夫婦の決め事その1
「無闇やたらにあたしの頭を撫でるのは禁止だッ!」
「ふむ。ではどこを撫でればいいのだ?」
「~~ッ!! そーゆーコトじゃねえッ!」
「~♪ ~♪」
鼻歌を唄いながらクリスがリビングのカーペットにクリーナーを転がしている。
先日ハウスキーパーに掃除してもらったのだから、そんなに念入りに掃除しなくていいのにと弦十郎は思う。
率直にそう言ってみたところ、
「そんなんわかっているよ。でも、そういう心構えが大事だろ?」
などと言う。
それがクリスの言うところの『おもてなしの心』らしい。
まあ、正論ではあるかも知れぬ。
沈黙する弦十郎を、クリスはしっしと手で払う。
「おっさんは邪魔だからあっちで待っててくれ」
せっせと掃除するクリスの姿は実に甲斐甲斐しい。
しかし、そんな邪険にせんでも。一応、俺が家主なのだがな。
そんな風に弦十郎が考えていると、クリスはくるりと振り向いた。
「あー、そういや例のハウスキーパーだけど、もう来てもらわなくてもいいんじゃ?」
「なぜだ?」
「なぜって、あたしが掃除しているんだから、人を雇うのは無駄だろ?」
偽装結婚なのに、そんなおさんどんの真似はしなくていいぞ。
そう言いかけて弦十郎は止めた。
どうせクリスのことだ。そう告げたところで、同居の恩義だなんだといって主張を譲ることはないだろう。
「さあて、これで終わりっと」
掃除を終えてクリスは額の汗を拭った。
腕まくりした袖を降ろし、それからなんとも困惑したような声音でぼやく。
「しっかし、先輩が折り入って挨拶に来たいってなあ…」
風鳴翼が、弦十郎宅に結婚祝いに行きたいと先触れの連絡を寄越したのが三日前。
「まあ身内だからな」
結果として、翼に対する結婚の報告が一番最後になってしまった。
ゆえに彼女が卒倒し寝込んでしまったわけだが、その理由は弦十郎も良く分からない。
「そうだよな、先輩とも身内になったんだよなあ…」
しみじみ言うクリス。
いわば親族の関係となってしまったことに、弦十郎は特に何も心配していない。
翼とクリスは共に戦ってきた仲間である。
その紐帯は、そこいらの家族などより、よほど深いだろう。
しかし今、一つ懸念があるとすれば、翼の訪問を予告する連絡の直後、マリアより送られてきたメールである。
『翼はようやく復調したのだから、くれぐれも強いショックを与えないように』
長ったらしい文面の内容を要約するとこれだった。
「ショックを与えるなっても、何をどうすりゃいいんだ?」
クリスはバリバリと頭を掻いている。
意味が良く分からないのは弦十郎も同じだった。
それでもクリスが持て成しのお茶や菓子を用意して、時刻はちょうど来訪予告の五分前。
訪問を告げるインタホーンが鳴る。
「…お、お邪魔しますッ」
「おう、翼。良く来たな」
弦十郎は鷹揚に手を挙げてみせるが、翼の反応は鈍い。
普段の風鳴翼を知る人間にとっては珍しいことに、彼女は緊張しているよう。
「よう。先輩、久しぶり」
クリスも軽く頭を下げて挨拶。
「う、うむ。雪音も息災そうだなッ!」
語尾が甲高く上がっている。
「まあ、立ち話もなんだ。さっそく中に入ってくれ」
弦十郎が促すと、大きな包みを抱えた翼はおっかなびっくり室内へと入ってきた。
リビングへ案内し、座布団を勧める。
座った翼は、周囲を見回して言う。
「こ、ここが叔父上と雪音の愛の巣か…」
豪快にサマーソルトキックのように足を滑らせるクリスを、弦十郎が受け止める。
「何口走ってんだよ、アンタは!?」
「…すまない。私も叔父上の自宅を訪ねるのは初めてで…」
まるで答えになっていない。
クリスは肩を竦めると、キッチンへと消えた。
弦十郎は翼の前に胡坐をかいて座り込む。
「そういえば、おまえを家に呼ぶのは初めてだな」
「ええ…」
「普段は歌手活動も忙しいからな」
弦十郎は破顔した。
我が姪ながら、彼女の活躍は見事の一言に尽きる。
防人の活動に加え、芸能活動こそ風鳴一族としては表立って誇れないが、弦十郎としては自慢の身内だ。
実はこっそりと彼女名義のCDはコンプリートしていたりする。
かちゃかちゃと音を立て、クリスがお茶セットをお盆に載せてやってくる。
急須から湯呑に注がれるのは緑茶で、淹れるクリスの手並みも見事である。
なのにどうして食事はあれだけ下手なのだろう?
