「上杉風太郎よ、知っているか? かの有名なルネサンス時代の画家、ラファエロ・サンティは三十七歳という若さで亡くなりながらも、百以上もの作品を遺したと言われている」
「……」
「この凄さが分からぬか? どんなに優れた画家でも、これだけの作品が現存することは滅多にないのだぞ? つまりだな、当時の民衆から見ても、ラファエロの作品には飛び抜けた価値があったということだ」
「……」
「芸術家は死後にようやく評価されるなどと宣う声もあるが、ラファエロの作品群にはそのような通説を打ち破ってしまうほどの魅力があったということだな。光と影の対比によって鮮麗に表現される色使いは、優雅としか言いようがあるまい」
「……で? 結局お前は何が言いたいんだ?」
「えっと、つまり貴様の100点のテストの影には、私のように0点のテストが存在していて、それらが渾然一体となってコントラストが生じるのだと──痛いっ!? 貴様叩いたな!? あろうことかうら若き乙女の頭を叩いたなっ!?」
テーブルに乗り出して涙目で抗議する六海と、それを片手で押さえつけながら赤ペンを走らせる風太郎である。
今は放課後。彼らは図書室に集まって、先ほどの授業で行われた小テストの復習を行っていた。なお、当然ながらもう一人のクラスメイトである五月は欠席である。
風太郎が親の仇のように睨みつけているテストには丸が一つも存在しない。つまりは0点のテストだ。それは目の前で呻き声を上げながら頭を抑えている問題児その6、中野六海のもの。風太郎が0点のテストを見るのは、これで二度目である。
「例えばこの問題。明らかにサービス出題な漢字の読み取りだ」
「ふむ」
風太郎が指し示した問題は『羅列』という漢字の読みを当てるもの。
「この問題の解答について、お前の言い分を聞いてやる」
「あれ? なんでバツが付いているんだ?
「……」
風太郎は色々な意味で言葉を失った。
「それじゃ、この選択問題は?」
「ああ、適当な答えを選べと言われたからな。適当に鉛筆を転がして選んでみたぞ」
「……」
風太郎の貧乏揺すりが加速する。
「極めつけはこの問題だ」
「古文の現代語訳か。これは自信があったやつだぞ」
「……じゃあなんで解答の中に『映え』だの『ンゴ』だの意味不明な文字列が含まれてんだよ」
「え? だって現代語に訳せって言われたから最近の日本語を──痛いっ!? またぶったな!? しかも今度はグーでやっただろう!? 凄く痛かったぞっ!」
「うるせえええっ! こんなクソみたいな解答する奴の家庭教師しなくちゃならない俺の気持ちも考えろ!」
大量の訂正が記入された0点のテストをテーブルに叩きつけると、風太郎は荷物を抱えて図書室を出ていく。
「ま、待て! 貴様、困っている生徒を放って自分だけ帰るつもりか!?」
「それだけやってもまだ足りないのか!? ヒント書いてやったんだから、後は自分でやりやがれ!」
「い、いや、それは一人でも出来るんだが、その……」
苛立たしげな一瞥を送る風太郎に、六海はモジモジとした様子で言った。
「ひ、一人で先生に見せに行くの怖い……」
「……」
風太郎は六海を置き去りにして帰った。
「は、ハクジョー者! 父上と二乃姉ぇに言いつけてやる!」
「図書室ではお静かにお願いします」
「ひゃ!? あ、あぅ。ご、ごめんなさい……」
注意をした司書に対し、ペコペコと赤べこのように頭を下げ続ける六海。二乃や五月にも手を焼かされているが、彼女は別の意味で風太郎の懸念となっていた。
9月30日、日曜日。
中野六海はこの日をずっと待っていた。
「ふはははははっ! 進む! 面白いほど筆が進むぞっ!」
木材に張られたキャンバスの上に、己の感性の赴くまま筆を走らせる。日曜日には、煩わしい登校時間も、授業という拘束時間もない。思う存分、自分の大好きな絵の世界に没頭することができるのだ。
誰にも強制されることなく、誰にも見張られることなく、孤独な自由を六海は謳歌する。
自分だけの世界で、誰も見たことがない景色を生み出していく感覚。それは芸術を愛し、芸術に傾倒する者にしか味わえない。六海はその感覚が、堪らなく好きだった。
それにここ最近は、学校の授業や宿題に加え、上杉風太郎という家庭教師の存在から、ただでさえプライベートの時間が少なかったのだ。こんな日くらい、思いっきり好きなことに夢中になって何が悪い。
「……」
そのはずなのに、脳裏にはやけにあの男の言葉がチラつく。
──ちゃんと宿題やったか。この公式は覚えておくと便利だぞ。やった努力は嘘をつかない。
怒涛の勢いで振るっていた筆先から、段々と速度が失われていく。キャンバスに描かれているのが、通っている旭高校の校舎だと気付いた時、六海はイーゼルに筆を置いてから叫んだ。
「うっざああああああいっっ!!」
人目を憚らない少女の叫び声が、屋根裏の部屋に反響する。
「勉強勉強って! 人生勉強だけじゃないだろう! 私は絵に命を懸けてるんだ! なのになのになのに……!」
ちらっと勉強机に目を向ける。ちょっと勉強してみようかなと開くだけ開いて、全く理解できなかったのでそのままにしている教科書がそこにはあった。
