『高嶺に咲く花』 天涯Ⅴ   作:清夏

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『夜に咲く花』

 紅瑚が、ここに来て三日ほどたった夜のことだ。

 目がさえて眠れなかった。しばらくは寝台の上で寝返りを打っていたのだが、思い切って起き上がった。

 少し身なりを整えて、そっと部屋を出てみた。

 月がほどよく光を放ち、辺りの闇は薄らいでいた。

 宿を出る気はなかった。ちょっと中庭で、夜風に当たれば気分も変るだろうと、思った程度だった。

 客は皆ねむっているのだろう。辺りはシンと静まり、世界中で紅瑚だけが目を覚ましているかのような感覚にとらわれそうになる。

 だが、それが間違いであることは、直ぐに分かった。

 中庭に面した廊下にしつらえられた縁台に、人の姿があった。紅瑚はふいをつかれて、どきりとした。紅瑚と同じく、寝付かれない客が出てきていても不思議はない。そう思い直しても、紅瑚の動揺は治まりきらなかった。

 

 どうやら女のようだ。

 女は柱にもたれかかり、ほとんど身を預けている状態だ。俯いて表情はうかがえないが、肩が揺れ、息が苦しげだ。こんなところに出てこないで、横になっていた方がいいのではないかと思える様子をしている。

「あんた、大丈夫かい?」

 紅瑚は、思ったままを口にし、女を覗き込んだ。

 女は突然ふりかかった声に、大儀そうにゆっくりと顔を上げた。

 顔色がひどく悪くても、その女の美しさには揺らぐものがなかった。

 こんな弱々しい姿なのに、その力は絶大で、女の紅瑚ですら惹きこまれるものがある。

 青白い肌はうっすらと汗を帯び、それが月明かりにキラキラとはじけている。長く黒い髪は、夜の河のように女の肩から背へと流れていた。

 女のまぶたが小さく上がる。ちらりと、そして鮮やかに、深淵の色をした瞳が紅瑚を見た。

 

―― 魔だ

 

 紅瑚の中の黒い渦が、激しく回り始めた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 紅瑚が眠りを手にしたのは、もう明け方近くのことだった。

 そうして、それから昼過ぎまで、夜の敵をとるように寝てしまった。

 

 ぼんやりとした頭で、紅瑚は寿治の治療院へと脚を向けた。どうにも、背中の調子が悪い。眠り方がよくなかったのだろうか。それほど繊細な体をしているつもりはなかったが、もしやこれが年をとったということなのだろうか。紅瑚は、感情がかるく落ち込むのを感じた。

「馬鹿め」

 そう口にして、己れを叱咤し、そして嗤う。

 年を重ねることを選んだのは、自分なのだ。

 

 

 

 

 寿治の治療院は、相変わらずの花の香りに包まれていた。

「少しお待ちください」

 寿治の助手をつとめる北枝は、一杯の茶と笑顔で出迎えてくれる。

 ここは、癒しの場であるのだと、しみじみと感じさせてくれる。

 茶の香りを楽しみながら、辺りを窺うと、またあの男がいた。

 包帯を巻かれた顔は、表情ひとつ透かし見ることができない。

 紅瑚は溜息を落とした。

 

 

 

 

「あんた、どこか悪いのか?」

 突然、紅瑚ひとりの世界に、男の声が闖入してきた。

「……」

 声をかけられるとは、思ってもみなかった紅瑚は、言葉を口に上らせることができなかった。

 男は紅瑚からの返事のないのを拒絶と感じたのか、問いを重ねてはこなかった。

 おそらく、このまま終わるだろうと思ったところで、紅瑚の口から言葉が出た。

「ただの骨休めだよ。まあ、年なのかね、あちこち体が軋んできてね」

 ことさらに年をとっているようなことを言っている自分が、おかしい。

「あんたは、剣客なのか?」

 唐突に、不躾に、男は紅瑚にきりこんできた。

「どうしてそう思ったんだい?」

「あんたは剣を下げてる」

 温泉地で、剣を下げている者はそうはいない。いるとすれば、それを下げねばならない商売の者だけだ。単純な話だ。

「見たのかい?」

 そうではないことを、紅瑚は確信していながら、口はそう訊いていた。

「いや、この通り何も見えない」

 男は、かるく包帯に隠された目元あたりに指をおいた。

「じゃあ、どうして分かる?」

「音がした」

 なるほど、と紅瑚は思う。

 この男の後をつけるとき、紅瑚はさほど気を付けてはいなかった。音を立てずに、などという配慮はあの雑踏の中でする必要がないと切り捨てていた。

「なるほどね」

 紅瑚が剣客であること。紅瑚が宿まで後をついてまわっていたこと。この男は気付いていた。それでいて、これまで何も言わずにいたということだ。

「ああ、でも分からないのは、なんであんたが俺を放っておかなかったのかだ」

 男の内に警戒があることが分かる。しかし、これを直接聞いてくるところが、男の性質を物語っている。

「あたしは、根っからのおせっかいやきでね。そうせずにはおれない性質なんだよ。あんたの為じゃない。心配になると、最後まで見届けないと、気になって仕方なくなるんだよ」

 男がこの説明で、納得するかどうかは分からない。だが、紅瑚にとっては正直なところだ。他に何んとも言いようがないのだ。

「ずんぶんと、面倒な性分だな」

「ああ、全く、自分でも呆れるよ」

 

 男の口元に、かすかに笑みが浮かぶのが見て取れた。

 

 

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