そんなことを考えている間に、クリスは淹れたお茶を翼に勧めている。
「…粗茶ですが」
「お気遣いありがたく」
「よければお菓子もどうぞ」
「ありがとうございます、頂きます…」
なんともぎこちないやりとりをする二人を眺め、弦十郎は無責任に思った。
なんか見合いみたいだな。
「御馳走様でした」
お茶を飲み干し、翼は居住まいをただす。
それから手をついて頭を下げてきた。
「このたびは、ご結婚おめでとうございます」
「ご、ご丁寧な挨拶、痛み入ります…」
弦十郎そっちのけで応じるクリス。
「これは、つまらない品ですが…」
翼が例の大きな包みを押し出してくる。
「わざわざ、御心遣い、ありがとうございます」
そう言って受け取ったものの、クリスが困惑した眼差しで見てくる。
今開けていいものかどうか迷っているようだ。
弦十郎が頷くと、クリスは丁寧に包み紙を開けた。
そして、中から出てきた分厚い板のようなものを見て歓声を―――上げずに戸惑っている。
「ほう。これは見事な将棋盤だなッ!」
「国産本榧製の逸品です」
翼が慎ましやかに胸を張る。
「併せて駒も用意しました。将棋は戦略勘を鍛える上でも実に興味深い遊戯ですので…」
弦十郎は嬉しそうに頷いて見せた。
我が姪ながら、実に良い趣味をしている。
横でクリスがなんとも微妙すぎる表情を浮かべているように見えたが、きっと気のせいだろう。
「素晴らしい祝いをもらってしまったな。是非使わせてもらおう」
「実はマリアもなかなかの指し手でして」
話が盛り上がりかけたところに、クリスが割って入ってきた。
「先輩、これ、この間の旅行の土産だッ!」
「あ、ありがとう、雪音…」
渡された温泉饅頭の箱を、どこかぼんやりと抱えていた翼だったが、やがて思いついたように顔を上げる。
「しかし…叔父上と結婚して身内となったというのに、雪音と呼ぶのはおかしいのではないかな?」
「それを言うなら…あたしも先輩を先輩って呼ぶのは、おかしいのか…?」
二人して、どういうわけか弦十郎を見てきた。
「む?」
弦十郎が微動だにしないと、二人は再び視線を絡めあい、そして、
「…そ、その、クリス?」
「え、と…翼、さん…?」
「…………」
「…………」
顔を見合わせての沈黙。
だが、間もなくクリスの方から爆発。
「だーッ! ダメだ! 背中が痒い! 痒すぎるッ!」
「…実は私もおも歯がゆくてたまらないぞ」
「止めよう! 先輩!」
「そうだな、やはり雪音と呼んだ方が座りが良い」
互いにコクコクと頷きあう様子を見て、弦十郎は朗らかに言った。
「二人とも死線を潜り抜けてきた真の仲間だからな。きっと魂の深い所でお互いを理解しているのだろう。しょせん名前の呼び方など些末なものだということだッ!」
「いや、おっさん、綺麗にまとめようとしてるけど、これはそーゆーコトじゃねーから」
クリスが呆れ顔で言い返してくる。
「しかし、雪音。結婚した伴侶を、おっさん呼ばわりというのもどうかと思うぞ?」
「やべえ、藪蛇だったか」
クリスは舌を出したあと、腕を組む。
「でも、おっさんはおっさんだしなー。他に呼び方なんて…」
「あなた、とか呼ぶのが普通ではないのか?」
翼の指摘に、クリスはちらりと弦十郎を見た。
頬を染め、唇を震わせながら、
「あ、あ、あな…………が~ッ! やっぱりダメだッ!」
頭を抱えて悶絶している。
まるで海老のように反っているクリスは、見た目としては面白い。
そんな風に当座の自分の伴侶を見ていた弦十郎だが、翼が膝を変えて向き合ってきた。
「叔父上、その、大変口幅ったいのですが、お爺様からは今回の結婚に関してはなんと…?」
