理だ。
「でしょう。部屋の壁に剣がかけてありましてね。けっこう立派なもので、戒莉さんのものだって言うんですよ。それにね。他の客が見たって言うんですけど、体中に痣とか斬られた痕とかがあったらしいですよ」
「本当かい?」
人が聞いたの、見たの、という話はあてにならないものだ。
「本当みたいですよ。それを見られるのがどうも嫌らしくて、風呂はいつも貸切にするんですよ。ああ、そういえば、紅瑚姐さんが来た日に貸切風呂が空いたでしょう。あの予約していたのは、もともと戒莉さんだったんですよ」
「へえ、そうなのかい」
予約を取り消してくれたのは、それは有難かったとは思うが、それ以上には紅瑚の感情は、ここの時点では動かなかった。
「それが、姐さんに譲ってくれって言うんですよ。知り合いかと思っていんですが、違ったんですね」
「ああ、寿治先生のところで会ってはいたけど、名前もしらなかったよ」
紅瑚は、少なからず驚いていた。戒莉というあの男が、なぜ知り合いでもない紅瑚に風呂を譲る必要があったのだろうか。
考えられるのは、戒莉の後を紅瑚が付いていたことに気付いて、その返礼のつもりであったのかもしれないということだ。
だが、あのとき紅瑚は、充分に距離をとって後ろをついていたのだ。ましてや、戒莉は目が見えないのだ。それが気付くものだろうか?紅瑚は、首を傾げざるを得なかった。
「しまった。これは姐さんには言わない約束だったんですよ。まずいなあ、聞かなかったことにしてくれますか?」
他にも不用意に話してはいけないことを喋っていることになど気付きもせずに、伸行は紅瑚にそう手を合わせた。
「ああ、いいよ。だけど、これからは、客のことを他の客にはあまり話さない方がいいと思うよ」
喋らせるだけさせておいて、こんなことを言うのはなんだが、紅瑚はひとこと言わずにはおれなかった。紅瑚のことも、他で喋られてはかなわない。
「気をつけます。でも、こんなこと話すのは紅瑚姐さんだからですよ。他のお客には、絶対に話しませんよ」
伸行は、軽く口を尖らせた。
「そうかい?まあ、頼むよ」
何を頼んでいるのか、紅瑚は内心苦笑しながら、ややいかめしい顔を作って再度そう釘をさした。