「あーもう! あんな家庭教師相手に私も何やる気出してるんだ! 勉強なんて大嫌いなのに! 我ながら単純すぎるぞっ!」
うあーっと声にならぬ呻き声を上げながら髪を振り回す。
紆余曲折はあったものの、元々中野姉妹は学力不足で黒薔薇女子を落第したのだ。もちろん六海もその例に漏れない。
美術部一の実力者ながら謎に包まれた存在。それが黒薔薇女子での六海に対する評判だった。
何度コンテストに入賞しようが、決して表彰式には現れない幻の生徒。それ故に、噂に尾鰭が付きまくっていたのである。曰く、絵を描く為だけに開発された
なお、実際には六海が人前に立つことを拒み続けた結果なのだが。姉たちに代わりに出てとお願いするも六海の格好を真似したくないと断られたので、こんな風に謎めいた存在になってしまったのである。
「六海ちゃん、今日はやけに元気だねぇ」
「うひゃっ!? あ、な、なんだ一花姉か……」
「うんうん、皆の一花お姉ちゃんですよー」
驚いて振り返ると、そこにはハッチから顔だけを覗かせる中野家長女・一花の姿があった。
「い、一花姉ぇ、いつからそこに……?」
「えっと──『ふはははははっ!』の辺りからかな」
「ほぼ最初からだよねそれ!?」
「ごめんごめん。凄く熱中してるみたいだったから声掛けるの悪いと思って」
本当は末っ子の様子を見て楽しんでいただけなのだが、単純な六海はその出任せを信じた。
「むぅ、それはすまなかった。して一花姉、何かあったのか?」
「あ、六海ちゃんやっぱり忘れてる」
「えっ、何かあったっけ……? ま、まさか機関が忘却術式を展開しているのかっ!? き、気をつけろ一花姉! この私が気付かないレベルだと、既にこの街一帯に術式が──」
「今日の夜は花火大会だから準備しといてね。それじゃー」
「…………わすれてた」
今日の予定を思い出す。
しばらく呆然と立ち尽くしていた六海だが、やがて笑顔を満開にしてから屋根裏を飛び出した。
「一花姉、二乃姉ぇ! 浴衣の着方教えてっ! 何なら着せてっ!」
「うわっ、アンタ顔も服も絵の具だらけじゃない! 洗濯しといてあげるからアンタはお風呂入ってきなさい!」
「そりゃあの勢いで描いてたら飛び散るよねぇ」
中野六海は美術も大好きだが、花火も大好きだった。
“好き”に理由は必要なのだろうか。
綺麗だから好き、可愛いから好き、格好良いから好き。
それは、理由になり得るのだろうか。
人類が幾星霜の時を経ても答えの出ていない永遠の命題である。
そしてとある少女もまた、その答えを探し求めていた。
『──お母さーんっ! 見て見てっ! 学校の授業で私が描いたんだよ!』
長い髪の女の子が、スーツを着た女性に駆け寄って一枚の画用紙を広げる。そこには、その女性がモデルと思われる絵が描かれていた。
お世辞にも、決して上手いとは言えない。いや、むしろ下手くそだ。線も構図も色使いも滅茶苦茶な、子供の描いた落書き。他人が見れば、そんな評価を下したとしても何ら不思議ではない。
だが、その女性にとってだけは別だった。
最愛の娘が、自分を想いながら一生懸命描いてくれたのだと伝わってくる一枚絵。
それはどんなに名画と呼ばれる作品よりも、彼女──中野零奈の心を揺さぶった。
だが、あいにく彼女は不器用で、この感動を娘にどう伝えればいいのかが分からない。だから零奈は、ありふれた称賛の言葉ではなく、行動で娘に伝えることにした。強く強く、大切な末の娘を抱きしめる。
『お母さん……? えへへ、くすぐったいよぉ』
そう言いながら、嬉しそうに抱き返す女の子。小さいのに、とてもあたたかい手が零奈の背中に触れる。
『私ね、もっとたくさん絵を描くよ! そしていつか、綺麗なお母さんの顔を、もっともっともーっと綺麗に描いてあげるからねっ!』
『それは楽しみです。私も六海の絵に恥じないくらい、綺麗にならないといけませんね』
『だいじょーぶだよっ! お母さんはこの世界で誰よりも何よりもいっちばん綺麗だもん!』
笑い合う母と娘。
『あなたの選んだ道の先に幸福があると信じています』
彼女の運命はここで決まった。
『喜びも悲しみも怒りも慈しみも──六人全員で六等分にするんですよ』
いっそ笑えてしまうくらいに決定的な
“好き”に理由は必要なのだろうか。
好きだから好き──それは、理由になり得るのだろうか。
でも、しょうがないのだ。
一度魅入られてしまったら、もうそこから逃れることはできないのだから。
好きは永遠なのだから。
たとえ失われたとしても、ずっと。
芸術とは茨の道だ。そして、果てのない深淵でもある。
だけど、もう後戻りはできない。
「人は死後に評価されるだと──ふざけるな」
母の生きた証を遺すことこそが、彼女の生きる意味になったあの日から。
「私はお母さんが生きていたことを知っている。全てをなげうって私達に尽くしてくれたことを知っている。あんなに優しい人の人生が間違いなはずがないって、私が証明してみせる」
それが破滅へと続く歪な呪いだとしても。
それが絶対に消えない十字架だとしても。
「お母さん、待っててね」
中野六海は命が燃え尽きるまで、その答えを探し続ける。