「…一応、祝福されているぞ」
弦十郎は答えつつ、自分でも機嫌が急激に悪化していることが分かる。
翼は更に探るように問うて来た。
「よもや、早く子供を作れなどと言われませんでしたか?」
「………」
弦十郎は沈黙する。
その表情から察したのだろう。翼は溜息をついて俯いた。
しかし毅然と顔を上げると、
「叔父上。雪音は、私にとっては信に足る仲間であり、可愛い後輩であり、親しい友人でもあります。その上で、どうか彼女の心を無碍にして下さいますな」
「む?」
「我ら防人は国防の要です。次世代を育むも、なるほど防人の務めと相成りましょう。しかしながら雪音はまだ学生の身。学び舎で友と過ごす時間は、何物にも代えがたい貴重なもの…」
なんとも持って回った言い回しに、弦十郎は眉顰めて耳を傾ける。
ちらりと傍らの温泉饅頭の箱を見てから、翼は意を決したような表情で続けた。
「このたびは、新婚旅行に行っていたと伺いました。…そ、その、夫婦という係りであれば、そ、その、情交を交わすのは当然でしょう。しかし…!!」
ようやく、弦十郎は翼が言わんとすることを理解する。
彼女の心を砕くところは、クリスが身籠ることに対する懸念に違いない。
風鳴赴堂の思惑や、確かに夫婦間の情動もあろう。
だが、まだ若いクリスの意志を汲んでやってくれ。彼女に青春を謳歌させてやってくれ。
仲間として、先輩として、友人として、風鳴翼なりに不器用にそう訴えているのだ。
…なるほど、この不器用さ、俺とお前は間違いなく血縁だな。
翼を見やり、弦十郎は率直に答えることにする。
「安心しろ。クリスくんはまだ生娘だぞ」
分厚い将棋盤で頭を殴られた。
「はっはっは、クリスくん、痛い痛い」
「夫婦間の秘密をペラペラ語ってんじゃねぇええええッ!!」
「なるほど、これは夫婦間の秘密に属するものか。うむ、覚えたぞ」
「…いいからもう黙ってろ、この唐変木ッ!」
弦十郎を睨み倒して、クリスは翼に向かいあう。双方とも顔は真っ赤だ。
「せ、先輩、勘違いすんなよッ? あたしが18になって学校を卒業するまで、お預けを喰わせてるだけなんだからなッ!」
お預けを喰わせたのはむしろこっちなんだが。弦十郎はそう思ったが、言われたとおり黙っていることにする。
「う、うむ。しかし、この間読んだティーン雑誌では、高校生の実に4割近くが体験済みだと…」
顔を赤く染めたままごにょごにょという翼に、クリスは大きなため息をついた。
「あんな無責任な雑誌の統計なんか信用するなよ。だいたい、それなら先輩もそうだったのか?」
「ぐっ」
「それに、先輩は来年には二十歳だろ? ティーン雑誌なんか卒業しろよ」
「むぐっ」
「そもそも余所様の夫婦生活に首を突っ込もうってのがおかしかねえ?」
「むぐぐぐ…ッ!」
まさしくぐうの音も出ず黙り込む翼に、最後にクリスが口にした台詞は、決して悪意に基づくものではない。
「…つーか先輩って、あんがいむっつり助平ってヤツな」
「ぐはッ!?」
正座のまま、翼は床に突っ伏した。
しばらくそうしていたが、やおら立ち上がると、
「…帰ります。お邪魔いたしました」
ふらふらと玄関へと向かう。
「お、おう。先輩、またな」
クリスの声に返事すらせず、翼は辞して行く。
「どこか具合でも悪くなったのかも知れんな」
弦十郎は首を捻りながら姪の後ろ姿を見送った。
まるでその背中が幽鬼じみて見えたのは事実である。
そしてその日の夜。
マリアから怒りの電話が着信。
『翼ったらまた寝込んじゃったんだけど! あなたたち、一体何をしたのッ!?』